十七(549)、 越中の光明房へつかはす御返事
○越中国光明房へつかはす御返事 第十七
◇一念往生の義は、 京中にもほゞ流布するよしうけ給はるところ也。 およそ言語道断の事也、 ま事にほとほと御問にもおよぶべからざる事歟。
◇¬双巻経¼ (大経巻下) のなかには 「乃至一念信心歓喜」 といひ、 又善導和尚の ¬疏¼ (礼讃) には 「上一形を尽し下十声・一声にいたるまでも、 さだめて往生する事をうと信じて、 乃至一念もうたがふ心0550なかれ」 といへる。 これらの文をあしく料簡するともがらの、 かゝる大邪見に住して申候ところ也。
◇「乃至」 といひ 「下至」 といへるは、 上み一形をつくすをかねたる詞也。 しかるをこのごろの愚痴・无智のともがらのおほく、 ひとえに十念・一念なりと執して上尽一形をすつる条、 无慚・无愧の事也。 ま事に十念・一念までもほとけの大悲本願、 なをかならず引摂し給ふ无上の功徳なりと信じて、 一期不退に行ずべき也。 文証おほしといへども、 これを出すにおよばず、 不足言の事也。
◇こゝにかの邪見の人、 この難をうけて、 答へていはく、 わがいふところも、 信を一念にとりて念ずべき也。 しかりといひて、 又念仏すべからずとはいはずと 云云。 ことばは尋常なるににたれども、 心は邪見をはなれず。 しかるゆへは、 決定の信心をもて一念してのちは、 又念ずといふとも、 十悪・五逆なをさわりをなさず、 いはんや、 余の小罪をやと信ずべき也といふ。
◇このおもひに住せん物は、 たとひ多念すといふとも、 あにほとけの御心にかなはんや、 いづれの経論のいかなる説ぞや。 これひとへに懈怠・无道心のいたり、 不当・不善のたぐひの、 ほしいまゝに悪をつくらんとおもひていふ事なり。 又念ぜずは、 その悪かの勝因をさへて、 むしろ三塗におちざらんや。
◇かの一生造悪のものゝ臨終に十念して往生する0551は、 これ懺悔念仏のちから也。 この悪義には混乱すべからず。 かれは懺悔の人也、 これは邪見の人也。 なをなを不可説の事也。
◇たとひ精進のものなりといふとも、 この義をきかばかならず懈怠になりなん。 まれに持戒の人ありといふとも、 この説を信ぜばすなはち无慚になりぬべし。 およそかくのごときの人は、 附仏法の外道也、 師子のなかのむし也。
◇又うたがふらくは、 天魔波旬のために、 その正解をうばゝれたるともがらの、 もろもろの往生の人をさまたげんとするか。もともあやしむべし、 ふかくおそるべし。 ことごと筆端につくしがたし。 あなかしこ、 あなかしこ。▽