二四(1029)、法語(念仏大意)

末代まちだいあくしゆじやうわうじやうのこゝろざしをいたさむにおきては、 またのつとめあるべからず、 たゞ善導ぜんだうしやくにつきて一向ゐちかう専修せんじゆ念仏ねむぶちもんにいるべきなり。 しかるを一向ゐちかうしんをいたして、 そのもんにいるひときわめてありがたし。 そのゆへは、 あるいぎやうにこゝろをそめ、 あるい念仏ねむぶちのうをおもくせざるなるべし。 つらつらこれをおもふに、 まことしくわうじやうじやうのねがひふかきこゝろをもはらにするひと、 ありがたきゆへか。 まづこのだうをよくよくこゝろうべきなり。

すべて天臺てんだい法相ほふさうきやうろんしやうげうも、 そのつとめをいたさむに、 ひとつとしてあだなるべきにはあらず。 たゞし仏道ぶちだうしゆぎやうは、 よくよくをはかり、 ときをはかるべきなり。 ほとけめちだいひやくねんにだに、 智慧ちゑをみがきて煩悩ぼむなうだんずることかたく、 こゝろをすましてぜんぢやう1030をえむことかたきゆへに、 ひとおほく念仏ねむぶちもんにいりけり。 すなわちだうしやく善導ぜんだうとうじやうしゆしやうにん、 このときひとなり。 いはむや、 このころはだいひやくねんとうじやうけんときなり、 ぎやうほふさらにじやうじゆせむことかたし。 しかのみならず、 念仏ねむぶちにおきては、 末法まちぽふののちなほやくあるべし。

いはむや、 いまのよは末法まちぽふ万年まんねんのはじめなり、 一念ゐちねむ弥陀みだねむぜむに、 なむぞわうじやうをとげざらむや。 たとひわれら、 そのうつわものにあらずといふとも、 末法まちぽふのすゑのしゆじやうには、 さらににるべからず。

かつはまたしやくそんざいときすら、 即身そくしんじやうぶちにおきては、 竜女りうによのほか、 いとありがたし。 たとひまた即身そくしんじやうぶちまでにあらずとも、 このしやうだうもんをおこなひあひたまひけむさちしやうもんたち、 そのほかの権者ごんじや・ひじりたち、 そのゝちの比丘びく比丘びくとういまにいたるまでのきやうろん学者がくしや、 ¬法華ほふくゑきやう¼ のしや、 いくそばくぞや。 こゝにわれら、 なまじゐにしやうだうをまなぶといふとも、 かの人々ひとびとにはさらにおよぶべからず。

かくのごときの末代まちだいしゆじやうを、 弥陀みだぶちかねてさとりたまひて、 こふがあひだゆいして十八じふはちぐわんをおこしたまへり。 そのなかだい十八じふはちぐわんにいはく、 「十方じふぱうしゆじやう、 こゝろをいたして信楽しんげうして、 わがくににむまれむとねがひて、 ない十念じふねむせむに、 もしむまれずといはゞ、 しやうがくをとらじ」 (大経巻上) とちかひたまひて、 すでにしやうがくなり1031たまへり。

これをまたしやくそんときたまへるきやう、 すなわち ¬くわんりやう寿じゆ¼ とうの「さんきやう」 なり。 かのきやうはたゞ念仏ねむぶちもんなり。 たとひ悪業あくごふしゆじやうとう弥陀みだのちかひばかりに、 なほしんをいたすといふとも、 しやこれを一一ゐちゐちにときたまへる 「さんきやう」、 あに一言ゐちごんもむなしからむや。 そのうへまた、 六方ろくぱう十方じふぱう諸仏しよぶち証誠しようじやう、 この ¬きやう¼ とうにみえたり。 ぎやうにおきては、 かくのごときの証誠しようじやうみえざるか。

しかれば、 ときもすぎ、 にもこたふまじからむぜんぢやう智慧ちゑしゆせむよりは、 やく現在げんざいにして、 しかもそこばくのほとけたちの証誠しようじやうしたまへる弥陀みだみやうがうしようねむすべきなり

