0735法然上人伝法絵 下巻

 

七箇条起請文

一  あまねく門人もんにん念仏上人とうつげ たまはく。

いまだ一もんをうかゞはず真言しんごんくわんし、 ぶちさちはうたてまつる事をちやうすべき事。

みぎだうりふするにいたては、 がくしやうのふるところ也、 にんきやうがいにあらず。 しかのみならず、 はうしやうぼふは弥陀の願に免除めんぢよせられたり。 そのほうまさにらくすべし。 あにあむのいたりにあらずや。

二  无智むちをもて有智うちの人にむかひ、 べちぎやうのともがらにあふてこのみてじやうろんいたすことをちやうすべき事。

みぎろんは、 しやなり、 さらににんぶんにあらず。 又じやうろんのところはもろもろの煩悩ぼむなうおこる。 しやこれをおんすること百じゆんなり。 いはむや一かう念仏ねむぶちの行人においておや。

三  べちべちぎやうの人にむかふて、 愚痴ぐち偏執へんじふこゝろをもてまさに本業ほんごふ棄置きちし、 しゐてこれをけむくわんすべしといふことをちやうすべき事。

みぎ修道しゆだうのならひ、 おのおのつとむるにあえて行をしやせず。 ¬西方えうくゑち¼ (意) にいはく、 「べちべちぎやうのものには、 すべてきやうしむをおこせ。 もしきやうまんしやうぜば、 つみをえむこときわまりなし」 と 云々なんぞこのせいをそむかむや。

四  念仏もんにおいて、 かいぎやうなしとがうしてもはら淫酒いんしゆしよくにくをすゝめ、 たまたまりちをまもるものをざふぎやうとなづく、 弥陀の本願をたのむもの、 とい造悪ざうあくをおそるゝことなかれといふ事をちやうすべきこと。

みぎかいはこれ仏法のだいなり、 しゆぎやうまちまちなりといゑどもおなじくこれをもはらにす。 これをもて善導ぜんだうくわしやう、 めをあげて女人をみず。 この行状ぎやうじやうのおもむき、 本律ほんりちせいじやうごふのたぐひにすぎたり。 これにしゆんぜずは、 すべて如来の遺教ゆいけうをわすれたり、 べちしては祖師そし旧跡きうせきにそむく。 かたがた るところなきもの

五  是非ぜひをわきまへざるにんしやうげうをはなれせちにあらず、 おそらくはわたくしのじゆちしみだりにじやうろんをくわだて、 しやにわらはれにん迷乱めいらんする事をちやうすべき事。

みぎ、 無智の大天、 このてう再誕さいたんして、 みだりがわしくじやじゆちノブ す。 すでに九十五しゆだうおなドウジ 、 もともこれをかなしむべし。

六  どんのみをもて、 ことにしやうだう オコナフ をこのみ、 正法をしらずして種種しゆじゆじや法をとき、 無智むち道俗だうぞく教化けうくゑすることをちやうすべき事。

右、 さとりなくしてとなるは、 これ ¬梵網ぼむまう¼ の制戒せいかいなり。 黒闇こくあむのたぐひ、 おのれがさいをあらはさむとおもふて、 浄土のけうをもて芸能げいのうとして、 みやうとむ檀越だんおちをのぞむ。 おそらくは自由じゆ妄説まうせちをなして、 けんの人を狂惑わうわくせむ。 誑法わうぼふのとが、 ことにおもし。 このともがらは国賊こくぞくクニノヌスビトあらずや。

七  みづから仏けうにあらざるじや法をときて正法とし、 はんせちがうする事をちやうすべき事。

右、 おのおの一人なりといゑども、 つめるところわがしんのためなりととく。 衆悪しゆあくをして弥陀の教文けうもんをけがし、 しやうあくみやうをあぐ、 ぜんのはなはだしきこと、 これにすぎたる事なきもの也。

ぜんでう甄録けんろくかくのごとし。 一ぶん教文けうもんをまなばむ弟子でしは、 すこぶるしゆしり年来ねんらいのあひだ念仏をしゆすといゑども、 しやうげうずいじゆんして、 あえて人心ひとのこゝろにたがはず、 きこへをおどろかすことなかれ。 これによて、 いま三十ねん无為ぶゐなり。 にちぐゑちをわたりてちかわうにいたるまで、 この十ねんより以後いご無智むちぜんのともがら時時ときどき到来たうらいす。 たゞ弥陀のじやうごふしちするのみにあらず、 又しや遺法ゆいほふ汚穢わゑす。 なんぞきやうかいをくわへざらむや。

この七でうのうち、 たうのあひださい事等じらおほし。 ちゆじゆちしがたし。 すべてかくのごときらのはう、 つゝしんでおかすべからず。 このうへなほ制法せいほふをそむくともがらは、 これ門人もんにんにあらず、 くゑんぞくなり。 さらに草庵さうあむにきたるべからず。

