七(659)、 御消息
▲御消息 第三
一
御文こまかにうけ給はり候ぬ。 かやうに申候事の、 一分の御さとりをもそへ、 往生の御心ざしもつよくなり候ひぬべからんには、 おそれをも、 はゞかりをも、 かへりみるべきにて候はず、 いくたびも申たくこそ候へ。
ま事にわが身のいやしく、 わが心のつたなきをばかへりみ候はず、 たれたれもみな人の、 弥陀のちかひをたのみて、 決定往生のみちに、 おもむけかしとこそおもひ候へども、 人の心さまざまにして、 たゞ一すぢにゆめまぼろしのうき世ばかりのたのしみ・さかへをもとめ0660て、 すべてのちの世をもしらぬ人も候。
又後世をおそるべきことはりをおもひしりて、 つとめおこなふ人につきても、 かれこれに心をうごかして、 一すぢに一行をたのまぬ人も候。 又いづれの行にても、 もとよりしはじめ、 おもひそめつる事をば、 いかなることはりきけども、 もとの執心をあらためぬ人も候。 又けふはいみじく信をおこして、 一す[ぢに]おもむきぬとみゆる程に、 うちすつる人も候。
かくのみ候て、 ま事しく浄土の一門にいりて、 念仏の一行をもはらにする人のありがたく候事は、 わが身ひとつのなげきとこそは人しれずおもひ候へども、 法によりて人によらぬことはりをうしなはぬ程の人も、 ありがたき世にて候。
おのずからすゝめ心み候にも、 われからのあなづらはしさに、 申いづることはりすてらるゝにこそなんど、 おもひしらるゝ事にてのみ候が、 心うくかなしく候て、 これゆへはいまひときは、 とくとく浄土にむまれてさとりをひらきてのち、 いそぎこの世界に返りきたりて、 神通方便をもて、 結縁の人をも无縁のものをも、 ほむるをもそしるをも、 みなことごとく浄土へむかへとらんとちかひをおこしてのみこそ、 当時の心をもなぐさむる事にて候に、 このおほせこそ、 わが心ざしもしるしある心ちして、 あまりにうれしく候へ。
その義にて候はゞ、 おなじくは、 まめやか0661にげにげにしく御沙汰候ひて、 ゆくすゑもあやうからず、 往生もたのもしき程に、 おぼしめしさだめおはしますべく候。 詮じては、 人のはからひ申すべき事にても候はず、 よくよく案じて御らん候へ。 この事にすぎたる御大事、 何事かは候べき。
この世の名聞・利養は、 中々に申ならぶるも、 いまいましく候。 やがて昨日・今日、 まなこにさへぎり、 みゝにみちたるはかなさにて候めれば、 事あたらしく申たつるにおよばず、 たゞ返々も御心をしづめて、 おぼしめしはからふべく候。
さきには聖道・浄土の二門を心えわきて、 浄土の一門にいらせおはしますべきよしを申候き。 いまは浄土門につきておこなふべき様を申候べし。
浄土に往生せんとおもはん人は、 安心・起行と申て、 心と行との相応すべき也。
その心といふは、 ¬観无量寿経¼ に釈していはく、 「もし衆生ありて、 かのくにゝむまれんとねがはんものは、 三種の心をおこしてすなはち往生すべし。 なにをか三つとする。 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心也。 三心を具せるもの、 かならずかのくにゝむまる」 といへり。
善導和尚この三心を釈していはく、 「一に至誠心といは、 至といは真也、 誠といは実也。 一切衆生の身口意業に修せんところの解行、 かならず真実心のなかになすべき事をあらはさんとおもふ。 ほかに0662は賢善精進の相を現じて、 うちには虚仮をなす事なかれ。 内外明闇をえらばず、 かならず真実をもちゐよ。 かるがゆへに至誠心となづく」 (散善義意) といへり。
この釈の心は、 至誠心といふは真実の心也。 その真実といふは、 身にふるまひ、 口にいひ、 心におもはん事、 みなま事の心を具すべき也。
すなはちうちはむなしくして、 ほかをかざる心のなきをいふ。 この心は、 うき世をそむきてま事のみちにおもむくとおぼしき人々のなかに、 よくよく用意すべき心ばへにて候也。
