二四(1029)、法語(念仏大意)
▲末代悪世の衆生の往生のこゝろざしをいたさむにおきては、 また他のつとめあるべからず、 たゞ善導の釈につきて一向専修の念仏門にいるべきなり。 しかるを一向の信をいたして、 その門にいる人きわめてありがたし。 そのゆへは、 或は他の行にこゝろをそめ、 或は念仏の功能をおもくせざるなるべし。 つらつらこれをおもふに、 まことしく往生浄土のねがひふかきこゝろをもはらにする人、 ありがたきゆへか。 まづこの道理をよくよくこゝろうべきなり。
◇すべて天臺・法相の経論・聖教も、 そのつとめをいたさむに、 ひとつとしてあだなるべきにはあらず。 たゞし仏道修行は、 よくよく身をはかり、 時をはかるべきなり。 仏の滅後第四の五百年にだに、 智慧をみがきて煩悩を断ずる事かたく、 こゝろをすまして禅定1030をえむ事かたきゆへに、 人おほく念仏門にいりけり。 すなわち道綽・善導等の浄土宗の聖人、 この時の人なり。 いはむや、 このころは第五の五百年、 闘諍堅固の時なり、 他の行法さらに成就せむ事かたし。 しかのみならず、 念仏におきては、 末法ののちなほ利益あるべし。
◇いはむや、 いまのよは末法万年のはじめなり、 一念弥陀を念ぜむに、 なむぞ往生をとげざらむや。 たとひわれら、 そのうつわものにあらずといふとも、 末法のすゑの衆生には、 さらににるべからず。
◇かつはまた釈尊在世の時すら、 即身成仏におきては、 竜女のほか、 いとありがたし。 たとひまた即身成仏までにあらずとも、 この聖道門をおこなひあひたまひけむ菩薩・声聞達、 そのほかの権者・ひじり達、 そのゝちの比丘・比丘尼等いまにいたるまでの経論の学者、 ¬法華経¼ の持者、 いくそばくぞや。 こゝにわれら、 なまじゐに聖道をまなぶといふとも、 かの人々にはさらにおよぶべからず。
◇かくのごときの末代の衆生を、 阿弥陀仏かねてさとりたまひて、 五劫があひだ思惟して四十八願をおこしたまへり。 その中の第十八の願にいはく、 「十方の衆生、 こゝろをいたして信楽して、 わがくににむまれむとねがひて、 乃至十念せむに、 もしむまれずといはゞ、 正覚をとらじ」 (大経巻上) とちかひたまひて、 すでに正覚なり1031たまへり。
◇これをまた釈尊ときたまへる経、 すなわち ¬観无量寿¼ 等の「三部経」 なり。 かの経はたゞ念仏門なり。 たとひ悪業の衆生等、 弥陀のちかひばかりに、 なほ信をいたすといふとも、 釈迦これを一一にときたまへる 「三部経」、 あに一言もむなしからむや。 そのうへまた、 六方・十方の諸仏の証誠、 この ¬経¼ 等にみえたり。 他の行におきては、 かくのごときの証誠みえざるか。
◇しかれば、 ときもすぎ、 身にもこたふまじからむ禅定・智慧を修せむよりは、 利益現在にして、 しかもそこばくの仏たちの証誠したまへる弥陀の名号を称念すべき也。
◇そもそも後世者の中に、 極楽はあさく弥陀はくだれり。 期するところ密厳・華蔵等の世界也とこゝろをかくる人もはべるにや、 それはなはだおほけなし。 かの土は、 断无明の菩薩のほかはいることなし。 また一向専修の念仏門にいるなかにも、 日別に三万返、 もしは五万乃至十万返といふとも、 これをつとめおはりなむのち、 年来受持読誦こうつもりたる諸経おもよみたてまつらむ事、 つみになるべきかと不審をなして、 あざむくともがらもまじわれり。 それ罪になるべきにては、 いかでかははべるべき。