そもそも後世ごせしやなかに、 極楽ごくらくはあさく弥陀みだはくだれり。 するところ密厳みちごむ華蔵くゑざうとうかいなりとこゝろをかくるひともはべるにや、 それはなはだおほけなし。 かのは、 だんみやうさちのほかはいることなし。 また一向ゐちかう専修せんじゆ念仏ねむぶちもんにいるなかにも、 日別にちべちさん万返まんべん、 もしはまんないじふ万返まんべんといふとも、 これをつとめおはりなむのち、 年来ねんらいじゆ読誦どくじゆこうつもりたるしよきやうおもよみたてまつらむこと、 つみになるべきかとしむをなして、 あざむくともがらもまじわれり。 それつみになるべきにては、 いかでかははべるべき。

末代まちだいしゆじやう、 そのぎやうじやうじゆしがたきによりて、 まづ弥陀みだぐわんりきにのりて、 念仏ねむぶちわうじやうをとげてのち、 じやうにて弥陀みだ如来によらいくわんおむせいにあひ1032たてまつりて、 もろもろのしやうげうおもがくし、 さとりおもひらくべきなり。 また末代まちだいしゆじやう念仏ねむぶちをもはらにすべきこと、 そのしやくおほかるなかに、 かつは十方じふぱう恒沙ごうじやほとけ証誠しようじやうしたまふ。

また ¬観経くわんぎやうしよ¼ の第三だいさん (定善義)善導ぜんだういは

自余じよしゆぎやうこれぜんなづくといゑども、 もし念仏ねむぶちたくらぶるにはまたくけうにあらざるなり。 このゆへにしよきやうなか処処しよしよひろ念仏ねむぶちのうむ。 ¬りやう寿じゆきやう¼ の十八じふはちぐわんなかのごとき、 たゞ弥陀みだみやうがう専念せんねむしてしやうあかす。 また ¬弥陀みだきやう¼ のなかのごとき、 一日ゐちにち七日しちにち弥陀みだみやうがう専念せんねむすればしやうと。 また十方じふぱう恒沙ごうじや諸仏しよぶち証誠しようじやうむなしからず。 またこの ¬きやう¼ のなかぢやうさんもんなかに、 ただみやうがう専念せんねむすればしやうへうす。 このれいゐちにあらざるなり。 ひろ念仏ねむぶち三昧ざんまいあらはおはりぬ」

自余じよしゆぎやうすいみやうぜん↡、 にやく念仏ねむぶちしやぜむけう是故ぜこしよきやうちう処処しよしよくわうさん念仏ねむぶちのう↡。 によ↢ ¬りやう寿じゆきやう¼ 十八じふはちぐわんちう↡、 ゆいみやうせんねむ弥陀みだみやうがうとくしやうによ↢ ¬弥陀みだきやう¼ ちう↡、 一日ゐちにち七日しちにちせんねむ弥陀みだみやうがうとくしやう十方じふぱう恒沙ごうじや諸仏しよぶち証誠しようじやう又此うし ¬きやう¼ ちうぢやうさん文中もんちうゆいへうせんねむみやうがうとくしやうれいゐちくわうけん念仏ねむぶち三昧ざんまいきやう

とあり。

また善導ぜんだうの ¬わうじやう礼讃らいさん¼ (意) ならびに専修せんじゆじやうごふもんとうにも、 「雑修ざふしゆのものはわうじやうをとぐることまんなかゐちなほかたし。 専修せんじゆのものは、 ひやくひやくながらむまる」 といへり。 これらすなわち、 なにごともそのもんにいりなむには、 一向ゐちかうにもはらのこゝろあるべからざるゆへなり。

たとえばこむじやうにも主君しゆくんにつかへ、 ひとをあひたのむみち、 にんにこゝろざしをわくると、 一向ゐちかうにあひたのむと、 ひとしからざることなり たゞしいゑゆたかにして、 のりもの、 僮僕どうぼくもかツブネヤツコヲイフなひ、 面面めんめんにこゝろざしをいたすちからもたえたるともがらは、 かたがたにこゝろざしをわくといゑども、 そのこうむなしからず。 かくのごときのちからにたえざるものは、 所所しよしよをかぬるあひだ、 はつかる1033といゑども、 そのしるしをえがたし。 一向ゐちかうひと一人ゐちにんをたのめば、 まづしきものも、 かならずそのあわれみをうるなり。

