五(649)、 念仏往生義
▲念仏往生義 第一
念仏往生と申事は、 弥陀の本願に、 「わが名号をとなへんもの、 わがくにゝむまれずといはば、 正覚をとらじ」 (大経巻上意) とちかひて、 すでに正覚をなり給へるがゆへに、 この名号をとなふるものは、 かならず往生する事をう。
このちかひをふかく信じて、 乃至一念もうたがはざるものは、 十人は十人ながらむまれ、 百人は百人0650ながらむまる。 念仏を修すといへども、 うたがふ心あるものはむまれざるなり。
世間の人のうたがひに、 種々のゆへを出だせり。 あるいはわが身罪おもければ、 たとひ念仏すとも往生すべからずとうたがひ、 あるいは念仏すとも世間のいとまにひまなければ、 往生すべからずとうたがひ、 あるいは念仏すれども心猛利ならざれば、 往生すべからずとうたがふなり。 これらは念仏の功能をしらずして、 これらのうたがひをおこせり。
罪障のおもければこそ、 罪障を滅せんがために念仏をばつとむれ、 罪障おもければ、 念仏すとも往生すべからずとはうたがふべからず。 たとへばやまひおもければ、 くすりをもちゐるがごとし。 やまひおもければとて、 くすりをもちゐずは、 そのやまひいつかいえむ。
十悪・五逆をつくれる物も、 知識のおしへによりて、 一念・十念するに往生すとゝけり。 善導は、 「一声称念するに、 すなはち多劫のつみをのぞく」 (定善義) とのたまへり。 しかれば、 罪障のおもきは、 念仏すとも往生すべからずとはうたがふべからず。
又善根なければ、 この念仏を修して无上の功徳をえんとす、 余の善根おほくは、 たとひ念仏せずともたのむかたもあるべし。 しかれば善導は、 わが身をば善根薄少なりと信じて、 本願をたのみ念仏せよとすゝめ給へり。
¬経¼ (大経巻上意) に 「一たび名号をとなふるに、 大0651利をうとす。 すなはち无上の功徳をう」 とゝけり。 いかにいはんや、 念々相続せんをや。 しかれば、 善根なければとて念仏往生をうたがふべからず。
又念仏すれども心の猛利ならざる事は、 末世の凡夫のなれるくせ也。 その心のうちに、 又弥陀をたのむ心のなきにしもあらず。
たとへば主君の恩をおもくする心はあれども、 宮仕する時いさゝかものうき事のあるがごとし。 物うしといへども、 恩をしる心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずは、 いづれの行にか猛利ならん。 いづれも猛利ならざればなれども、 一生むなしくすぎば、 そのおはりいかん。 たとひ猛利ならざるにゝたれども、 これを修せんとおもふ心のあるは、 心ざしのしるしなるべし。
このめばおのづから発心すといふ事あり、 功をつみ徳をかさぬれば時々猛利の心もいでくる也。 はじめよりその心なければとてむなしくすぎば生涯いたづらにくれなん事、 後悔さきにたつべからず。
なかんづくに善導の御義には、 散動の機をえらばざる也。 しかれば、 猛利の心なければとて往生をうたがふべからず。
又世間のいとなみひまなければこそ、 念仏の行をば修すべけれ。 そのゆへは、 「男女・貴賎、 行住坐臥をえらばず、 時処諸縁を論ぜず、 これを修するにかたしとせず。 乃至臨終にも、 その便宜をえたる事、 念仏にはしかず0652」 (要集巻下) といへり。
余の行は、 ま事に世間怱々のなかにしては修しがたし。 念仏の行にかぎりては、 在家・出家をえらばず、 有智・无智をいはず、 称念するにたよりあり。 世間の事にさへられて、 念仏往生をとげざるべからず。
たゞし詮ずるところ、 无道心のいたすところ也。 さればとて世間をもすてざるものゆへ、 世間にはゞかりて念仏せずは、 我が身にたのむところなく、 心のうちにつのるところなし。
うけがたき人身をうけ、 あひがたき仏法にあへり。 无常念々にいたり、 老少きはめて不定なり。 やまひきたらん事かねてしらず、 生死のちかづく事たれかおぼへん。 もともいそぐべし、 はげむべし。
念仏に三心を具すといへるも、 これらのことはりをばいでず。 三心といは、 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心なり。
至誠心といは、 真実の心なり。 往生をねがひ念仏を修せんにも、 心のそこよりおもひたちて行ずるを、 至誠心といふ。 心におもはざる事を外相ばかりにあらはすを、 虚仮不実といふ也。 心のうちに又ふたゝび生死の三界に返らじとおもひ、 心のうちに浄土にむまれんとおもひて念仏すれば往生すべし。
このゆへには、 その相も見へざるが往生する事あり、 ほかにその相みゆれども往生せざるもあり。 たゞ心につらつら有為无為のありさまをおもひしりて、 この身をいとひ念0653仏を修すれば、 自然に至誠心をば具する也。
深心といは、 信心也。 わが身は罪悪生死の凡夫と信じ、 弥陀如来は本願をもて、 かならず衆生を引接し給ふと信じてうたがはず、 念仏せん物むまれずは正覚をとらじとちかひて、 すでに正覚をなり給へば、 称念のものかならず往生すと信ずれば、 自然に深心をば具する也。
廻向発願心といふは、 修するところの善根を極楽に廻向して、 かしこに生ぜんとねがふ心也。 別の義あるべからず。
三心といへるは、 名は各別なるにゝたれども、 詮ずるところは、 たゞ一向専念といへる事あり。 一すぢに弥陀をたのみ念仏を修して、 余の事をまじへざる也。
そのゆへは、 寿命の長短といひ、 果報の深浅といひ、 宿業にこたへたる事をしらずして、 いたづらに仏・神にいのらんよりも、 一すぢに弥陀をたのみてふた心なければ、 不定業をば弥陀も転じ給へり、 決定業をば来迎し給ふべし。
无益のこの世をいのらんとて大事の後世をわするゝ事は、 さらに本意にあらず。 後生のために念仏を正定の業とすれば、 これをさしをきて余の行を修すべきにあらざれば、 一向専念なれとはすゝむる也。
たゞし念仏して往生するに不足なしといひて、 悪業をもはゞからず、 行ずべき慈悲をも行ぜず、 念仏をもはげまざらん事は、 仏教のおきてに相違する也。
たとへば父母の慈悲は、 よ0654き子をも、 あしき子をもはぐゝめども、 よき子をばよろこび、 あしきをばなげくがごとし。
仏は一切衆生をあはれみて、 よきをも、 あしきをもわたし給へども、 善人を見てはよろこび、 悪人を見てはかなしみ給へる也。 よき地によき種をまかんがごとし。
かまへて善人にして、 しかも念仏をも修すべし。 これを真実に仏教にしたがふ物といふ也。
詮ずるところ、 つねに念仏して往生に心をかけて、 仏の引接を期して、 やまひにふし、 死におよぶべからんに、 おどろく心なく往生をのぞむべき也。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ▽