われも人も、 いふばかりなきゆめの世を執する心のふかゝりしなごりにて、 ほどほどにつけて名聞・利養をわづかにふりすてたるばかりを、 ありがたくいみじき事にして、 やがてそれを、 返りて又名聞にしなして、 この世さまにも心のたけのうるせきにとりなして、 さとりあさき世間の人の心のなかをばしらず、 貴がりいみじかるを、 これこそは本意なれ、 しえたる心ちして、 みやこのほとりをかきはなれて、 かすかなるすみかをたづぬるまでも、 心のしづまらんためをばつぎにして、 本尊・道場の荘厳や、 まがきのうちには、 木立なんどの心ぼそくも、 あはれならんことがらを、 人にみへきかれん事をのみ執する程につゆの事も、 人のそしりにならん事あらじと、 いとなむ心よりほかにおもひさす事もなきやうなる心ちして、 仏のちかひ0663をたのみ、 往生をねがはんなんどいふ事をばおもひいれず、 沙汰もせぬ事の、 やがて至誠心かけて往生もえせぬ心ばへにて候也。
又かく申候へば、 一づにこの世の人目をばいかにもありなんとて、 人のそしりをかへりみぬがよきぞと申べきにては候はず。 たゞし時にのぞみたる譏嫌のために、 世間の人目をかへりみる事は候とも、 それをのみおもひいれて、 往生のさわりになるか[た]をばかへりみぬ様にひきなされ候はん事の、 返々もおろかにくちおしく候へば、 御身にあたりても、 御心えさせまいらせ候はんために申候。
この心につきて、 四句の不同あるべし。 一には、 外相は貴げにて、 内心は貴からぬ人あり。 二には、 外相も内心もともに貴からぬ人あり。 三には、 外相は貴げもなくて、 内心貴き人あり。 四には、 外相も内心もともに貴き人あり。
四人がなかには、 さきの二人はいまきらふところの至誠心かけたる人也、 これを虚仮の人となづくべし。 のちの二人は至誠心具したる人也、 これを真実の行者となづくべし。
されば詮ずるところは、 たゞ内心にま事の心をおこして、 外相はよくもあれあしくもあれ、 とてもかくてもあるべきにやとおぼへ候也。 おほかたこの世をいとはん事も、 極楽をねがはん事も、 人目ばかりをおもはで、 まことの心をおこすべきにて候也。 これを至誠心と申候也0664。
「二に深心」 といふは、 善導釈し給ひていはく、 「これに二種あり。 一には決定して、 わが身はこれ煩悩を具せる罪悪生死の凡夫也、 善根うすくすくなくして、 曠劫よりこのかた、 つねに三界に流転して、 出離の縁なしと信ずべし。
二には、 かの阿弥陀仏、 四十八願をもて衆生を摂取し給ふ。 すなはち名号を称する事、 下十声・一声にいたるまで、 かの願力に乗じて、 さだめて往生する事をうと信じて、 乃至一念もうたがふ心なきゆ[へ]に深心となづく。
又深心といふは、 決定して心をたてゝ、 仏教にしたがひて修行して、 ながくうたがひをのぞき、 一切の別解・別行・異学・異見・異執のために、 退失傾動せられざる也」 (散善義意) といへり。
この釈の心は、 はじめにはわが身の程を信じ、 のちにはほとけの願を信ずる也。 たゞし、 のちの信を決定せんがために、 はじめの信心をばあぐる也。
そのゆへは、 もしはじめの信心をあげずして、 のちの信心を出したらましかば、 もろもろの往生をねがはん人、 たとひ本願の名号をばとなふとも、 みづから心に貪欲・瞋恚等の煩悩をもおこし、 身に十悪・破戒等の罪悪をもつくりたる事あらば、 みだりに自ら身をひがめて、 返て本願をうたがひ候ひなまし。
いまこの本願に十声・一声まで0665に往生すといふは、 おぼろげの人にはあらじ。 妄念もおこらず、 罪もつくらず、 めでたき人にてぞあるらん。 わがごときのともがらの、 一念・十念にてはよもあらじとおぼへまし。
しかるを善導和尚、 未来の衆生の、 このうたがひをのこさん事をかゞみて、 この二種の信心をあげて、 われらごとき、 いまだ煩悩をも断ぜず、 罪をもつくれる凡夫なりとも、 ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、 一声にいたるまで決定して往生するむねを釈し給へり。
