0929山科御坊事其時代事

 

 条々目録

一 (1)山科御坊事 阿弥陀堂 御影堂事

一 (2)同両所勤行等事
一  阿弥陀堂勤行

一 (3)御影堂勤行

一 (4)早引の勤行の事 品々

(一 (5)早引の後の短念仏)

一 (6)昔は正信偈ぜゞ希の事

一 (7)知恩講・両師講式事

一 (8)讃念仏の事

一 (9)六人の供僧の事

一 (10)鎰取の事

一 (11)衣の色の事

一 (12)御影堂の短念仏、 同阿弥陀堂念仏事

一 (13)勤の上の御法談事

一 (14)法敬坊・慶聞坊・法専坊等讃嘆事

一 (15)法儀ある人と遠国衆座上事

一 (16)毎月廿五日勤事

一 (17)五日勤事

一 (18)前住御仏事の時南殿ちん勤事

一 (19)上人御時御両親日事

一 (20)実如御時南殿持仏堂事

一 (21)念仏行道堂事

一 (22)教信閣事

一 (23)日没八時にある事

0930 (24)太夜早く八時にある事

一 (25)日中斎の前にある事

一 (26)報恩講に頭人の勤事

一 (27)同斎非時事

一 (28)同講中成敗の様讃嘆事

一 (29)勤私記事

一 (30)廿七日夜事

一 (31)近年講中の安心申様の事

一 (32)人々振舞上古にかはる事

一 (33)京にて人申沙汰する三ヶ条事

一 (34)おほかめ念仏と申事

一 (35)時の大鼓両所にありたる事

一 (36)番屋口々の僻書事

一 (37)寺内外へ御出の時精進の事

一 (38)御住持両親の御正忌の事

一 (39)蓮祐禅尼三年蓮悟を御感事

一 (40)経論正教よむ人なき事

一 (41)野村御坊にて御扶持事

一 (42)同御坊にて座敷以下事

一 (43)勤行斎に扇事

一 (44)太子講・念仏行道堂の事

一 (45)御堂衆仏法之儀可被語事

一 (46)人不審を御堂衆に可被晴との事

一 (47)御堂衆心持の事

一 (48)暁毎に物をめしかへらるゝ事

     以上 近注置条々

一 (49)長禄元存如上人御遷化事事

一 (50)霜月廿八日出魚物事

一 (51)私記あそばし御帰候事の事

一 (52)霜月私記間の讃事

一 (53)裳付衣衣紋の事

0931 (54)勤ふしはかせの事

一 (55)仏前道具得御意事 灯台以下

一 (56)報恩講一七日可申の事

一 (57)押板・打置をばをかれぬ事

一 (58)新坊にて初月勤行事

一 (59)知恩講・両師講式不被読事

一 (60)六時礼讃を申たる事

一 (61)法事讃被行たるの事

一 (62)勤布袈裟かへる事

一 (63)末々一家衆袴被著事

一 (64)内陣衆上洛之時御礼事

一 (65)上洛時御相伴供御事

(一 (66)若松・愚拙などは在京中)

一 (67)一家衆徳度時事 御礼事

一 (68)上人御寿像御礼事

一 (69)同前住新物めしたる時の事

一 (70)永正三年より当宗人具足かけ始事

一 (71)常楽寺先代 阿弥陀堂勤不被申事

一 (72)大坂一乱事 天正三以来儀
一   大坂坊住持堺坊争被申事 其外条々
一   蓮上人少の事をも御罰と被思食事

一 (73)大坂堺の事堅田坊実賢住持

一 (74)久宝寺坊同前に実順働事

一 (75)上人何事候あやまちを被思食事 此段別本にも注之

一 (76)勤念仏六返がへし事

一 (77)同四反返事

一 (78)時念仏事

一 (79)持仏堂何方にも可有之事

 

0932山科御坊事其時代事

 

(1)