こむ以後いご、 おのおのきゝおよばむにしたがふて、 かならずこれをふれらるべし。 にんあひともなふことなかれ。 もししからずは、 これどうの人なり。 かのとがなすごときのものは、 同法どうほふをいかりしやうをうらむることあたはず。 ごふとくのことはり、 たヾおのれがにありならくのみ。

このゆへに、 今日こむにちはうの行人をもよおして、 一しちにあつめてがうみやうすらく、 ぶんありといゑども、 たしかにたれの人のとがとしらず、 沙汰さたによて愁歎しうたんす。 年序ねんじよをおくる、 とヾめもだすべきにあらず。 まづちからのおよぶにしたがて、 禁遏きむあちのはかりごとをめぐらすところ也。 よてそのおもむきをろくして門葉もんえふにしめすじやう如↠ごとしくだん

 ぐゑんきうぐわんねん十一月七日        沙門しやもんぐゑん

けん仏 しやうれん ぎやう西さい ぐゑん しよう 尊西そんせい かむせい 善信ぜんしん だうくわん 導西だうさい じやく西さいセイ 西縁さいえん 幸西かうせい 西さい ぐゑんれん ぎやう 宗慶そうけい 親西しんさい 信蓮しんれん 仏しむ 蓮生れんせい

ぐゑんきう二年四月五日、 九でう殿どのにまいりて退たいしゆつの時、 くわうげんじ、 蓮華れんぐゑをふみて、 はるかにをはなれてあゆみ給ければ、 入道にふだう殿でん、 にわにおりておがみたてまつり給けり。 さて人々にかゝる事ありつ、 おのおのおがみつるかとおほせありければ、 隆信たかのぶ入道戒心かいしむばう・中納言じやじむぐゑん、 おがまざるよし申けり。 これよりいよいよくゐはなはだしかりけり。

ぐゑんきう三年正月四日、 三ぞんしんげんじ給ふ。 又五日、 おなじくげんじ給ふと 云々

ぐゑんきう三年七月に、 吉水よしみづをいでゝまつ殿どのにおはしましけるとき
  こまつとは たれかいひけむ おぼつかな くもをさゝふる たかまつのきを

ごんりちりうくわん、 こまつどのへまいられたりけるに、 だうのうしろどにて、 上人一くわんしよもちて、 りうくわんのふところにおしいれたまふ。 月輪つきのわ殿どのおおせによりてつくり給へる ¬せんぢやくしふ¼ これなり。

じやう西門せいもん女院によゐんにて、 上人七日説戒せちかいありけるに、 からがきのうゑに一のくちなはあり。 なつの事なればおどろかずといゑども、 ごとにかくる事なくして、 わだかまりてすこぶるちやうもんしきみへければ、 人々もあやにみけり。 だい七日のけちぐわんにあたりて、 このくちなわ、 からがきのうへにてにけるほどに、 そのかしらふたつにわれて、 なかよりてうのやうなるものいづとみる人もあり。 又かしらばかりわれたりとみる人もありけり。 又天人ののぼるとみる人もありけり。 むかしおんぎやうするひじり、 その日くれにければ、 なかにつかあなのありけるにとヾまりて、 よもすがら ¬りやうきやう¼ をそらにじゆしけるほどに、 かのつかあなの中に五百の蝙蝠かはほりありけり。 この ¬きやう¼ ちやうもんしつる功徳によりて、 このかはほり、 五百の天人となりてたうてんにむっまれぬといへり。 いまひとすぢのくちなはあり、 七日の説戒せちかいりきにこたへて、 くもをわけてのぼりぬるにやと、 人々ずいをなす。 かれはじやうだいなるうへに大国だいこくなり、 これは末代まちだいにして又小国せうごくなり。 だいしようなり、 おほよそ人のしよにあらずとぞ、 ときの人々申ける。

「わざわい三女さむぢよよりおこる」 といふ本文ほんもんあり。 隠岐おき法皇ほふわうおんくままうでのひまに、 小御こごしよの女房によばうたち、 つれづれをなぐさめむために、 上人のおむ弟子でし蔵人くらむど入道安楽あんらくばうは、 日本にちぽんだい一のそうなりければ、 これをめしよせて礼讃らいさんせさせて、 そのまぎれにとうみやうをけしてこれをとらへて、 種々しゆじゆ不思議ふしぎの事どもありけり。 法皇ほふわうかうののち、 これをきこしめして、 逆鱗げきりんのあまりに住蓮ぢゆれん安楽あんらく二人おば、 やがてざいにおこなはれにけり。 そのしち、 なほやまずして上人のうゑにおよびて、 建永けんえい二年二月廿七日、 御年七十九、 おぼしめしもよらぬおんの事あり。 権者ごんじやぼむどうずる時、 かくのごとくの事さだまれるならひなり。 たうには一ぎやうじや白楽はくらくてん、 わがてうにはえんの行者・きたの天じん、 おどろくべからずといゑども、 おろかなるわれらがごときは、 ときにあたりては、 しのびがたきなげきなるべし。