この釈のことに心にそみて、 いみじくおぼへ候也。 ま事にかくだにも釈し給はざらましかば、 われらが往生は不定にぞおぼへましと、 あやしくおぼへ候て、 さればこの義を心えわかぬ人やらん、 わが心のわろければ往生はかなはじなんどこそは、 申あひて候めれ。
そのうたがひの、 やがて往生せぬ心にて候けるものを、 たゞ心のよく・わろきをも返りみず、 罪のかろき・おもきをも沙汰せず、 心に往生せんとおもひて、 口に南無阿弥陀仏ととなへば、 声につきて決定往生のおもひをなすべし。
その決定の心によりて、 すなはち往生の業はさだまる也。 かく心うればうたがひもなし。 不定とおもへばやがて不定也、 一定とおもへば一定する事にて候也。
されば詮じては、 ふかく信ずる心と申候は、 南無阿弥陀仏と申せば、 その仏のちかひにて、 いかなると0666がをもきらはず、 一定むかへ給ふぞと、 ふかくたのみて、 うたがふ心のすこしもなきを申候けるに候。
又別解・別行にやぶられざれと申候は、 さとりことに、 行ことならん人のいはん事について、 念仏をもすて、 往生をもうたがふ事なかれと申候也。
さとりことなる人と申は、 天臺・法相等の八宗の学生これ也。 行ことなる人と申すは、 真言・止観等の一切の行者これ也。 これらはみな聖道門の解行也。 浄土門の解行にことなるがゆへに、 別解・別行となづくる也。
あらぬさとりの人に、 いひやぶらるまじき事はりをば、 善導こまやかに釈し給ひて候へども、 その文ひろくして、 つぶさにひくにおよばず。
心をとりて申さば、 たとひ仏きたりてひかりをはなち、 したをいだして、 煩悩罪悪の凡夫の念仏して一定往生すといふ事は、 ひが事ぞ信ずべからずとの給とも、 それによりて一念もうたがふ心あるべからず。
そのゆへは、 一切の仏はみなおなじ心に衆生をばみちびき給ふ也。 すなはちまづ阿弥陀如来、 願をおこしていはく、 「もしわれ仏になりたらんに、 十方の衆生、 わがくにゝむまれんとねがひて、 名号をとなふる事、 下十声・一声にいたらんに、 わが願力に乗じて、 もしむまれずんば、 正覚をとらじ」 (大経巻上意) とちかひ給ひて、 その願成就してすでに仏になり給へり。
しかるを釈迦ほとけ、 この世界0667にいでゝ、 衆生のためにかの仏の本願をとき給へり。
又六方におのおの恒河沙数の諸仏ましまして、 口々に舌をのべて三千世界におほふて、 无虚妄の相を現じて、 釈迦仏の弥陀の本願をほめて、 一切衆生をすゝめて、 かの仏の名号をとなふれば、 さだめて往生すととき給へるは、 決定してうたがひなき事也。 一切衆生みなこの事を信ずべしと証誠し給へり。
かくのごとき一切の諸仏、 一仏ものこらず同心に、 一切凡夫念仏して決定して往生すべきむねを、 あるいは願をたて、 あるいはその願をとき、 あるいはその説を証して、 すゝめ給へるうゑには、 いかなる仏の又きたりて、 往生すべからずとはの給べきぞといふことはりの候ぞかし。
このゆへに、 仏きたりての給ともおどろくべからずとは申候也。 仏なをしかり、 いはんや声聞・縁覚をや、 いかにいはんや凡夫をやと心えつれば、 一とたびもこの念仏往生の法門をきゝひらきて、 信をおこしてんのちは、 いかなる人とかく申とも、 ながくうたがふ心あるべからずとこそおぼへ候へ。 これを深心と申候也。
「三に廻向発願心」 といふは、 善導釈していはく、 「過去及今生の身口意業に修するところの世出世の善根、 および他の一切の凡聖の身口意業に修せんところの世出世の善根を随喜して、 この自他所修の善根をもて、 ことごとくみな真実深信の心0668のなかに廻向して、 かのくにゝむまれんとねがふ也。