一 抑山城国宇治郡山科郷野村里に文明九年より享禄四年まで、 わづかに五十五年のあひだ本願寺の御坊侍りき。 蓮如上人の御建立なり。 如何なれば早く浅薄の機縁かや、 今は草村となり候事、 歎入たる事にて候。 彼御坊のむかしの事豫知侍るべきまゝ、 あらあら注しみすべきよし所望のまゝ、 前後相違の事に侍れども、 はしばし書付みせまいらせ侍り、 以外の繁昌にて奇特に侍りつる。 併鷲峯・独園のたぐひとなりはて侍り、 白鷺池も芦原となれり、 諸鳥のすみかと成ぬれば、 限あるためししられけり。 此所は法敬坊とりたてられ侍りし所とかや。 兼て従善の法所と成べきと申されしも不思議の事に侍り。 やがて堺の坊に侍し座敷、 一先被取寄建られけると承侍る。 仮御坊たちて、 無程御影堂たちて、 又本堂とてなくては如何とて、 やがて阿弥陀堂も立ましましけり。 三間四面に、 四方に小縁、 東方の前には六尺の縁也。 向はさましやうじ、 しとみのごとくに常の諸堂のごとし。 左右の脇は唐さま、 これ又諸堂のごとし、 さまにほり物あり 名失念。 本尊木造 安阿作 如今。 左方太子絵像 讃如常 蓮如御筆・六高僧御影。 右法然聖人一村御影 讃如常 蓮如御筆。 両方共に三具足・灯台あり、 御命日ばかり灯明まいる。 御影堂上壇三間四面、 中は開山聖人。 左方前住蓮上人御影、 脇板に蓮祐禅尼 香炉計、 卓以下如↢当時↡。 右押板代々御影一幅 如信以下存如迄、 卓・三具足・灯台以下当時のごとし。 猶南の二間押板に、 中に无光泥字也、 蓮如御筆、 讃如常、 始一行蓮如御筆、 二行めよりも光教寺蓮誓にかゝせらる。 左右の脇には夢中善導・法然上人の御影、 此二福は上人持て参、 売申たる二福也。 善導は半身金色、 法然も光0933を放、 向給たる御影也。 此二尊の御前には何もをかれず、 中尊ばかり三具足をかるゝ也。 猶南に一間の押板には、 初は廬山慧遠禅師唐筆墨絵の像をかけられ、 前にはかふたてををかれ、 花を立られけり。 後には蓮如の御筆の不可思議光如来の名号をかけられ、 三具足を置かるゝ也。 これは実如の御時の事なり。

(2)

一 阿弥陀堂の勤行には、 一家衆いづれも次第に、 北には丹後 蓮応、 其下に慶聞坊つかるゝ也。 南方に御堂衆当番以下二、 三人著かれて、 調声人被著也。 毎朝御堂衆以下六人被著侍る、 次もなし、 脇の座もなし。 御影堂にて私記のある廿八日は、 日中に丹後・慶聞・御堂衆の著座如此也。 又廿二日・廿五日・廿七日の早引は実如上人御始候き。 御他行御所労等の御指合の時、 御堂衆被始と云事不承及候き。 一家衆ならでは無被始事とぞ、 皆々申され侍り、 一家衆の一老などの役とぞ承及侍し。

(3)

一 御影堂の勤行就御指合、 御堂衆被始候事も不承及候と、 宿老衆御物語候き。 光応寺蓮淳など常に被申き。

(4)

一 廿二日の早引を御影堂にて候つる事候つるは、 聖徳太子を代々の御影のわきに並て被懸申たる事候。 蓮如上人の御代より如此候つる歟との申事候。 代々の御影は只一幅也。 蓮如御往生の四、 五年後にあひ申候し時の事にて候。 其後何比にや阿弥陀堂にて早引はあり。

(5)

一 早引の後の短念仏は、 むかしは五十返也、 宿老衆物0934語候き。 近年は実如の御時より返に成候。 此近年は御堂衆少被申は如何候や。 此調声は、 御堂衆などは不被勤之由古は被定て、 御住持御指合之時は、 一家衆ならでは不被始のよし、 光応寺蓮淳等以下物語候き。 今は御堂衆被勤事、 如何之事候や。