◇末代の衆生、 その行成就しがたきによりて、 まづ弥陀の願力にのりて、 念仏の往生をとげてのち、 浄土にて阿弥陀如来・観音・勢至にあひ1032たてまつりて、 もろもろの聖教おも学し、 さとりおもひらくべきなり。 また末代の衆生、 念仏をもはらにすべき事、 その釈おほかる中に、 かつは十方恒沙の仏証誠したまふ。
◇また ¬観経◗疏¼ の第三 (定善義) に善導云、
「自余の衆行これ善と名くといゑども、 もし念仏に比ぶるにはまたく比校にあらざるなり。 このゆへに諸経の中に処処に広く念仏の功能を讃む。 ¬无量寿経¼ の四十八願の中のごとき、 たゞ弥陀の名号を専念して生を得と明す。 また ¬弥陀経¼ の中のごとき、 一日七日弥陀の名号を専念すれば生を得と。 また十方恒沙の諸仏の証誠虚からず。 またこの ¬経¼ の中に定散の文の中に、 ただ名号を専念すれば生を得と標す。 この例一にあらざるなり。 広く念仏三昧を顕し竟りぬ」
「自余衆行雖↠名↢是善↡、 若比↢念仏↡者全非↢比校↡也。 是故諸経中処処広讃↢念仏功能↡。 如↢ ¬无量寿経¼ 四十八願中↡、 唯明↧専↢念弥陀名号↡得↞生。 又如↢ ¬弥陀経¼ 中↡、 一日七日専↢念弥陀名号↡得↠生。 又十方恒沙諸仏証誠不↠虚也。 又此 ¬経¼ 中定散文中、 唯標↧専↢念名号↡得↞生。 此例非↠一也。 広顕↢念仏三昧↡竟」
とあり。
◇また善導の ¬往生礼讃¼ (意) ならびに専修浄業の文等にも、 「雑修のものは往生をとぐる事、 万が中に一二なほかたし。 専修のものは、 百に百ながらむまる」 といへり。 これらすなわち、 なに事もその門にいりなむには、 一向にもはら他のこゝろあるべからざるゆへなり。
◇たとえば今生にも主君につかへ、 人をあひたのむみち、 他人にこゝろざしをわくると、 一向にあひたのむと、 ひとしからざる事也。 たゞし家ゆたかにして、 のりもの、 僮僕もかツブネヤツコヲイフなひ、 面面にこゝろざしをいたすちからもたえたるともがらは、 かたがたにこゝろざしをわくといゑども、 その功むなしからず。 かくのごときのちからにたえざるものは、 所所をかぬるあひだ、 身はつかる1033といゑども、 そのしるしをえがたし。 一向に人一人をたのめば、 まづしきものも、 かならずそのあわれみをうるなり。
◇すなわち末代悪世の無智の衆生は、 かのまづしきもののごときなり。 むかしの権者は、 いゑゆたかなる衆生のごときなり。 しかれば、 無智のみをもちて智者の行をまなばむにおきては、 貧者の徳人をまなばむがごときなり。
◇またなほたとひをとらば、 たかき山の、 人かよふべくもなからむがむせきを、 ちからたえざらむものゝ、 石のかど木のねにとりすがりてのぼらむとはげまむは、 雑行を修して往生をねがわむがごとき也。 かの山のみねより、 つよきつなをおろしたらむにすがりてのぼらむは、 弥陀の願力をふかく信じて、 一向に念仏をつとめて、 往生せむがごときなるべし。
◇また一向専修には、 ことに三心を具足すべき也。 三心といふは、 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心也。
◇至誠心といふは、 余仏を礼せず弥陀を礼し、 余行を修せず弥陀を念じて、 もはらにしてもはらならしむる也。
◇深心といふは、 弥陀の本願をふかく信じて、 わがみは无始よりこのかた罪悪生死の凡夫、 一度として生死をまぬかるべきみちなきを、 弥陀の本願不思議なるによりて、 かの名号を一向に称念して、 うたがひをなすこゝろなければ、 一念のあひだに八十億1034劫の生死のつみを滅して、 最後臨終の時、 かならず弥陀の来迎にあづかる也。
