(649)、 念仏往生義

念仏ねんぶつおうじょう第一だいいち

念仏ねんぶつおうじょうもうすことは、 弥陀みだ本願ほんがんに、 「わがみょうごうをとなへんもの、 わがくにゝむまれずといはば、 しょうがくをとらじ」 (大経巻上意) とちかひて、 すでにしょうがくをなりたまへるがゆへに、 このみょうごうをとなふるものは、 かならずおうじょうすることをう。

このちかひをふかくしんじて、 ない一念いちねんもうたがはざるものは、 じゅうにんじゅうにんながらむまれ、 ひゃくにんひゃくにん0650ながらむまる。 念仏ねんぶつしゅすといへども、 うたがふこころあるものはむまれざるなり。

けんひとのうたがひに、 種々しゅじゅのゆへをだせり。 あるいはわがつみおもければ、 たとひ念仏ねんぶつすともおうじょうすべからずとうたがひ、 あるいは念仏ねんぶつすともけんのいとまにひまなければ、 おうじょうすべからずとうたがひ、 あるいは念仏ねんぶつすれどもこころみょうならざれば、 おうじょうすべからずとうたがふなり。 これらは念仏ねんぶつのうをしらずして、 これらのうたがひをおこせり。

ざいしょうのおもければこそ、 ざいしょうめっせんがために念仏ねんぶつをばつとむれ、 ざいしょうおもければ、 念仏ねんぶつすともおうじょうすべからずとはうたがふべからず。 たとへばやまひおもければ、 くすりをもちゐるがごとし。 やまひおもければとて、 くすりをもちゐずは、 そのやまひいつかいえむ。

じゅうあくぎゃくをつくれるものも、 しきのおしへによりて、 一念いちねんじゅうねんするにおうじょうすとゝけり。 善導ぜんどうは、 「いっしょうしょうねんするに、 すなはちこうのつみをのぞく」 (定善義) とのたまへり。 しかれば、 ざいしょうのおもきは、 念仏ねんぶつすともおうじょうすべからずとはうたがふべからず。

また善根ぜんごんなければ、 この念仏ねんぶつしゅしてじょうどくをえんとす、 善根ぜんごんおほくは、 たとひ念仏ねんぶつせずともたのむかたもあるべし。 しかれば善導ぜんどうは、 わがをば善根ぜんごんはくしょうなりとしんじて、 本願ほんがんをたのみ念仏ねんぶつせよとすゝめたまへり。

¬きょう¼ (大経巻上意) に 「ひとたびみょうごうをとなふるに、 だい0651をうとす。 すなはちじょうどくをう」 とゝけり。 いかにいはんや、 念々ねんねん相続そうぞくせんをや。 しかれば、 善根ぜんごんなければとて念仏ねんぶつおうじょうをうたがふべからず。

また念仏ねんぶつすれどもこころみょうならざることは、 まっぼんのなれるくせなり。 そのこころのうちに、 また弥陀みだをたのむこころのなきにしもあらず。

たとへば主君しゅくんおんをおもくするこころはあれども、 みやづかえするときいさゝかものうきことのあるがごとし。 ものうしといへども、 おんをしるこころのなきにはあらざるがごとし。

念仏ねんぶつにだにもみょうならずは、 いづれのぎょうにかみょうならん。 いづれもみょうならざればなれども、 いっしょうむなしくすぎば、 そのおはりいかん。 たとひみょうならざるにゝたれども、 これをしゅせんとおもふこころのあるは、 こころざしのしるしなるべし。

このめばおのづから発心ほっしんすといふことあり、 こうをつみとくをかさぬれば時々ときどきみょうこころもいでくるなり。 はじめよりそのこころなければとてむなしくすぎばしょうがいいたづらにくれなんこと後悔こうかいさきにたつべからず。

なかんづくに善導ぜんどうおんには、 散動さんどうをえらばざるなり。 しかれば、 みょうこころなければとておうじょうをうたがふべからず。

またけんのいとなみひまなければこそ、 念仏ねんぶつぎょうをばしゅすべけれ。 そのゆへは、 「男女なんにょせん行住ぎょうじゅう坐臥ざがをえらばず、 しょ諸縁しょえんろんぜず、 これをしゅするにかたしとせず。 ないりんじゅうにも、 その便びんをえたること念仏ねんぶつにはしかず0652 (要集巻下) といへり。