おなじき、 大納ごんりち公金こうきむ、 のちには嵯峨さがしやうしん上人と申き。 ことにたふとき人にて、 かくの御袈裟けさならびに天台てんだいだいじようかいとう、 上人の一の御弟子でし信空しんくうにこれをつたへ給へり。 おなじく西国さいごくへながされ給とて、 御ふねにのりうつりて、 なごりをおしみ給けり。 いとあはれにぞおぼゆる。

つのくにきやうのしまにとまらせ給ければ、 村里むらざと男女なむによ・大小・らうにやくジヤク、 まいりあつまりけり。 その時、 念仏の御すゝめいよいよひろく、 上下結縁けちえんかずをしらず。 このしまは、 六波羅はらだいしやうこく、 一千の ¬法華ほふくゑきやう¼ をいしのおもてにかきて、 おほくののぼりぶねをたすけ、 人のなげきをやすめむために、 つきはじめられけり。 いまにいたるまで、 くだるふねには、 かならず石をひろいておくならひなり。 やくまことにかぎりなきところなり。

はりのむろにつき給ければ、 きむだちまいりけり。 むかしまつの天わう、 八人の姫宮ひめみやを七道につかはして、 きみをとゞめ給中に、 天王別当べちたうそうじやうぎやうそん拝堂はいだうのためにくだられける日、 ぐち神崎かんざききむだち、 御ふねちかくふねをよせける時、 そうのふねにみぐるしくやと申ければ、 神歌かみうたをうたいいだはんべりけり。
  うろぢより むろぢへかよふ しやかだにも らごらがはゝは ありとこそきけ
とうちいだし侍ければ、 さまざまの纏頭てんとうし給けり。 又おなじき宿しゆくちやうじやらうびやうにせまりて、 さいのいまやうに、 「なにしにわがみのおいぬらむ、 思へばいとこそかなしけれ。 いまは西方極楽の、 みだのちかひをたのむべし」 と、 うたひて往生しけるところなり。 よて上人をおがみたてまつりて、 えんをむすばむとて、 くもかすみのごとく、 まいりあつまりける中に、 げにげにしげなるしゆぎやうしやとひたてまつる。 じやうしむとうの三心をし候べきやうおば、 いかゞ思ひさだめ候べき。 上人こたへての給く、 三心をする事は、 たゞべちのやうなし。 阿弥陀仏の本願に、 わが名号をしようねんせば、 かならず来迎らいかうせむとおほせられたれば、 決定くゑちぢやうしていんぜふせられまいらすべしとふかくしんじて、 こゝろにねむくちしようするにものうからず。 すでに往生したるこゝして、 さいの一念にいたるまでおこたらざれば、 ねんに三心そくするなり。 又ざいのものどもは、 さほどに思はねども、 念仏申すものは極楽にむまるゝなればとて、 つねに念仏をだに申せば、 三心はそくするなり。 さればこそ、 いふかひなきものどもの中にも、 神妙しんべうの往生はする事にてあれ。 たゞうらうらと本願をたのみて、 南无阿弥陀仏とおこたらずとなふべき也。

同三月廿六日、 讃岐さぬきのくにしほあきのとう駿河するがのごんのかみ高階たかしな時遠ときとお入道西仁さいにんがたちにつき給ふ。 さまざまのきらめきにてぜんたてまつり、 ひかせなどして、 こゝろざしいとあはれなりけり。 これをらむじて、 上人の御うた
  ごくらくも かくやあるらむ あらたのし とくまいらばや 南無阿弥陀仏
  あみだぶと いふよりほかは つのくにの なにはの事も あしかりぬべし
云、いはくみやうは生死のきづな、 三鉄網てちまうにかゝる。 称名しようみやうは往生のつばさ、 九ぼむ蓮台れんだいにのぼる」。
時遠ときとお入道西仁さいにんといたてまつりいはく、 りきりきの事は、 いかゞこゝろえ候べき。 こたへて云く、 ぐゑんくう殿てんじやうへまいるべききりやうにてはなけれども、 かみよりめせば二までまいりたりき。 これはわがまいるべきしきにてはなけれども、 上の御ちからなり。 まして阿弥陀仏の御ちからにて称名しようみやうの願にこたへて来迎らいかうせさせ給はむ事おば、 なにのしむかあらむ。 しんのつみおもくして無智むちなれば、 仏もいかにしてすくひ給はむなど思はむは、 つやつや仏の願をしらざる人なり。 かゝる罪人ざいにんを、 やすやすとたすけむれうに、 おこし給へるほん願の名号をとなへながら、 ちりばかりもうたがふ心あるまじきなり。 十方衆生の願の中には、 有智うち無智むちざいざい善人ぜんにんあく人、 かいかいなむ・女人、 三ぼう滅尽めちじんののちの百さいまでの衆生、 みなこもれり。 かの三ぼう滅尽めちじんの時の念仏しやと、 たうのわ入道殿どのなどは仏のごとし。 かのとき人寿にんじゆさいとて、 かいぢやうの三がくをだにもきかず、 いふばかりもなきものどもの来迎らいかうにあづかるべきだうをしりながら、 わが身のすてられまいらすべきやうおば、 いかゞあんじいだすべき。 たゞ極楽のねがはしくもなく、 念仏の申されざらむ事のみこそ、 往生のさわりにてはあるべけれ。 かるがゆへにりきの本願とも、 てうぐわんとも申也。 時遠ときとお入道、 いまこそこゝろえ候ぬれとて、 てをあはせてよろこびけり。