◇廻向発願心といふは、 自他の行を真実心の中に廻向発願する也。
◇この三心ひとつもかけぬれば、 往生をとげがたし。 しかれば、 他の行をまじえむによりてつみにはなるべからずといふとも、 なほ念仏往生を不定に存じていさゝかのうたがひをのこして、 他事をくわふるにて侍べき也。
◇たゞしこの三心の中に、 至誠心をやうやうにこゝろえて、 ことにまことをいたすことを、 かたく申しなすともがらも侍にや。 しからば、 弥陀の本願の本意にもたがひて、 信心はかけぬるにてあるべきなり。
◇いかに信力をいたすといふとも、 かゝる造悪の凡夫のみの信力にて、 ねがひを成就せむほどの信力は、 いかでか侍べき。 たゞ一向に往生を決定せむずればこそ、 本願の不思議にては侍べけれ。
◇さやうに信力もふかく、 よからむ人のためには、 かゝるあながちに不思議の本願おこしたまふべきにあらず、 この道理おば存じながら、 まことしく専修念仏の一行にいる人いみじくありがたきなり。
◇しかるを道綽禅師は決定往生の先達也、 智慧ふかくして講説を修したまひき。 曇鸞法師の三世已下の弟子也。 「かの鸞師は智慧高タカク遠フカシなりといゑども、 四論の講説をすてゝ、 念仏門にいりたまはむや、 わがしるところさわるところ、 なむぞおほ1035しとするにたらむや」 (迦才浄土論巻下) とおもひとりて、 涅槃の講説をすてゝ、 ひとへに往生の業を修して、 一向にもはら弥陀を念じて、 相続无間にしてアヒツヾキテヒマナクシテトイフ、 現に往生したまへり。
◇かくのごとき道綽は、 講説をやめて念仏を修し、 善導は雑修をきらいて専修をつとめたまひき。 また道綽禅師のすゝめによりて、 并州のクニノナヽリ*三県の人、 七歳以後一向に念仏を修すといへり。
◇しかれば、 わが朝の末法の衆生、 なむぞあながちに雑修をこのまむや。 たゞすみやかに弥陀如来の願、 釈迦如来の説、 道綽・善導の釈をまもるに、 雑行を修して極楽の果を不定に存ぜむよりは、 専修の業を行じて、 往生ののぞみを決定すべき也。
◇またかの道綽・善導等の釈は、 念仏門の人々の事なれば、 左右におよぶべからず。
◇法相宗におきては、 専修念仏門、 ことに信向せざるかと存ずるところに、 慈恩大師の ¬西方要決¼ に云く、
「末法万年には余経ことごとく滅せむ。 弥陀の一教物を利することひとへに増さらむ」
「末法万年余経悉滅。 弥陀一教利↠物偏増」
と釈したまへり。 また同◗¬書¼ (西方要決意) にいはく、
「三空九断の文、 十地・五修の訓、 生期分役死終非運、 多聞の広学を暫息せむにはしかず、 念仏の単修をもはらせよ」
「三空九断之文、 十地・五修之訓、 生期分役死終非運、 不↠如↣暫↢息シバラクヤメニハ多聞之広学↡、 専念仏之単修↡」
といへり。
◇しかのみならず、 また ¬大聖竹林寺の記¼ にいはく、 「五台山竹林寺の大講堂の中にして、 普賢・文殊東西に対座してムカヒヰタマヘリ、 もろもろの衆生のために妙法をときたまうとき、 法照禅師ひざまづ1036きて、 文殊にとひたてまつりき。 未来悪世の凡夫、 いづれの法をおこないてか、 ながく三界をいでゝ浄土にむまるゝことをうべきと。 文殊こたえてのたまはく、 往生浄土のはかり事、 弥陀の名号にすぎたるはなく、 頓証菩提の道、 たゞ称念の一門にあり。 これによりて、 釈迦一代の聖教にほむるところみな弥陀にあり。 いかにいはむや、 未来悪世の凡夫おやとこたへたまへり」。