すなわち末代まちだいあく無智むちしゆじやうは、 かのまづしきもののごときなり。 むかしの権者ごんじやは、 いゑゆたかなるしゆじやうのごときなり。 しかれば、 無智むちのみをもちてしやぎやうをまなばむにおきては、 貧者ひんじや徳人とくにんをまなばむがごときなり。

またなほたとひをとらば、 たかきやまの、 ひとかよふべくもなからむがむせきを、 ちからたえざらむものゝ、 いしのかどのねにとりすがりてのぼらむとはげまむは、 ざふぎやうしゆしてわうじやうをねがわむがごときなり。 かのやまのみねより、 つよきつなをおろしたらむにすがりてのぼらむは、 弥陀みだぐわんりきをふかくしんじて、 一向ゐちかう念仏ねむぶちをつとめて、 わうじやうせむがごときなるべし。

また一向ゐちかう専修せんじゆには、 ことに三心さんしむそくすべきなり三心さんしむといふは、 ひとつにはじやうしむふたつには深心じむしむみつにはかうほちぐわんしむなり

じやうしむといふは、 ぶちらいせず弥陀みだらいし、 ぎやうしゆせず弥陀みだねんじて、 もはらにしてもはらならしむるなり

深心じむしむといふは、 弥陀みだほんぐわんをふかくしんじて、 わがみは无始むしよりこのかた罪悪ざいあくしやうぼむゐちとしてしやうをまぬかるべきみちなきを、 弥陀みだほんぐわん思議しぎなるによりて、 かのみやうがう一向ゐちかうしようねむして、 うたがひをなすこゝろなければ、 一念ゐちねむのあひだに八十はちじふおく1034こふしやうのつみをめちして、 さい臨終りむじゆとき、 かならず弥陀みだ来迎らいかうにあづかるなり

かうほちぐわんしむといふは、 自他じたぎやう真実しんじちしむなかかうほちぐわんするなり

この三心さんしむひとつもかけぬれば、 わうじやうをとげがたし。 しかれば、 ぎやうをまじえむによりてつみにはなるべからずといふとも、 なほ念仏ねむぶちわうじやうぢやうぞんじていさゝかのうたがひをのこして、 他事たじをくわふるにてはべるべきなり

たゞしこの三心さんしむなかに、 じやうしむをやうやうにこゝろえて、 ことにまことをいたすことを、 かたくまふしなすともがらもはべるにや。 しからば、 弥陀みだほんぐわんほんにもたがひて、 信心しんじむはかけぬるにてあるべきなり。

いかに信力しんりきをいたすといふとも、 かゝる造悪ざうあくぼむのみの信力しんりきにて、 ねがひをじやうじゆせむほどの信力しんりきは、 いかでかはべるべき。 たゞ一向ゐちかうわうじやう決定くゑちぢやうせむずればこそ、 ほんぐわん思議しぎにてははべるべけれ。

さやうに信力しんりきもふかく、 よからむひとのためには、 かゝるあながちに思議しぎほんぐわんおこしたまふべきにあらず、 このだうおばぞんじながら、 まことしく専修せんじゆ念仏ねむぶちゐちぎやうにいるひといみじくありがたきなり。

しかるをだうしやくぜん決定くゑちぢやうわうじやう先達せんだちなり智慧ちゑふかくして講説かうせちしゆしたまひき。 曇鸞どむらんほふさん已下いげ弟子でしなり。 「かのらん智慧ちゑかうタカクおんフカシなりといゑども、 ろん講説かうせちをすてゝ、 念仏ねむぶちもんにいりたまはむや、 わがしるところさわるところ、 なむぞおほ1035しとするにたらむや」 (迦才浄土論巻下) とおもひとりて、 涅槃ねちはん講説かうせちをすてゝ、 ひとへにわうじやうごふしゆして、 一向ゐちかうにもはら弥陀みだねんじて、 相続さうぞくけんにしてアヒツヾキテヒマナクシテトイフげんわうじやうしたまへり。