(6)

一 宿老衆物語候つるは、 古は御本寺には正信偈ぜゞに御申候事、 年中に両度也。 正月朔日と七月十五日盆とにて候き。 常住の勤も当時のごとくにはなくて、 真にありし也。

(7)

一 勤のふしはかせ宮殿口能候由候き。 宿老衆物語には、 昔は六時礼讃在之、 色々の法事時々にあり。 念仏に和讃は近代の事、 蓮聖人の御若年の時まで種々の事あり。 法事讃は仏事には必々をこなはるゝ也。 蓮は廿五日には朝勤の上に知恩講、 廿七日には両師講私記、 毎月あそばし侍るを、 実如の御時より被略、 あそばし候はぬ事也。 願証寺 実恵 は此私記・伽陀も父蓮淳にならひ稽古せられける。 今はたれも左様事可稽古とも、 存念の人も候まじく候。 此両日の私記は、 蓮御影堂にてあそばしたる事も候、 其時はさはりにてあそばし候けると、 皆々聴聞の人かたり候。 それは御影をも御影堂にかけられての事にて候つると、 物語にて候き。

(8)

一 和讃を念仏にくはへ申事の次第は口伝あり、 九重にこれをさだむと也。 当時はやうやう品は三重ばかりにて候。 口伝等次第心得られ度事にて候。

(9)

一 本寺の御堂衆は六人、 むかしより侍しと也。 六人の供僧と申たるとて候。 此六人は妻子ももたれず、 精進にて魚物をも用られず侍りきと也。

0934(10)

一 開山聖人の御厨子の御戸は、 御本寺の御住持の役にてましましけりと承る。 中比綽如上人の御時までは、 下間丹後の同名一人御堂衆と成て、 鎰取とて御住持御指合の時は、 御戸ひらく人侍りきと也。 其仁も必精進にて、 妻子ももたれざりけりとぞ。

(11)

一 衣の色はうす墨にて、 可古かこの教信の意巧を本と御まなびにて候と也。 開山聖人の仰にて、 蓮如上人の御時、 実如上人の御時までも、 うす墨にて侍りし。 近代は末々の人までこくになり候。 蓮の御時、 をのをの一家衆は、 外人に出合時は可↠著とて、 黒衣を所持候し事也。 平生に黒衣を著て蓮の御前へ出候へば、 殊勝の御僧の御入候ぞと仰られ候て、 いやいや殊勝にもたふとくも候はず候、 只弥陀の本願南無阿弥陀仏こそたふとく候へと、 被仰たる事にて候。 当時はいづれもいづれも一色に黒衣也。 開山・蓮如上人の御心には難叶物にて候也。

(12)

一 毎朝御影堂の勤の後短念仏百返、 愚老若年の比中比までも実如上人の御時は、 長く御入候き。 当時事の外に短くなり行候。 これは代々の御影前への勤行也と承候、 百返よりは一返もあまらず、 実如は御沙汰候し。 又阿弥陀堂にて弥陀経の後の短念仏一返もあまり候へば、 実如上人は御数珠にて卓や板の上を御ならし候て、 早おさめよと被仰体候、 調声人を御とゞめ候し。 如何の子細候や。 数珠にて数とるに百八煩悩の心にて侍しや、 一返もあまるをば御とゞめ候しは如何。

0936(13)

一 御堂の勤の上に御法談候事、 実如の御時は、 近年実如常に仰には、 我は無弁にて物を云も人の耳にも入まじきとのみ仰侍し。 卑下の御心にても候や。 蓮上人は常々御法談候しと、 各被申候。 先太夜は夕の六時に候つる程に、 御法談候へば夜に入候。 御めい日の朝・太夜などに御物語候へば、 諸人催↢ ほし を↡、 御堂のうちはしばらく各立あがる人もなく候つると申され候き。 或時四日太夜に御法談候しが、 実如も御涙にむせび給ひ、 座を御立かねさせ給ひたる事候きと、 各御かたり候き。 朝勤の上などには細々御法談候し由、 みなみな物語候き。