◇かくのごときの要文等、 智者たちのおしへをみても、 なほ信心なくして、 ありがたき人界をうけて、 ゆきやすき浄土にいらざらむ事、 後悔なにごとかこれにしかむや。
◇かつはまた、 かくのこときの専修念仏のともがらを、 当世にもはら難をくはへて、 あざけりをなすともがらおほくきこゆ。 これまたむかしの権者達、 かねてみなさとりしりたまへること也。
◇善導◗¬法事讃¼ (巻下) 云、
「世尊法を説たまふ時まさに了らむとす。 慇懃にネムゴロニ 弥陀の名を付嘱したまへり。
五濁増さらむ時は多く疑ひ謗らむ。 道俗あひ嫌て聞くことを用ゐんじ。
「世尊説↠法時将↠了 | 慇懃ネムゴロニ付↢嘱弥陀名↡ |
五濁増時多疑謗 | 道俗相嫌不↠用↠聞 |
修行することあるを見は瞋毒を起さむ。 方便して破壊し競ひて怨を生ぜむ。
かくのごとき生盲闡提の輩、 頓教を毀滅してながく沈淪せむ。
見↠有↢修行↡起↢瞋毒↡ | 方便破壊競生↠怨 |
如↠此生盲闡提輩ムマルヽヨリメシヒタルナリ | 毀↢滅頓教ソシリホロボシテ ↡永沈淪 |
1037大地微塵劫を超過すとも、 いまだ三途の身を離るゝことを得べからず。
大衆同心にみな所有の破法の罪の因縁を懺悔せよ。」
超↢過大地微塵劫↡ | 未↠可↠得↠離↢三途身 |
大衆同心皆懺↢悔 | 所有破法罪因縁↡」 |
◇また ¬平等覚経¼ (第四巻) にいはく、 「若善男子・善女人ありて、 かくのごときらの浄土の法文をとくをきゝて、 悲カナシミ 喜ヨロコブをなして身の毛よだつことをなしてぬきいだすがごとくするは、 しるべし、 この人過去にすでに仏道をなしてきたれる也。 もしまたこれをきくといふとも、 すべて信楽せざらむにおきては、 しるべし、 この人はじめて三悪道のなかよりきたれるなり」。
◇しかれば、 かくのごときの謗難ソシル のともがらは、 さうなき罪人のよしをしりて、 論談にあたふべからざる事也。
◇また十善かたくたもたずして、 忉利・都率をねがはむ事、 きわめてかなひがたし。 極楽は五逆のもの念仏によりてむまる。 いはむや、 十悪におきてはさわりとなるべからず。 また慈尊の出世を期せむにも、 五十六億七千万歳、 いとまちどおなり、 いまだしらず。 他方の浄土そのところどころにはかくのごときの本願なし、 極楽はもはら弥陀の願力はなはだふかし、 なむぞほかをもとむべき。
◇またこのたび仏法に縁をむすびて、 三生・四生に得脱せむとのぞみをかくるともがらあり、 このねがひきわめて不定なり。 大通結縁のホフクヱシユノコヽロ人、 信楽慚愧のころものうらに、 一乗无価1038の玉をかけて、 隔生即亡して、 三千の塵点があひだ六趣に輪廻せしにあらずや。 たとひまた、 三生・四生に縁をむすびて、 必定得脱すべきにても、 それをまちつけむ輪転のあひだのくるしみ、 いとたえがたかるべし。 いとまちどおなるべし。
◇またかの聖道門においては、 三乗・五乗の得道なり、 この行は多百千劫なり。 こゝにわれら、 このたびはじめて人界の生をうけたるにてもあらず、 世世生生をへて、 如来の教化にも、 菩薩の弘経にも、 いくそばくかあひたてまつりたりけむ。 たゞ不信にして教化にもれきたるなるべし。
◇三世の諸仏、 十方の菩薩、 おもへばみなこれむかしのともなり。 釈迦も五百塵点のさき、 弥陀も十劫のさきは、 かたじけなく父母・師弟ともたがひになりたまひけむ。 仏は前仏の教をうけ、 善知識のおしえを信じて、 はやく発心修行したまひて、 成仏してひさしくなりたまひにけり。 われらは信心おろかなるがゆへに、 いまに生死にとまれるなるべし。