かくのごときだうしやくは、 講説かうせちをやめて念仏ねむぶちしゆし、 善導ぜんだう雑修ざふしゆをきらいて専修せんじゆをつとめたまひき。 まただうしやくぜんのすゝめによりて、 并州へいしうクニノナヽリ*さんくゑんひと七歳しちさい以後いご一向ゐちかう念仏ねむぶちしゆすといへり。

しかれば、 わがてう末法まちぽふしゆじやう、 なむぞあながちに雑修ざふしゆをこのまむや。 たゞすみやかに弥陀みだ如来によらいぐわんしや如来によらいせちだうしやく善導ぜんだうしやくをまもるに、 ざふぎやうしゆして極楽ごくらくくわぢやうぞんぜむよりは、 専修せんじゆごふぎやうじて、 わうじやうののぞみを決定くゑちぢやうすべきなり

またかのだうしやく善導ぜんだうとうしやくは、 念仏ねむぶちもん人々ひとびとことなれば、 左右さうにおよぶべからず。

法相ほふさうしゆにおきては、 専修せんじゆ念仏ねむぶちもん、 ことに信向しんかうせざるかとぞんずるところに、 おんだいの ¬西方さいはうえうくゑち¼ にいはく、

末法まちぽふ万年まんねんにはきやうことごとくめちせむ。 弥陀みだ一教ゐちけうものすることひとへにさらむ」

末法まちぽふ万年まんねんきやうしちめち弥陀みだ一教ゐちけうもちへんぞう

しやくしたまへり。 またおなじ¬しよ¼ (西方要決意) にいはく、

さんだんもんじふしゆおしへしやう分役ぶんやくじゆうんもんくわうがくざむそくせむにはしかず、 念仏ねむぶち単修たんしゆをもはらせよ」

さんだんもんじふしゆくんしやう分役ぶんやくじゆうんによざむそくシバラクヤメニハもんくわうがく↡、 せん念仏ねむぶち単修たんしゆ↡」

といへり。

しかのみならず、 また ¬だいしやう竹林ちくりむ¼ にいはく、 「だいさん竹林ちくりむだい講堂かうだううちにして、 げん文殊もんじゆ東西とうざいたいしてムカヒヰタマヘリ、 もろもろのしゆじやうのために妙法めうほふをときたまうとき、 法照ほふせうぜんひざまづ1036きて、 文殊もんじゆにとひたてまつりき。 らいあくぼむ、 いづれのほふをおこないてか、 ながく三界さんがいをいでゝじやうにむまるゝことをうべきと。 文殊もんじゆこたえてのたまはく、 わうじやうじやうのはかりごと弥陀みだみやうがうにすぎたるはなく、 とんしようだいだう、 たゞしようねむ一門ゐちもんにあり。 これによりて、 しや一代ゐちだいしやうげうにほむるところみな弥陀みだにあり。 いかにいはむや、 らいあくぼむおやとこたへたまへり」。

かくのごときの要文えうもんしやたちのおしへをみても、 なほ信心しんじむなくして、 ありがたき人界にんがいをうけて、 ゆきやすきじやうにいらざらむことこうくわいなにごとかこれにしかむや。

かつはまた、 かくのこときの専修せんじゆ念仏ねむぶちのともがらを、 当世たうせいにもはらなんをくはへて、 あざけりをなすともがらおほくきこゆ。 これまたむかしの権者ごんじやたち、 かねてみなさとりしりたまへることなり

善導ぜんだう¬ほふさん¼ (巻下) いは

そんほうときたまふときまさにおはらむとす。 慇懃おんごんネムゴロニ 弥陀みだみなぞくしたまへり。

じよくさらむときおほうたがそしらむ。 道俗だうぞくあひきらくことをもちゐんじ。

そんせちぽうしやうれう慇懃おんごんネムゴロニぞく弥陀みだみやう
じよくぞうほう道俗だうぞく相嫌さうけむようもん

しゆぎやうすることあるをみて瞋毒しんどくおこさむ。 方便はうべんして破壊はゑきほひてあだしやうぜむ。

かくのごときしやうまう闡提せんだいともがら頓教とんげう毀滅くゐめちしてながく沈淪ちむりむせむ。

けんしゆぎやう瞋毒しんどく方便はうべん破壊はゑきやうしやうおん
によしやうまう闡提せんだいはいムマルヽヨリメシヒタルナリくゐめち頓教とんげうソシリホロボシテ  ゐやう沈淪ちむりむ