讃岐さぬきのくにまつしやうは、 弘法こうぼふ建立こんりふくわんおむ霊験れいげんのところ、 しやうふくにつき給ふ。

そもそも当国たうごくに、 同じき大ちゝのためにをかりて、 善通ぜんつうといふらんおはします。 文にいはく、 「これにまいらむ人は、 かならず一仏じやうのともたるべきよしはんべりければ、 このたびのよろこび、 これにあり」 とて、 すなわちまいり給けり。

どうぎやうたち、 にきこへたるところ也。 いざや、 さぬきの松山まつやまみむといひければ、 われもゆかむとて上人もわたり給たりけるに、 人々おもしろさにたえずして、 一しゆづゝあるべきよしいひければ、 上人、

  いかにして われごくらくに まいるべき みだのちかひの なきよなりせば
人々、 この御うた落題らくだいに候、 松山まつやまおんのけしき候はずとなんじ申ければ、 さりとては、 ところのおもしろくて、 こゝろのすめば、 かくいはるゝなりとおほせられければ、 みななみだおとしてけり。

けんりやくぐわんねん八月、 かへりのぼり給べきよし、 中納ごん光親みつちかきやうのうけたまはりにてありけるに、 しばらくかちしようによしやうにんの往生の、 いみじくおぼへて御逗留とうりうありけるに、 道俗だうぞく男女なむによまいりあつまりけり。
かくて恒例こうれい引声いんぜい念仏、 ちやうもんのおはりに、 そうしやうことやうなりければ、 信空しんくうしやうにんのもとへこのやうをおほせられて、 しやうぞくくわんじんのありければ、 ほどなく法服ほふぶく十五すゝめいだしてもちてまいり給けり。 かむにたへて住僧ぢゆそうりむの念仏七日七夜勤修ごんしゆする也。
当山たうざんに一さいきやうましまさゞりければ、 上人しよきやうろんをくだし給けるに、 そう七十人ばかり、 がいをさし、 かうをたき、 はなをちらし、 おのおのくわんしてむかたてまつり、 あまさへ聖覚せいかく法印ほふいんしやうだうとして開題かいだい讃嘆さんだんたてまつりける。 そのことばにいはく、 「それおもんみれば、 智慧ちゑは諸仏の万行の根本こんぽんなり。 これをもて、 六の中には般若はんにやだい一とす。 すでに往生をねがひ、 仏しんをねがふ。 仏といふはすなはちこれ智慧ちゑきやうせるなり。 もともさとりをおこして、 たえむにしたがひて、 弥陀のどく・極楽のしやうごむおもくわんずべし。 なむぞたゞ無智むち称名しようみやうをすゝむるや。 これ大きに仏法のつうだうにそむけり。 なむぞいはく、 仏法において智慧ちゑをもてさいしようとする事勿論もちろんなり。 いま一だい分別ふんべちするに二しゆあり。 一にはしやうだう、 二には浄土なり。 かのしやう道門だうもんといふは、 智慧ちゑをきわめて生死をはなる。 いま浄土門といふは、 愚痴ぐちにかへりて極楽にむまる。 二もんともに一仏の所説しよせちなりといゑども、 廃立はいりふ参差しむしやし天地くゑんかくなり、 これすなわち大しやう善巧ぜんげうしやう方便はうべんなり。 じやうけうをもて、 みだりがはしくなんずべからず。 それ愚痴ぐちにかへるといふは、 法蔵ほふざう比丘びくむかしの時、 じやうじゆ衆生の願をたて給しおり、 すべてざいしやう深重じむぢうのたぐひ、 ぢよく末代まちだいどんのやから、 しやうじんなからむ事をふかくかなしみて、 五こふゆいむろシチうちにくわんねんぜん布施ふせかいとうのわづらはしきもろもろぎやうをさしおきて、 ぎやうしゆ称名しようみやうをもて本願として、 あまねく一切の下機げきおうじ給へり。 一念なほとくしやうごふなりいはむねむおや。 ぐゐやくむねとしやうなり、 いはむきやうざいの人おや。 これによりててうせいぐわんとなづけ、 又は不共ふぐしやうしようす。 ふかくその願をしんじて名号をしようねんすれば、 愚痴ぐちろんぜず、 かいかいえらばず、 十は十ながらむまれ、 百は百ながらむまる。 しかのみならず、 しや慇懃おむごむぞくしよ仏一証誠しようじやうは、 たゞ名号にかぎりてくわんぶちつうぜず。 