四(723)、 別伝記
▲別伝記にいはく
法然上人は美作の州の人なり、 姓は漆間氏なり。 本国の本師は智鏡房 もとは山僧。 上人十五歳に師ただ人にあらずといひ山に登せんと欲す。 上人の慈父いはく、 われに敵あり、 登山の後に敵に打たると聞かば、 後世を訪ぬべしと 云々。 すなはち十五歳にして登山す。 黒谷の慈眼房師となして出家受戒。 しかるあひだ慈父敵に打たれおはりぬ 云。 上人この由を聞き、 師に暇を乞ひて遁世せんといふ。 遁世の人も無智なるは悪しく候ふなり。 これによりて三所に談義を始む。 いはく ¬玄義¼ 一所、 ¬文句¼ 一所、 ¬止観¼ 一所なり。 毎日に三所に遇ひ、 これによりて三箇年に六十巻に亘りおはりぬ。 その後黒谷の経藏に篭居して一切経を披見す。 師と問答す、 師よりより閉口す。 師すなはち二字を捧げていはく、 知れる者を師となす、 今上人を返りて師とすと 云々。
法然上人ハ美作州ノ人也、姓ハ漆間氏也。本国之本師ハ智鏡房 本ハ山僧。上人十五歳ニ師云↠非ト↢直人ニ↡欲↠登ト↠山。上人慈父云、我ニ有敵、登山之後ニ聞カバ↠被ト↠打↠敵ニ、可↠訪↢後世ヲ↡ 云々。即十五歳ニシテ登山ス。黒谷ノ慈眼房ヲ為シテ↠師ト出家受戒。然間慈父被↠打↠敵ニ畢 云。上人聞↢此由↡、師ニ乞暇遁世セムト云。遁世之人モ无智ナルハ悪ク候也。依之始↣談↢義於三所ニ↡。謂ク¬玄義¼一所、¬文句¼一所、¬止観¼一所也。毎日ニ遇↢三所↡、依↠之三箇年ニ亘↢六十巻ニ↡畢ヌ。其後篭↢居シテ黒谷ノ経藏ニ↡披↢見一切経ヲ↡。与師問答ス、師時閉口ス。師即捧↢二字ヲ↡云ク、知レル者ヲ為ス↠師ト、今上0724人ヲ返テ為↠師 云々。
また花厳宗の章疏を見立てて、 醍醐に花厳宗の先達あり行きてこれを決す。 かの師をば鏡賀法橋といふ。 法橋のいはく、 われこの宗を相承すといへどもこれほど分明ならず、 上人によりて処々の不審を開くと 云々。 これによりて鏡賀二字をすなはち ¬梵網¼ の心地戒品に受く。 ある時御室より鏡賀の許へ、 花厳・真言の勝劣を判じて進むべしと 云々。 これによりて鏡賀思念すらく、 仏智の照覧憚あり、 真言を勝れたりとす。 ここに上人鏡賀の許へ出で来たまへり。 房主悦びていはく、 御室よりかくのごとき仰ありと 云々。 上人問ふ。 いかやうに判ぜんとか思ひはべると。 房主いはく、 上のごとく申す、 この上人存外の次第なり。 源空が所存一端申さんとて、 華厳宗の真言に勝れたる事を一々に顕さる。 これによりて房主承伏して御室の返答に、 花厳勝れたる由申しおはりぬ。 その後智鏡房、 美作の州より上洛して、 上人二字を奉る。 ただし真言宗をば中河の少将阿闍梨これを受く。 法相の法門を見立てて蔵俊にこれを決す、 蔵俊返りて二字す。 以上四人の師匠、 みな二字状を進ず。
又花厳宗ノ章疏ヲ見立テヽ、醍醐有↢花厳宗ノ先達↡行テ決↠之。彼師ヲバ云↢鏡賀法橋ト↡。法橋ノ云、我雖↣相↢承此宗ヲ↡此程不↢分明↡、依↢上人ニ↡開↢処々ノ不審ヲ↡ 云々。依↠之鏡賀二字ヲ即受↢¬梵網ノ¼心地戒品↡。或時自御室鏡賀ノ許ヘ、花厳・真言勝劣判ジテ可↠進 云々。依↠之鏡賀思念スラク、仏智照覧有↠憚、真言ヲ為↠勝。爰上人鏡賀ノ許ヘ出来給ヘリ。房主悦云ク、自御室有如此之仰 云々。上人問。何様ニ判トカ思食ト。房主云、如上申ス、此上人存外次第也。源空ガ所存一端申サムトテ、華厳宗ノ勝タル↢真言ニ↡事ヲ一々ニ被↠顕。依↠之房主承伏シテ御室ノ返答ニ、花厳勝タル之由申畢ヌ。其後智鏡房、自美作州上洛シテ、上人奉ル↢二字ヲ↡。但真言宗ヲバ中河少将阿闍梨受↠之。法相ノ法門ヲ見立テ蔵俊決↠之、蔵俊返テ二字ス。已上四人師匠、皆進↢二字状ヲ↡。
竹林房の法印静賢は上人に値ひたてまつりて念仏の信を取る その文は心義なり。 三井の後胤は殿上において七箇の不審を上人に開く。 上人老耄の後聖教を見ざること三十年、 その後山僧筑前の弟子、 竪義を遂げしめんがために上人へ参り、 内々法門を談ず。 竪者いはく、 三十年は聖教を見ずと仰せらるるとも、 文々分明なる事、 当時の勧学にも越えたまへり、 ただの人にはあらずと御しけり 云々。
竹林房法印静賢ハ奉値上人取↢念仏ノ信ヲ↡ 其文者心義也。三井ノ後胤ハ於↢殿上ニ七箇ノ不審ヲ開↢上人ニ↡。上人老耄之後不↠見↢聖教ヲ↡三十年、其後山僧筑前弟子、為↠令↠遂↢竪義ヲ↡参↢上人↡、内々談↢法門ヲ↡。竪者云、年ハ不↠見↢聖教↡被トモ↠仰、文々分明事、当時ノ勧学ニモ越タマヘリ、非↢直之人ニハ↡御シケリ 云々。
公胤夢に見ていはく、 源空本地の身は大勢至菩薩なり、 衆生教化のゆゑにこの界に来ること度々なり 云々
○公胤夢見云、源空本地身大勢至菩薩、衆0725生教化故来此界度々 云々 ▽