1037だいぢんごふ超過てうくわすとも、 いまださんはなるゝことをべからず。

大衆だいしゆ同心どうしんにみなしよほふつみ因縁いんねん懺悔さむぐゑせよ。」

てうくわだいぢんごふとくさんしん
大衆だいしゆ同心どうしんかいさむぐゑしよほふざい因縁いんねん↡」

また ¬びやうどうがくきやう¼ (第四巻) にいはく、 「もしぜんなむぜん女人によにんありて、 かくのごときらのじやう法文ほふもんをとくをきゝて、 カナシミ ヨロコブをなしてよだつことをなしてぬきいだすがごとくするは、 しるべし、 このひとくわにすでに仏道ぶちだうをなしてきたれるなり。 もしまたこれをきくといふとも、 すべて信楽しんげうせざらむにおきては、 しるべし、 このひとはじめてさん悪道まくだうのなかよりきたれるなり」。

しかれば、 かくのごときの謗難ばうなんソシル のともがらは、 さうなき罪人ざいにんのよしをしりて、 論談ろんだんにあたふべからざることなり

また十善じふぜんかたくたもたずして、 たうそちをねがはむこと、 きわめてかなひがたし。 極楽ごくらくぐゐやくのもの念仏ねむぶちによりてむまる。 いはむや、 十悪じふあくにおきてはさわりとなるべからず。 またそんしゆつせむにも、 じふ六億ろくおく七千しちせん万歳まんざい、 いとまちどおなり、 いまだしらず。 はうじやうそのところどころにはかくのごときのほんぐわんなし、 極楽ごくらくはもはら弥陀みだぐわんりきはなはだふかし、 なむぞほかをもとむべき。

またこのたび仏法ぶちぽふえんをむすびて、 さんしやうしやう得脱とくだちせむとのぞみをかくるともがらあり、 このねがひきわめてぢやうなり。 だい結縁けちえんホフクヱシユノコヽロひと信楽しんげう慚愧ざむぐゐのころものうらに、 ゐちじよう无価むげ1038たまをかけて、 隔生きやくしやう即亡そくまうして、 三千さんぜん塵点ぢんでむがあひだ六趣ろくしゆりんせしにあらずや。 たとひまた、 さんしやうしやうえんをむすびて、 ひちぢやう得脱とくだちすべきにても、 それをまちつけむ輪転りんでんのあひだのくるしみ、 いとたえがたかるべし。 いとまちどおなるべし。

またかのしやうだうもんにおいては、 さんじようじよう得道とくだうなり、 このぎやうひやくせんごふなり。 こゝにわれら、 このたびはじめて人界にんがいしやうをうけたるにてもあらず、 世世せせ生生しやうしやうをへて、 如来によらい教化けうくゑにも、 さちきやうにも、 いくそばくかあひたてまつりたりけむ。 たゞしんにして教化けうくゑにもれきたるなるべし。

さん諸仏しよぶち十方じふぱうさち、 おもへばみなこれむかしのともなり。 しやひやく塵点ぢんでむのさき、 弥陀みだ十劫じふこふのさきは、 かたじけなく父母ぶもていともたがひになりたまひけむ。 ほとけ前仏ぜんぶちけうをうけ、 ぜんしきのおしえをしんじて、 はやく発心ほちしむしゆぎやうしたまひて、 じやうぶちしてひさしくなりたまひにけり。 われらは信心しんじむおろかなるがゆへに、 いまにしやうにとまれるなるべし。

くわ輪転りんでんをおもへば、 らいもまたかくのごとし。 たとひじようしむおばおこすといふとも、 だいしむおばおこしがたし。 如来によらいしようスグレ方便はうべんにしておこないたまへり。 ぢよくしゆじやうりきをはげまむには、 ひやくせん億劫おくこふなんぎやうぎやうをいたすといふとも、 そのつとめおよぶところにあらず。