又廻向発願心といふは、 かならず決定真実の心のなかに廻向してむまるゝ事をうるおもひをなせ。 この心ふかく信じて、 なをし金剛のごとくして、 一切の異見・異学・別解・別行の人のために動乱破壊せられざれ」 (散善義意) といへり。
この釈の心は、 まづわが身につきて、 さきの世およびこの世に、 身にも口にも心にもつくりたらん功徳、 っみなことごとく極楽に廻向して往生をねがふ也。
つぎにはわが身の功徳のみならず、 こと人のなしたらん功徳をも、 仏・菩薩のつくらせ給ひたらん功徳をも随喜すれば、 みなわが功徳となるをもて、 ことごとく極楽に廻向して往生をねがふ也。
すべてわが身の事にても、 人の事にても、 この世の果報をもいのり、 おなじくのちの世の事なれども、 極楽ならぬ余の浄土にむまれんとも、 もしは都率にむまれんとも、 もしは人中天上にむまれんとも、 たとひかくのごとく、 かれにてもこれにても、 こと事に廻向する事なくして、 一向に極楽に往生せんと廻向すべき也。
もしこの事はりをもおもひさだめざらんさきに、 この世の事をもいのり、 あらぬかたへも廻向したらん功徳をもみなとり返して、 往生の業になさんと廻向すべき也。
一切の善根をみな極楽に廻向すべしと申せばとて、 念仏に帰して一向に念仏申さん人の、 こ0669とさらに余の功徳をつくりあつめて廻向せよとには候はず。 たゞすぎぬるかたにつくりおきたらん功徳をも、 もし又このゝちなりとも、 おのづから便宜にしたがひて、 念仏のほかの善を修する事のあらんをも、 しかしながら往生の業に廻向すべしと申す事にて候也。
「この心金剛のごとくにして、 別解・別行にやぶられざれ」 と申候は、 さきにも申候つる様に、 ことさとりの人におしへられて、 かれこれに廻向する事なかれと申候心也。 金剛はやぶれぬものにて候なれば、 たとへにとりて、 この心やぶられぬ事も金剛のごとくなれと申候にやとおぼへ候。 これを廻向発願心とは申候也。
三心のありさま、 おろおろ申ひらき候ぬ。 「この三心を具してかならず往生す。 一の心もかけぬれば、 むまるゝ事をえず」 (礼讃) と善導は釈し給ひたれば、 往生をねがはん人は最もこの三心を具すべき也。
しかるにかやうに申したるには、 別々にて事々しきやうなれども、 心えとくには、 さすがにやすく具しぬべき心にて候也。
詮じては、 たゞま事の心ありて、 ふかく仏のちかひをたのみて、 往生をねがはんずるにて候ぞかし。 さればあさくふかくのかはりめこそ候へども、 さほどの心はなにかおこさゞらんとこそはおぼへ候へ。
かやうの事は、 うとくおもふおりに0670は、 大事におぼへ候。 とりよりて沙汰すれば、 さすがにやすき事にて候也。 よくよく心えとかせおはしますべく候。
たゞしこの三心[は、] その名をだにもしらぬ人もそらに具して往生し、 又こまかにならひ沙汰する人も返りて闕る事も候也。
これにつきても四句の不同候べし。 さは候へども、 又これを心えて、 わが心には三心具したりとおぼへば、 心づよくもおぼへ、 又具せずとおぼへば、 心をもはげまして、 かまへて具せんとおもひしり候はんは、 よくこそは候ひぬべければ、 心のおよぶ程は申候に候。
このうゑ、 さのみはつくしがたく候へば、 とゞめ候ぬ。 又このなかにおぼつかなくおぼしめす事候はんをば、 おのづから見参にいり候はん時、 申ひらくべく候。 これぞ往生すべき心ばへの沙汰にて候。 これを安心とはなづけて候也。
わたくしにいはく、 浄土門に入べき御消息ありけりと見えたり。 いまだたづねえず。
二
ある人のもとへつかはす御消息
念仏往生は、 いかにもしてさはりを出し、 難ぜんとすれども、 往生すまじき道理は0671おほかた候はぬ也。
善根すくなしといはんとすれば、 一念・十念もるゝ事なし。 罪障おもしといはんとすれば、 十悪・五逆も往生をとぐ。 人をきらはんといはんとすれば、 常没流転の凡夫をまさしきうつは物とせり。 時くだれるといはんとすれば、 末法万年のすゑ、 法滅已後さかりなるべし。