(14)

一 愚老若年のおり法敬坊の讃嘆には、 御堂のうちは皆々感涙にむせび声をあげよろこばれ候。 慶聞坊 龍玄・法専坊 空善 の讃嘆にも、 御堂のうちしばらく動揺して涙をながされ候つるに、 当時は人の信なきゆへ候か、 かんぜられ候人の声もきこえず候。 又は讃嘆もむかしの人には大にちがひ候故歟と、 不審にて候。

(15)

一 開山聖人以来むかしより、 遠国より上洛の坊主達をば、 仏法を心にかけられ信のある人を座上にをかれ候と、 各御物語候し。 その支証には法敬坊にて候由候。 主の讃嘆に申され候て、 常々落涙候つるは、 法敬は蓮如上人の御下部にて、 北国御下向の時は御輿をかき申候身にて候が、 被↢召上↡、 御衣下され著し、 座上つかまつり候と、 讃嘆の度ごとに被申ても、 落涙候へば、 諸人も涙をながしたふとがれ候き。 総じて遠国の人程上にをかせらるゝ事と、 実如も御物語候き。

(16)

一 山科の御坊にては、 実如の御時は、 五日の朝と廿五日の朝とは御堂の朝勤の後、 やがて南殿御ていちんにて0937勤候。 一家衆・内陣衆ばかり、 御堂衆二人被参候。 廿五日は蓮如御影かゝり、 三具足・灯台をかるゝ。 念仏正信偈、 讃三首、 回向は 「世尊我一心」 にて候。 やがて御立候。 三月廿五日には御影の脇に蓮如六歳の時の御寿像かゝり、 三月には太夜・日中同前に御沙汰候き。

(17)

一 毎月五日の朝勤も、 同御堂過て則御出。 同ちんに无光の泥がきの名号かゝる。 勤は早正信偈常のにて、 讃三首、 常の回向也。 一家衆・御堂衆同前也。 十二月五日にはあ太夜・日中御入候き。 花足はなし。 三月も同。 毎月も正忌も同。 さはりの時もあり、 りんの時もあり。 和讃の本はいつもをかせられず、 空にて御申候つる事にて候。

(18)

一 前住蓮如の周忌・第三年・七年等は、 御仏事一七日、 近代も同前、 三年まで御入候間、 南殿ちんにて太夜・日中を一家衆、 老衆より若輩まで悉かはりて調声あり、 日中は初・中・後日に実如御出あり。 正信偈は常の也。 然ば実如御往生の時又如此。 実如上人は南殿持仏堂新しく立候て侍し間、 木仏本尊に御厨子ありて、 南脇押板あり、 実如御影、 後には又如祐御影 武者小路殿 かゝりける也。 前には円如の御影也。 前住証如の御時事也。 一七日の勤行、 実如上人の御時のごとく也。

(19)

一 実如上人の御時毎月南殿朝勤事、 前住蓮如の御時の例とぞ、 各御物語候き。 其は十八日と廿八日に侍しと0938也。 廿八日は開山聖人の御儀歟と、 各申あひて候へば、 御母儀の御明日の事にて侍と也。 されば六月十八日と十二月廿八日とには、 太夜・日中侍しとぞ、 各御物語候し也。

(20)

一 永正十三年四月に、 南殿の庭の中に持仏堂立。 屋はこけらぶき、 木像本尊のわきに押板、一方蓮如上人御影、一方には蓮祐禅尼の御影也。 三具足をかるゝ、 灯台等有之。

(21)

一 蓮如上人御存命の時、 実如へ対して常々御物語ありし事あり。 いづくにぞ念仏堂をたてゝ、 念仏を行道をりて申さんと思也と、 常々被仰しと也。 然処に此持仏堂・行道堂歟とぞ、 をのをの申あへりき。 さもなくて五日廿五日はつねのつとめ侍りし也。

(22)