またかのしやうだうもんは、 よく清浄しやうじやうにして、 そのうつ1039わものにたれらむひとのつとむべきぎやうなり。 だいしんにしては、 中々なかなかぎやうぜしめむよりも、 罪業ざいごふいんとなるかたもありぬべし。 念仏ねむぶちもんにおきては、 ぎやうぢゆぐわねてもさめてもねむするに、 そのたよりとがなくして、 そのうつわものをきらはず、 ことごとくわうじやういんとなることうたがひなし。

「かのぶち因中いんちうぜいたてたまへり。 きゝわれねむぜばすべてむかきたらしめむと。
びんくゐとをきらはず。 下智げち高才かうざいとをきらはず。
もんじやうかいたもてるとをきらはず。 かい罪根ざいこんふかきとをきらはず。
たゞしむしておほ念仏ねむぶちせしむれば、 よくぐわりやくへんじてこがねさしむと。」 (五会法事讃巻本)

ぶち因中いんちうりふぜいもんみやうねむそう迎来かうらい
けんびんしやうくゐけん下智げち高才かうざい
けんもんじやうかいけんかい罪根ざいこんじん
たん使しむ念仏ねむぶちのうりやうぐわりやくへんじやうこむ

といへり。

またいみじききやうろんしやうげうしやといゑども、 さい臨終りむじゆとき、 そのもん暗誦あむじゆするにあたはず。 念仏ねむぶちにおきては、 いのちをきわむるにいたるまで、 しようねむするにそのわづらひなし。

またほとけせいぐわんのためしをひらかむにも、 やくじふせいぐわんにはしゆしやうがくぐわんなく、 千手せんじゆぐわん、 またしゆしやうがくとちかひたまへるも、 いまだしやうがくなりたまはず。 弥陀みだしゆしやうがくぐわんをおこして、 しかもしやうがくなりて、 すでに十劫じふこふをへたまへり。 かくのごときの弥陀みだのちかひにしんをいたさざらむひとは、 また法文ほふもんおも信仰しんかうアオグするにおよばず。

しかれば、 返々かへすがへす一向ゐちかう専修せんじゆ念仏ねむぶちしんをい1040たして、 のこゝろなく、 にちてうアシタユウベ ぎやうぢゆぐわに、 おこたることなくしようねむすべきなり 専修せんじゆ念仏ねむぶちをいたすともがら、 当世たうせいにもわうじやうをとぐるきこえ、 そのかずおほし。 雑修ざふしゆひとにおきて、 そのきこえきわめてありがたきなり

そもそもこれをみても、 なほよこさまのひがゐむにいりて、 ものなんぜむとおもはむともがらは、 さだめていよいよいきどほりをなして、 しからば、 むかしよりほとけのときおきたまへるきやうろんしやうげう、 みなもてやくのいたづらものにて、 うせなむとするにこそなど、 あざけりまふさむずらむ。

それは天臺てんだい法相ほふさうほん本山ほんざん修学しゆがくをいとなみて、 みやうおもぞんじ、 おほやけにもつかへ、 くわんおものぞまむとおもはむひとにおきては、 左右さうにおよぶべからず。 またじやうこん利智りちひとは、 そのかぎりにあらず。 このこゝろをえてよくれうサトリけんミルするひとは、 あやまりてしやうだうもんをことにおもくするゆへとぞんずべきなり

しかるを、 なほ念仏ねむぶちにあひかねてつとめをいたさむことは、 しやうだうもんをすでに念仏ねむぶちじよぎやうにもちゐるべきか。 そのでうこそ、 かへりてしやうだうもんをうしなふにてははべりけれ。

たゞこの念仏ねむぶちもんは、 返々かへすがへすもまたしむなく後世ごせをおもはむともがらの、 よしなきひがゐむにおもむきて、 ときおもおもはからず、 ざふぎやうしゆして、 このたびたまたまありがたき人界にんがいにむまれて、 さばかりまうあひがたかるべき弥陀みだのち1041かひをすてゝ、 またさんきうフルキサト かへりて、 しやう輪転りんでんして、 ひやくせんごふをへむかなしさをおもひしらむひとのためをまふすなり。

さらば、 諸宗しよしゆのいきどほりにはおよぶべからざることなり

 

三県 左 シンヤウタイグヱンミトコロナリ