はう立相りふさうして、 あへてふかきことはりをあかさず、 無智むちもんことわり必然ひちぜんなり。 たゞしんじてぎやうずるよりほかにはなきをもてはとす。 たゞしもとより智慧ちゑありて弥陀のないしよう外用ぐゑゆうどく、 極楽の地下ぢげじやうしやうごむとうを、 これくわんぜむおば、 かならずしもしやせず。 いまろんずるところは、 義理ぎりくわんねむをもてしゆとして、 但信たんしん称名しようみやうぎやうじやをかたくなはしくこれをするをする也。 かのしやう道門だうもん先徳せんどく明哲めいてち、 浄土もんに入てしゆのこゝろをあきらめて、 その心をうれば、 本願のあう、 往生のしやうごふしかしながしよう念仏也とひらきぬるうへは、 じやうきやう所説しよせちくわん仏三まいすらなほもてはいす、 いかにいはむやしゆのふかきくわんにおいてをや。 たゞ称名しようみやうのほかにはその他事たじをわする。 かるがゆへに浄土のは、 愚痴ぐちにかえるとはいふ也。 それ八萬の法蔵ほふざうは八萬の衆類しゆるいをみちびき、 一じち真如しんによは一かうせんしようをあらはすところなり。 用明ようめい天王のまうけのきみ、 たむじやうに南无仏ととなへ給ふ。 そのをあらはさずといゑども、 心は弥陀の名号なり。 かく大師の伝灯でんとうきやうもんひいほうのなみにし、 こうしやうにんの念仏常行じやうぎやうはこゑをたてゝとくをあらはし、 永観ゐやうくわんりちの往生のしきは七もんをひらいて一ぺんにつかず、 りやうにん上人のづう念仏はじんみやうだうにはすゝめ給へども、 ぼむののぞみはうとうとし。 こゝにわが大法主ほふしゆしやうにんぎやうねん四十三より念仏もんに入て、 あまねくひろめ給に、 天のいつくしみぎよくくわんタマノカブリをにしにかたぶけ、 ぐゑちけいかしこ金剣きむけむをにしにたゞしくす。 くわうごくのこひたるは韋だいのあとをおひ、 傾城けいせいのことんなき五百のによをまなぶ。 而間しかるあひだ、 とめるはおごりてもてあそび、 まづしきものはなげきてともとす。 のうすきをもてかずをしり、 えきは念仏をもてむまナゾラフふなばたをたゝくかいじやうには念仏をもてうおをつり、 鹿かせぎをまつ木本このもとには念仏をもてひづめをとる。 せちユキぐゑちツキ くわハナをみる人は西楼せいろうをかけ、 きむしゆふけるともがらはにしのえだのなしをおる。 弥陀をあがめる人をばきむとし、 ずゞをくらざるときおばはぢとす。 花族くわぞく英才えいさいなりといゑども、 念仏せざるおばおとしめ、 乞丐こつがいにんなりといゑども、 念仏するおばもてなす。 かるがゆへに八どくしゐうへには念仏ねむぶちはちいけ、 三ぞん来迎らいかうのいとなみにはだいをさしおくひまなし。 しかのみならず、 われらが念仏せざるはかのいけくわうはいなり、 われらがごむせざるはそのくにしうなり。 くにのにぎわひ、 仏のたのしみ、 称名しようみやうをもてさきとす。 人のねがひ、 わがねがひ、 念仏をもてもとゝす。 よてたうまいじやうにつかへてかへるよは念仏をとなへまくらとし、 たくをいでゝわしる日は極楽をねむじてくるまをはす。 これみな上人の教誡けうかいくわ宿善しうぜんにあらずや。 たづねみれば、 弥陀はすなわちおうしやう来現らいげんの如来、 受用じゆよう智慧ちゑ真身しんしんなり。 名号は又五こふゆい肝心かんじむ、 願行しよじやう総体そうたい也。 かるがゆへにこれを信じてしようねむすれば、 念々に八十億劫おくこふの生死の罪ざいけんめちし、 こゑごゑに無上の大ぎやくとくす。 このゆへに念仏の衆生は、 一すなは相好さうがう業因ごふいんをうへ、 現身げんしんにあくまでふくりやうをたくわへて、 愚痴ぐち闇鈍あむどんぼむなれども、 うちには六の万行をしゆするさちとおなじ。 もししからば、 いかで有漏うろ穢土ゑどをいでゝ無為むゐ報国ほうこくにまいりて、 ぼむしやうをすてゝぢきほふしやうしんしようせむや。 さだめてしりぬ、 弥陀の本願といふは、 ばんを名号の一ぐわんにおさめ、 千ぼむしようの十念にむかへ、 同じくほうはちすたくしやうせしめ、 ともにしやうやくしようとくす。 五ぐゐやくをもきらはず、 謗法ほうぼふおもすてず。 しりぬべし」 とて、 はなをかみとゞこほりなくの給ければ、 そう結衆けちしゆ戒成かいせいわうの ¬大般若はんにや¼ やうには草木さうもくことごとくなびきけり。 いま上人、 念仏のくわんじんには道俗だうぞくみな浄土をねがひけり。 ほどなく帰京くゐけいのよしきこへければ、 一さんみなおくりたてまつる。