◇過去の輪転をおもへば、 未来もまたかくのごとし。 たとひ二乗の心おばおこすといふとも、 菩提心おばおこしがたし。 如来は勝スグレ方便にしておこないたまへり。 濁世の衆生、 自力をはげまむには、 百千億劫難行苦行をいたすといふとも、 そのつとめおよぶところにあらず。
◇またかの聖道門は、 よく清浄にして、 そのうつ1039わものにたれらむ人のつとむべき行なり。 懈怠不信にしては、 中々行ぜしめむよりも、 罪業の因となるかたもありぬべし。 念仏門におきては、 行住座臥ねてもさめても持念するに、 そのたよりとがなくして、 そのうつわものをきらはず、 ことごとく往生の因となる事うたがひなし。
「かの仏の因中に弘誓を立たまへり。 名を聞て我を念ぜばすべて迎へ来しめむと。
貧窮と富貴とを簡はず。 下智と高才とを簡はず。
多聞と浄戒を持てるとを簡はず。 破戒と罪根深とを簡はず。
たゞ心を廻して多く念仏せしむれば、 よく瓦礫を変じて金と成さしむと。」 (五会法事讃巻本)
◇「彼仏因中立↢弘誓↡ | 聞↠名念↠我総迎来 |
不↠簡↣貧窮将↢富貴↡ | 不↠簡↣下智与↢高才↡ |
不↠簡↣多聞持↢浄戒↡ | 不↠簡↢破戒罪根深↡ |
但使↢廻↠心多念仏↡ | 能令↢瓦礫変成↟金」 |
といへり。
◇またいみじき経論・聖教の智者といゑども、 最後臨終の時、 その文を暗誦するにあたはず。 念仏におきては、 いのちをきわむるにいたるまで、 称念するにそのわづらひなし。
◇また仏の誓願のためしをひらかむにも、 薬師の十二の誓願には不取正覚の願なく、 千手の願、 また不取正覚とちかひたまへるも、 いまだ正覚なりたまはず。 弥陀は不取正覚の願をおこして、 しかも正覚なりて、 すでに十劫をへたまへり。 かくのごときの弥陀のちかひに信をいたさざらむ人は、 また他の法文おも信仰アオグするにおよばず。
◇しかれば、 返々も一向専修の念仏に信をい1040たして、 他のこゝろなく、 日夜朝アシタ暮、ユウベ 行住座臥に、 おこたる事なく称念すべき也。 専修念仏をいたすともがら、 当世にも往生をとぐるきこえ、 そのかずおほし。 雑修の人におきて、 そのきこえきわめてありがたき也。
◇そもそもこれをみても、 なほよこさまのひがゐむにいりて、 もの難ぜむとおもはむともがらは、 さだめていよいよいきどほりをなして、 しからば、 むかしより仏のときおきたまへる経論・聖教、 みなもて無益のいたづらものにて、 うせなむとするにこそなど、 あざけり申さむずらむ。
◇それは天臺・法相の本寺・本山に修学をいとなみて、 名利おも存じ、 おほやけにもつかへ、 官位おものぞまむとおもはむ人におきては、 左右におよぶべからず。 また上根利智の人は、 そのかぎりにあらず。 このこゝろをえてよく了サトリ見ミルする人は、 あやまりて聖道門をことにおもくするゆへと存ずべき也。
◇しかるを、 なほ念仏にあひかねてつとめをいたさむ事は、 聖道門をすでに念仏の助行にもちゐるべきか。 その条こそ、 かへりて聖道門をうしなふにては侍けれ。
◇たゞこの念仏門は、 返々もまた他心なく後世をおもはむともがらの、 よしなきひがゐむにおもむきて、 時おも身おもはからず、 雑行を修して、 このたびたまたまありがたき人界にむまれて、 さばかりまうあひがたかるべき弥陀のち1041かひをすてゝ、 また三途の旧里にフルキサト かへりて、 生死に輪転して、 多百千劫をへむかなしさをおもひしらむ人の身のためを申すなり。
◇さらば、 諸宗のいきどほりにはおよぶべからざる事也。▽
三県 左 シンヤウタイグヱンミトコロナリ