一 大坂の御坊には、 蓮如上人の御時より奥に持仏堂あり。 四間次二間也、 なんど二間也。 向に教信閣と額をうたるゝ、 蓮御筆也。 本尊以下ちいさく御用意ありて、 種々の道具皆あり。 経論正教三十帖ばかり、 各ちいさくて、 箱に書付らるゝ、 御筆也。 若年の者共の稽古の勤すべきよし被仰置とて、 折々に勤申侍りける。 加様に山科殿・大坂殿には持仏堂御入候間、 末寺末寺にも其心得にて候つる。 此比大坂殿には持仏堂御入なく候間、 持仏堂といふ事はなき事かと、 申人も候。

(23)

一 日没は善導和尚六時の一なれば、 日の晩してあるが時にあたり候間、 蓮如上人御時七時打て候き。 実如御時も永正十年の比までは七打侍りし。 普請などさせられ候に、 をそく候へばさしあひ候とて、 八打てさせ、 大坂にも其後程へて八打て候し。 山科殿に八打此比候と0939てせられ侍し事、 近事候。 末寺末寺にも近代八時に仕候。 念仏になりて上られ候事もむかしは無之候。 総て短念仏はあげぬ事とて、 経の後の短念仏もあげず候。

(24)

一 太夜も昔は十七日廿七日のも夕の六時にあり。 実如の御時より、 永正はじめつかたより、 普請に付て早くさせられ候へば、 人夫も早く帰らぬ様候とて、 太夜を早くさせられけるとかや。 さる程に暮てある時も侍り。 さのみ執せられぬ時は、 六時に御入候。 但夏は蚊の時分は、 ちと早くある事にて候。 何に実如の御時より早く太夜ある事は出来候。 昔は夕の六時にあり。

(25)

一 日中を炎天の比は斎まへにさせられ候事は、 昔はなき事にて候が、 前住御時よりの事にて候。 これは一段諸人のよろこび、 遠路より参詣候衆は、 斎過て日中にあひ奉らんもならず候とて、 下向仕候へば、 日中にあひ申さず候つるに、 難有之由候。 斎の後はねぶりもすゝみ候に、 一段諸人の悦にて候。 下根の衆生ため、 かたがたありがたき由申候。

(26)

一 先年山科の御坊にて両三度報恩講にあひまいらせ候。 此比は事外に相違之事共候。 山科殿にても初比と後のたび共相違事候。 初のは、 斎の頭人のつとめは太夜より前に非時過て候。 頭人の勤果候へば、 やがて太夜の鐘なり候。 非時の頭人のつとめは、 太夜過て讃嘆の前にあり、 讃嘆は五時まであり。 近年は宵の談合の前後に斎非時の頭人の勤あり。 古はよく御入候つる事に候。

0940(27)

一 斎は初・中・後日ばかり結構に御入候。 其間は斎は汁二、 菜五、 六。 菓子も斎は五、 非時は三。 非時は汁二、 菜は三にて候き。 人の煩なることは麁相にさせられ、 仏法談合は不断に何事もひまなき様に、 仏法までにて御入候つる間、 まいり候てもたふとく候。 当時は各別候。

(28)

一 太夜過ては、 坊主衆・御堂衆、 はかまばかりにて手に蝋燭をともし侍て、 御堂衆同前に、 人をことごとくえらび出され、 御堂に庭にも人一人もなく、 御門を打て閑に候つる。 さて聴聞に望なる人は縁々に五人三人、 後に仏前に被出候間、 人多みえ候時も百人とも候はず候、 五六十、 七八十人が多勢の分にて候間、 坊主衆計一人づゝ改悔せられ、 一心のとおり心しづかに被申、 惣の衆五人か十人か後、 終に被申間、 殊勝なる改悔にてたふとく候つる。 聴聞の衆も耳によく入候き。 談合は五時まで、 果候て日没はあり。 七日の間かくのごとし。 廿八日には如常日没あり。

(29)

一 勤は当時も大略おなじ。 昔ほどながくありし。 次第にふしはかせは、 おとろへかはる事也。 廿八日の日中の私記は一段ながし。 昔は朝にも私記あそばし候、 近代も其分にて候歟。

(30)