むかししやほとけたうくもよりくだり給ければ、 にん天大よろこびしがごとく、 いま上人、 南海なんかいよりのぼり給へば、 人々面々めんめんやうたてまつる。 一のうちに一千にん云。いへり あけゝれば、 上下くもかすみのごとくあつまりて、 御ものがたりありけるにおほせられけるは、 決定くゑちぢやう往生の人に二人のしなあるべし。 一には、 威儀ゐぎをそなへ、 くちには念仏を相続さうぞくし、 心には本誓ほんぜいをあおぎて威儀ゐぎのふるまひにつけて遁世とむせいさうをあらはし、 三ごふしよしゆつえうにそなへたり。 ほかに賢善けんぜんしやうじんさうあれども、 うちに愚痴ぐちだいの心なく、 ぎやうおもかゝず、 せいおもうかゞはず、 心かだましくしてやうをへつらふ事もなく、 みやうもんの思もなく、 貪瞋とむじん邪偽じやぐゐもなく、 かむたんもなく、 雑毒ざふどくのけがれもなく、 不可ふかしちもなく、 まことにぐゑしやうじん内心ないしむ賢善けんぜんに、 内外ないぐゑ相応さうおうして一向に往生をねがふ人もあり。 これ決定くゑちぢやう往生の人なり。 かゝるじやうこん後世ごせしや末代まちだいにまれなるべし。 二には、 ほかにたふとくいみじきさうおもほどこさず、 うちにみやうの心もなく、 三がいをふかくうとみていとふきもにそみ、 浄土をこひねがふずいにとほり、 本願をしんしてむねのうちにくわんし、 往生をねがひて念仏をおこたらず。 ほかにはけんにまじはりてせいをわしり、 ざいにともなひてやうにかたどり、 さい随逐ずいちくしてぎやうさら遁世とむせいのふるまひならず。 しかりといゑども、 心中しむちうには往生の心ざし片時かたときもわすれがたく、 しんごふごふにゆづり、 せいのいとなみを往生のりやうとあてがひ、 さいくゑんぞくしきどうぎやうとたのみて、 よはひの日々にかたぶくおば往生のやうやくちかづくぞとよろこび、 いのち夜々ややにおとろふるおば穢土ゑどのやうやくとおざかるぞとえ、 いのちのおはらむ時をしやうのおはりとあてがひ、 かたちをすてむ時をなうのおはりとし、 仏はこの時に現前げんぜんせむとちかひて影向やうかうしばのとぼそにたれ、 ぎやうじやはこの時ゆかむとして、 けちを観音の蓮台れんだいうへにまつ。 このゆへに、 いそがしきかな往生、 とくこのいのちのはてねかし。 こひしきかな極楽ごくらく、 はやくこのいのちたへねかし。 くやしきかなわが、 生死の人やをすみかとして悪業あくごふのためにつかはるゝ事。 うれしきかなわがこゝろ無為むゐのみやこにかへりゆきてしやうのあるじとあおがれむ事。 かやうに心のうちにすまして廃忘はいまうする事なく、 たとひえんにあへばよろこびもあり、 うれへもあり、 おしき事もあり、 うとましき事もあり、 はづかしき事もあり、 いとおしき事もあり、 ねたき事もあり。 かやうの事あれども、 これは一たんのゆめのあひだの穢土ゑどのならひぐせと心えて、 これがためにまぎらはかされず、 いよいよいとはしく、 たびのみちにあれたるやどにとゞまりてあかしかねたるこゝして、 よそめはとりわき後世ごせしやともしられず、 よの中にまぎれて、 たゞ弥陀の本願にのりて、 ひそかに往生する人あり。 これはまことの後世ごせしやなるべし。 時機じき相応さうおうしたる決定くゑちぢやう往生の人なり。 この二人の心だてを弥陀は 「しむ (大経巻上) とおしへ、 しやは 「じやうしむ (観経) 善導ぜんだうは 「真実しんじちしむ (散善義) しやくし給へり。

