一七(1014)、故聖人の御房の御消息(光明房宛)

またしやうにん御坊おむばうおむ消息せうそく

一念ゐちねむわうじやうきやうちうにもほぼ流布るふするところなり。 おほよそごん道断だうだんのことなり、 まことにほとおどもんにおよぶべからざるなり。

せむずるところ、 ¬そう巻経くわんぎやう¼ (大経)に 「ない一念ゐちねむ信心しんじむくわん」 といひ、 また善導ぜんだうくわしやう

かみゐちぎやうつくしもじふしやうゐちしやうとういたるまで、 さだめてわうじやうない一念ゐちねむうたがこゝろあることなかれ」 (礼讃)

じやうじんゐちぎやう下至げしじふしやうゐちしやうとう↡、 ぢやうとくわうじやう↡、 ない一念ゐちねむしむ↡」

といえる。 これらのもんをあしくぞみたるともがら、 だい邪見じやけんぢゆしてまふしさふらふところなり。

ないといひ下至げしといえる、 みなじやうじんゐちぎやうをかねたることばなり。 しかるをちかごろ愚痴ぐち無智むちのともがらおほく、 ひとへに十念じふねむ一念ゐちねむなりとしふしてじやうじんゐちぎやうはいするスツルナリ でうざむハヂナシぐゐハジナシトナリことなり。 まことに十念じふねむ一念ゐちねむまでもほとけだいほんぐわん、 なほかならず引接いんぜふしたまふ1015じやうどくなりとしんじて、 ゐち退たいシリゾキぎやうキステザレずべキナリ なり もんしようおほしといゑども、 これをいだすにおよばず、 いふにたらざることなり。

こゝにかの邪見じやけんひと、 このなんをかぶりて、 こたえていはく、 わがいふところも、 しん一念ゐちねむにとりてねむずべきなり。 しかりとて、 またねむずべからずとはいはずといふ。 これまたことばはじむじやうツネナルトイフるににたりといゑども、 こゝろは邪見じやけんをはなれず。 しかるゆへは、 決定くゑちぢやう信心しんじむをもて一念ゐちねむしてのちは、 またねむぜすといふとも、 十悪じふあくぐゐやくなほさわりをなさず、 いはむや、 少罪せうざいおやとしんずべきなりといふ。

このおもひにぢゆせむものは、 たとひおほくねむずといはむ。 弥陀みだぶちおむこゝろにかなはむや、 いづれのきやうろんにんせちぞや。 これひとへにだい道心だうしむたうぜんのたぐひの、 ほしいまゝにあくをつくらむとおもひてまたねむぜずは、 そのあくかのしよういんをさえて、 むしろさんにおちざらむや。

かのゐちしやう造悪ざうあくのものゝ臨終りむじゆ十念じふねむしてわうじやうする、 これ懺悔さむぐゑ念仏ねむぶちのちからなり、 このあくにはこむずべヒトゴトニナからずルヲイフナリ。 かれは懺悔さむぐゑひとなり、 これは邪見じやけんひとなり。 なほ不可ふかせちせちことなり

もししやうじんのものありといふとも、 このをきかばすなわちだいになりなむ。 まれにかいをたもつひとありといふとも、 このせちしんぜばすなわちざむなり。 おほよそかくのごときのひとは、 仏法ぶちぽふフブチポフト外道ぐゑだうイフハブチポなり、 フニツキタル1016グヱダウナリみのうちむしなり。

またうたがふらくは、 てんじゆんのために、 しやうじんをうばわるゝともがらの、 もろもろのわうじやうひとをさまたげむとするなり。 あやしむべし、 ふかくおそるべきものなりまいコトゴトニ筆端ひちたんにつくしがフデニアラワシガタシトナリ たし。 つゝしみてまふす

これは越中 ゑちうのくに光明くわうみやうばうまふしひじり、 じやうかくばう弟子でし一念ゐちねむをたてゝ念仏ねむぶち数返しゆへんをとゞめむとまふして、 消息せうそくをもてわざとまふしさふらふおむかへりごとをとりて、 くに人々ひとびとにみせむとてまふしさふらふあひだ、 かたのごとくのおむかへりごとさふらひき。