一七(1014)、故聖人の御房の御消息(光明房宛)
○又故聖人の御坊の御消息。
◇一念往生の義、 京中にも粗流布するところなり。 おほよそ言語道断のことなり、 まことにほとおど御問におよぶべからざるなり。
◇詮ずるところ、 ¬双巻経¼ (大経) の下に 「乃至一念信心歓喜」 といひ、 また善導和尚は
「上一形を尽し下十声一声等に至まで、 さだめて往生を得、 乃至一念疑ふ心あることなかれ」 (礼讃)
「上尽↢一形↡下至↢十声一声等↡、 定得↢往生↡、 乃至一念無↠有↢疑心↡」
といえる。 これらの文をあしくぞみたるともがら、 大邪見に住して申候ところなり。
◇乃至といひ下至といえる、 みな上尽一形をかねたることばなり。 しかるをちかごろ愚痴・無智のともがらおほく、 ひとへに十念・一念なりと執して上尽一形を廃するスツルナリ 条、 无慚ハヂナシ・无愧のハジナシトナリことなり。 まことに十念・一念までも仏の大悲本願、 なほかならず引接したまふ无1015上の功徳なりと信じて、 一期不退シリゾキに行キステザレずべキナリ き也。 文証おほしといゑども、 これをいだすにおよばず、 いふにたらざる事なり。
◇こゝにかの邪見の人、 この難をかぶりて、 こたえていはく、 わがいふところも、 信を一念にとりて念ずべきなり。 しかりとて、 また念ずべからずとはいはずといふ。 これまたことばは尋常なツネナルトイフるににたりといゑども、 こゝろは邪見をはなれず。 しかるゆへは、 決定の信心をもて一念してのちは、 また念ぜすといふとも、 十悪・五逆なほさわりをなさず、 いはむや、 余の少罪おやと信ずべきなりといふ。
◇このおもひに住せむものは、 たとひおほく念ずといはむ。 阿弥陀仏の御こゝろにかなはむや、 いづれの経論・人師の説ぞや。 これひとへに懈怠・無道心、 不当・不善のたぐひの、 ほしいまゝに悪をつくらむとおもひてまた念ぜずは、 その悪かの勝因をさえて、 むしろ三途におちざらむや。
◇かの一生造悪のものゝ臨終に十念して往生する、 これ懺悔念仏のちからなり、 この悪の義には混ずべヒトゴトニナからずルヲイフナリ。 かれは懺悔の人なり、 これは邪見の人なり。 なほ不可説不可説の事也。
◇もし精進のものありといふとも、 この義をきかばすなわち懈怠になりなむ。 まれに戒をたもつ人ありといふとも、 この説を信ぜばすなわち無慚なり。 おほよそかくのごときの人は、 附仏法フブチポフトの外道イフハブチポなり、 フニツキタル師1016子グヱダウのナリみの中の虫なり。
◇またうたがふらくは、 天魔波旬のために、 精進の気 キ をうばわるゝともがらの、 もろもろの往生の人をさまたげむとするなり。 あやしむべし、 ふかくおそるべきもの也。 毎事コトゴトニ筆端につくしがフデニアラワシガタシトナリ たし。 謹言。
これは越中国に光明房と申しひじり、 成覚房が弟子等、 一念の義をたてゝ念仏の数返をとゞめむと申て、 消息をもてわざと申候。 御返事をとりて、 国の人々にみせむとて申候あひだ、 かたのごとくの御返事候き。▽