つぎのとし、 上人まん八十、 正月二日よりらうびやううへしよくことにぞうして、 おほよそりやう三年、 みゝもきゝ給はず、 心ももうじ給へり。 しかるをいまさらにむかしのごとく明々めいめいとして、 念仏つねよりもじやうなり。 にんはんべりけるあま、 御往生をゆめにみてまいりはんべりけり。

ある時つげての給く、 この十ねん念仏こうつもりて、 ぶちさち・極楽のしやうごむをおがむ事これつねなり。 ばつそうとひたてまつりていはく、 このたびの往生は決定くゑちぢやうなりや。 こたへての給はく、 極楽にありし身なれば、 かへりゆくべし。 くわんおむせいとうしやうじゆ、 まなこのまへにましますよしをたびたびの給ふ。 うんげんずるをきゝ給て、 すなはちかたりての給はく、 わが往生は、 もろもろのしゆじやうのため也。 又そのにのぞみて、 三日三あるひは一あるひははんかうしやうの念仏きくものみなおどろく。 廿四日とりのこくより以去いこ称名しようみやうたいをせめてけんなり、 無余むよなり助音じよいんの人々は窮崛きうくつにおよぶといゑども、 れいびやうなうみやうにしてこゑをたゝざる事、 ぞうの事なり。 みやうにち往生のよしを、 さうのつげによておどろききたりて終焉しゆえんにあふもの、 許輩きよはいなり。 かねて往生のつげをかぶる人々、 さきのごんの大辨だいべんふじはらのかねたかの朝臣あそんごんりちりうくわんしらかはのじゆんこうのみやの女房によばう別当べちたう入道なをしらず・尼念あまねむ阿弥陀仏・ばんどうのあまじゆ信賢のぶたかカタ祇陀ぎだりむのきやう・一さいきやうのたにの住侶ぢゆりよだいしんのきみはく真清さねきよ水尾みづのおのやまのせうキコリ うんをみたるものどもあり。 弥陀の三ぞんうんじようじて来迎らいかうし給をみる人々、 信空しんくう上人・りうくわんりちしようくう上人・くう阿弥陀仏・定生ぢやうしやうばうせいくわんばう

廿五日のさいには、 かく大師の袈裟けさをかけて、 四の文を唱 となへたまふ。 「光明遍照、 十方世界、 念仏衆生、 摂取不捨」 (観経) これなり。 ほく面西めんさいにしておはり給ぬ。 おむじやうコヱ  とゞまりてのち、 なほ唇舌しむぜちをうごかす事十へんばかりなり。 面色めんじきことにあざやかにして、 ぎやうようゑめるににたり。 ときけんりやく二年正月廿五日むまのしやうちうなり。 しゆんじう八十にみつ。 しやくそんざいにおなじ。 ひとりの雲客うんかくありて七、 八年のさきにゆめにみて、 上人の臨終りむじゆに 「光明くわうみやう遍照へんぜう (観経) もんじゆし給べしと。 往日わうじちムカシ のゆめいまにがふす、 たれか帰信くゐしんせざらむや。 いのちつき、 たましゐさりぬれば、 むなしくみやうをとゞめて、 のため、 のため、 なんのやくかあるや。 しかるに浄土のしゆにつきて、 ぼむぢきわうけいをしめし、 せんぢやく本願をあらはして、 念仏の行者の亀鏡くゐけいにそなふ。 おんもちにあたりていよいよさかりに、 遺徳ゆいとくざいにひとしくしてへんずる事なし。 てう遠近おんごん、 おなじく宝刹ほうせちの月をのぞみ、 貴賤くゐせん男女なんによ、 ともに檀林だんりむのくせをねがふ。 このゆへに、 あるいはうんじようじ、 あるいは蓮台れんだいし、 あるいはきやうをかぎ、 あるいは光明をみ、 あるいは化仏をはいし、 あるいしやうじゆにまじはりてながくしやをいでゝ、 たちまちに浄土にうつる事、 親聴しんていチヤウにふるゝところ、 にみち、 みゝにみてり。 ながれをくみて、 みなもとをたづぬるに、 せん恩徳おんどくなり。 すゑのよのわれらが大、 この人にあり。 おむやまよりもたかく、 とくうみよりもふかし。 万ごふ億劫おくこふにもしやしがたく、 ほうじがたし。 しかしつねに名号をとなえて、 かのほんぐわいじゆんぜむにはしかじ 云々