ぎょうは、 まことけん怱々そうそうのなかにしてはしゅしがたし。 念仏ねんぶつぎょうにかぎりては、 ざいしゅっをえらばず、 有智うち无智むちをいはず、 しょうねんするにたよりあり。 けんことにさへられて、 念仏ねんぶつおうじょうをとげざるべからず。

たゞしせんずるところ、 道心どうしんのいたすところなり。 さればとてけんをもすてざるものゆへ、 けんにはゞかりて念仏ねんぶつせずは、 にたのむところなく、 こころのうちにつのるところなし。

うけがたき人身にんじんをうけ、 あひがたき仏法ぶっぽうにあへり。 じょう念々ねんねんにいたり、 ろうしょうきはめてじょうなり。 やまひきたらんことかねてしらず、 しょうのちかづくことたれかおぼへん。 もともいそぐべし、 はげむべし。

念仏ねんぶつ三心さんしんすといへるも、 これらのことはりをばいでず。 三心さんしんといは、 いちにはじょうしんには深心じんしんさんにはこう発願ほつがんしんなり。

じょうしんといは、 真実しんじつこころなり。 おうじょうをねがひ念仏ねんぶつしゅせんにも、 こころのそこよりおもひたちてぎょうずるを、 じょうしんといふ。 こころにおもはざることそうばかりにあらはすを、 虚仮こけじつといふなりこころのうちにまたふたゝびしょう三界さんがいかえらじとおもひ、 こころのうちにじょうにむまれんとおもひて念仏ねんぶつすればおうじょうすべし。

このゆへには、 そのそうへざるがおうじょうすることあり、 ほかにそのそうみゆれどもおうじょうせざるもあり。 たゞこころにつらつら有為うい无為むいのありさまをおもひしりて、 このをいとひねん0653ぶつしゅすれば、 ねんじょうしんをばするなり

深心じんしんといは、 信心しんじんなり。 わが罪悪ざいあくしょうぼんしんじ、 弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんをもて、 かならずしゅじょういんじょうたまふとしんじてうたがはず、 念仏ねんぶつせんものむまれずはしょうがくをとらじとちかひて、 すでにしょうがくをなりたまへば、 しょうねんのものかならずおうじょうすとしんずれば、 ねん深心じんしんをばするなり

こう発願ほつがんしんといふは、 しゅするところの善根ぜんごん極楽ごくらくこうして、 かしこにしょうぜんとねがふこころなりべつあるべからず。

三心さんしんといへるは、 各別かくべつなるにゝたれども、 せんずるところは、 たゞ一向いっこう専念せんねんといへることあり。 ひとすぢに弥陀みだをたのみ念仏ねんぶつしゅして、 ことをまじへざるなり

そのゆへは、 寿じゅみょうちょうたんといひ、 ほう深浅じんせんといひ、 宿しゅくごうにこたへたることをしらずして、 いたづらにぶつしんにいのらんよりも、 ひとすぢに弥陀みだをたのみてふたごころなければ、 じょうごうをば弥陀みだてんたまへり、 けつじょうごうをば来迎らいこうたまふべし。

やくのこのをいのらんとてだい後世ごせをわするゝことは、 さらにほんにあらず。 しょうのために念仏ねんぶつ正定しょうじょうごうとすれば、 これをさしをきてぎょうしゅすべきにあらざれば、 一向いっこう専念せんねんなれとはすゝむるなり

たゞし念仏ねんぶつしておうじょうするにそくなしといひて、 悪業あくごうをもはゞからず、 ぎょうずべき慈悲じひをもぎょうぜず、 念仏ねんぶつをもはげまざらんことは、 ぶっきょうのおきてにそうするなり

たとへば父母ぶも慈悲じひは、 よ0654をも、 あしきをもはぐゝめども、 よきをばよろこび、 あしきをばなげくがごとし。

ぶつ一切いっさいしゅじょうをあはれみて、 よきをも、 あしきをもわたしたまへども、 善人ぜんにんてはよろこび、 悪人あくにんてはかなしみたまへるなり。 よきによきたねをまかんがごとし。

かまへて善人ぜんにんにして、 しかも念仏ねんぶつをもしゅすべし。 これを真実しんじつぶっきょうにしたがふものといふなり

せんずるところ、 つねに念仏ねんぶつしておうじょうこころをかけて、 ぶついんじょうして、 やまひにふし、 におよぶべからんに、 おどろくこころなくおうじょうをのぞむべきなり

南無なも弥陀みだぶつ 南無なも弥陀みだぶつ