この法はいかにきらはんとすれども、 もるゝ事なし。 たゞちからおよばざる事は、 悪人をも時をもえらばず、 摂取し給ふ仏なりとふかくたのみて、 わが身をかへりみず、 ひとすぢに仏の大願業力によりて、 善悪の凡夫往生をうと信ぜずして本願をうたがふばかりこそ、 往生にはおほきなるさはりにて候へ。
一 いかさまにも候へ、 末代の衆生は今生のいのりにもなり、 まして後生の往生は念仏のほかにはかなふまじく候。 源空がわたくしに申す事にてはあらず、 聖教のおもてにかゞみをかけたる事にて候へば、 御らんあるべく候也。
三
熊谷の入道へつかはす御返事
○御文よろこびてうけ給はり候ぬ。 まことにそのゝちおぼつかなく候つるに、 うれしくおほせられて候。 たんねんぶつの文かきてまいらせ候、 御らん候べし。
◇念仏の0672行は、 かの仏の本願の行にて候。 持戒・誦経・誦呪・理観等の行は、 かの仏の本願にあらぬおこなひにて候へば、 極楽をねがはん人は、 まづかならず本願の念仏の行をつとめてのうゑに、 もしことおこなひをも念仏にしくわへ候はんとおもひ候はゞ、 さもつかまつり候。
◇又たゞ本願の念仏ばかりにても候べし。 念仏をつかまつり候はで、 たゞことおこなひばかりをして極楽をねがひ候人は、 極楽へもえむまれ候はぬ事にて候よし、 善導和尚のおほせられて候へば、 但念仏が決定往生の業にては候也。 善導和尚は阿弥陀の化身にておはしまし候へば、 それこそは一定にて候へと申候に候。
◇又女犯と候は不婬戒の事にこそ候なれ。 又御きうだちどものかんだうと候は、 不瞋戒のことにこそ候なれ。 されば持戒の行は、 仏の本願にあらぬ行なれば、 たへらんにしたがひて、 たもたせ給べく候。 けうやうの行も仏の本願にあらず、 たへんにしたがひて、 つとめさせおはしますべく候。 又あかゞねの阿字の事も、 おなじことに候。
◇又さくぢやうの事も、 仏の本願にあらぬつとめにて候。 とてもかくても候なん。 又かうせうのまんだらは、 たいせちにおはしまし候。 それもつぎの事に候。 たゞ念仏を三万、 もしは五万、 もしは六万、 一心に申させおはしまし候はんぞ、 決定往生のおこなひにては候。 こと善根は0673、 念仏のいとまあらばの事に候。
◇六万遍をだに申させ給はゞ、 そのほかにはなに事をかはせさせおはしますべき。 まめやかに一心に、 三万・五万、 念仏をつとめさせ給はゞ、 せうせう戒行やぶれさせおはしまし候とも、 往生はそれにはより候まじきことに候。
◇たゞしこのなかにけうやうの行は、 仏の本願の行にては候はねども、 八十九にておはしまし候なり。 あひかまへてことしなんどをば、 まちまいらせさせおはしませかしとおぼへ候。 あなかしこ、 あなかしこ。
○五月二日 源空 御自筆也
四
ある時の御返事
およそこの条こそ、 とかく申におよび候はず、 めでたく候へ。 往生をせさせ給ひたらんには、 すぐれておぼへ候。 死期しりて往生する人々は、 入道どのにかぎらずおほく候。
かやうに耳目おどろかす事は、 末代にはよも候はじ。 むかしも道綽禅師ばかりこそおはしまし候へ、 返々申ばかりなく候。
たゞしなに事につけても、 仏道には魔事と申す事の、 ゆゝしき大事にて候なり。 よくよく御用心候べきなり。 かやうに不思議をしめすにつけても、 たよりをうかゞふ事も候ひぬべきなり。 め0674でたく候にしたがひて、 いたはしくおぼえさせ候て、 かやうに申候なり。 よくよく御つゝしみ候て、 ほとけにもいのりまいらせさせ給ふべく候。
いつか御のぼり候べき、 かまえてかまえて、 のぼらせおはしませかし。 京の人々おほやうは、 みな信じて念仏をもいますこしいさみあひて候。 これにつけても、 いよいよすゝませ給ふべく候。 あしざまにおぼしめすべからず候。 なをなをめでたく候。 あなかしこ、 あなかしこ。
四月三日 源空
熊谷入道殿へ
わたくしにいはく、 これは熊谷入道念仏して、 やうやうの現瑞を感じたりけるを、 上人へ申あげたりける時の御返事なり。▽