ちういむのおむぶちの事。
しよ七日 動尊どうそん  おむだう 信蓮しんれんばう
二七日 げんさち 御導師 仏房
三七日 ろく菩薩 御導師 住信ぢゆしんばう
四七日 しやうくわんおむ 御導師 法連ほふれんばう
五七日 ざう菩薩 御導師 ごんりちりうくわん
六七日 しや如来によらい 御導師 法印ほふいんそう聖覚せいかく
七七日 両界りやうかいのまん荼羅だら・阿弥陀如来によらい おむだう ゐのそうじやう公胤こういん

ほふばう法印ほふいんざいのあひだは、 わか大衆だいしゆたびたびおこるといゑども、 しようしん法印ほふいん、 上人のとくくゐしてそうじやうをかゝざるあひだ、 ちからおよばずしてすぐるほどに、 たかくらのゐんのぎよに、 そうじやうえんさんセンの時、 ろく三年 ひのとの 六月廿一日、 山のしよ専当せんたうくだりて、 上人のしよをほりすつべきよしきこゆ。 こゝにきやうしゆしゆすけたいら時氏ときうじ内藤ないとう五郎ひやう入道盛政もりまさほふをさしつかはして、 さいをたづねらるゝあひだ、 問答もんだう往復わうふくして晩陰ばんいむにおよぶによりて、 使つかひかへりおはりぬ。 よりて信空しんくう上人・弟子でしならびに念仏にざしある道俗だうぞくくわんをになひて嵯峨さが尊院そんゐんにかくしおきて、 つぎのとし火葬くわさうしておのおのこちをえ、 くびにかけて、 如来のしやをうやまうがごとし。 こゝにしりぬ、 これしやうにんの大方便はうべんなり、 またくじや外道ぐゑだうしやうなんにあらざる也。

入道随蓮ずいれんといふものありけり、 でうまでのこうぢはいゑなり。 しゆつののち、 つねに上人にまいりて念仏の事をうけ給けり。 上人おほせられて云、いはく 念仏はやうなきをやうとす。 たゞつねに念仏すれば、 臨終しむじゆにはかならず仏きたりてむかへて、 極楽にはまいるなりとの給、 ひごろこの御ことばをしんじてねむなきところに、 ある人のいはく、 念仏申て往生するには、 かならず三心といふ事あり、 これをしらでは往生かなはずといふ。 随蓮ずいれん申すやう、 上人の御ばうはたゞやうなしとこそ候しかと申すところに、 かの御ばういはく、 それは心うまじきものゝためには、 さおほせられけるなりと申けり。 まことにさる事もあるらむと思て、 この事おぼつかなくてみだれておぼへけるに、 ある時ゆめにみるやう。 ほふしようの阿弥陀だうに、 人々あまた法門ほふもんさたあるとおぼへてまいりてみれば、 上人みなみむきにきたのにおはします。 ちかくまいりて候へば、 随蓮ずいれんらむじておほせられての給はく、 なんぢこのほど心におぼつかなく思ひつる事あり、 それはおぼつかなく思ふべからず。 たとへばこのいけ蓮花れんぐゑあり。 この蓮華れんぐゑをひが事いふ人ありて、 これは蓮華にはあらず、 むめなり、 さくらなりといはむおば、 なむぢはいかゞ思べき。 こたへ申ていはく、 げん蓮花れんぐゑにて候はむおば、 いかに人むめ・さくらと申候とも、 いかゞむめ・さくらとは思ひ候べき。 その時上人の給はく、 いかに人いふとも、 それは蓮華れんぐゑをむめ・さくらといはむがごとし、 しんずべからず。 わがやうなきをやうとす、 たゞ念仏すればわうじやうすといひしをしんじて、 念仏申すべしとの給へり。 そのゝちしむことごとくはれて、 心あきらかになりぬといへり。 されば、 たれたれもこのぢやうに心えて、 やうもなき念仏して、 往生すべき也。

建永けんえい二年のはる、 上人配所はいしよにおもむき給ふ時、 しんひそかに申ていはく、 御としたかくなりて、 とおきさかひにおもむき給事、 いたはしく、 かなしくこそと申されければ、 上人じちにてとおきさかひにおもむく事、 そのたぐひおほし。 われこれをなげきとせず。 たゞしおそらくは天じゆるいけんあらば、 もし天下のため大やいできたらむずらむとの給へり。 又もし因縁いんえんつきずは、 又あひあふ事もなどかなからむとの給ふ。 信空しんくうのの給はく、 せんのことばたがはず、 じようきう三年にきみはおきの国にとしをへて御なげき、 しんとうのみちにいのちをうしなふ。 又おほかた念仏沙汰さたある事に、 かならけんおだしからず、 因果いんぐわだうむなしからず。 たれかこれをおそれざるべきといへり。