一 廿七日の夜は、 蓮如の御時より、 竹一撿挍平家を琵琶を引、 二、 三句かたり候と也、 開山の御前にて也、 法楽の体也。 御坊中町まで用心の事かたく被申付也。 実如の御時中比まで如此也。 近年福一撿挍かたりたると申。 近代は実如御時にも被略、 七日の間のごとく讃嘆ありき。

0941(31)

一 此比年天文以来まいり候て、 報恩講にあひたてまつり難有候。 聴聞申候に、 讃嘆はじまり、 改悔五人三人被申歟とおもへば、 かくして一度に五十人百人大声をあげてよばゝりあげて被申時は、 興ざめてきもゝつぶれ、 たふとげもなく候。 喧嘩なども出来候歟ときゝなし候事、 古へなき事にて候。 古は縁のはし庭より一心の改悔を申候は、 曲言とて申させられず、 後生の一大事の申事など、 縁からや庭からや垣ごし物ごしに申事、 成敗候き。 今は庭の聴衆千万人ならべ申させられ候事、 無勿体事にて候。 異見など申身ならば、 昔の事をも申入度事にて候へ共、 不肖の身としては不申候。 これは被↠改たき事にて候。 各の信もなくて、 聴聞に望のなきゆへにて候。 さ候程に、 京にて人のきゝて語候は、 大坂にて安心を申すとて、 大声をあげてわめきいふとても、 これにて仏に成と、 本願寺にはいひひろめられ候か、 おかしき事を沙汰候と、 わらひ申候事とて候、 勝事と存候事にて候。 きかれ候人は申上られ候べき事にて候へども、 前に申候やうに、 仏とも法共のぞみはなし、 きゝのあしき事をも申入て、 一宗のきこえのよきやうにと、 存候人なきによりたる体たらくにて候。

(32)

一 蓮上人の御時には、 平生も申に及ばず、 まして報恩講などには、 いかなるへやへやわきわきの人の集居られたる所にても、 仏法の事ならではかりにもいはじ、 物語もせじとせられたるとて候。 人々口々にも法儀の方の事ならでは申されずと、 各ものがたり候しに、 近年は0942御堂にて仏像・絵像の御前に御かほをまぼりゐて、 仏とも法とも申出されず候事、 上古には大にかはりたるあさましき事にて候。

(33)

一 京都にて人のかたりたるとて、 人の申候は、 三ヶ条申されしとなり。 一には大声をあげて、 安心とて大勢何やらん、 法事の時はわめき候と申。 一には本願寺には門跡になられたるとて、 袈裟をかけて一家衆魚をくはれ候事。 一にはいかなる大罪のものも本願寺の坊主のゆるさるれば仏に成とて、 侘ごとを申にこれを後生の御免許と申て、 後生をゆるさるれば、 仏になるとの事とて候。 おもしろき事を沙汰せられ候と申候由候。 此三ヶ条申出すほどの人は分別ありて申也、これを申出しわらひ事に申候とて候。 まことに実如の御代にいたるまでは、 後生の御免と申事は承もをよばず、 近代たれ人の申出され候わざにや。 抑後生の御免と候て、 後生をたすかるべきやうに申上られ候事、 何の経論にある事候や、 祖師の御ことばにも拝見申さず候、 御意趣にも相違候べく候歟、 不審の事にて候。 愚老ごときのものは分別なき事に候。 たれにも尋申度候。 秘事方にはか様に申げに候、 如何。

(34)

一 京にて人の申候を聞候しは、 本願寺のおほかめ念仏といふこと申候し。 念仏の申やうをわらひて申事ときこえ候。 永正年中の事にて候と申候。

(35)

一 山科にては両所に時の大うたせられ候し。 ことに暁の七時とひるの八時をばつよく打べしと定られ、 町々によくきこえ申候てよく候き。

(36)

一 番屋に僻書候き、 様々可然事にて候き。 今ももちたる人候べく候歟、 これも誰ぞ御申候て、 再興あり度事0943に候。 其中にも一七日御仏事ある時、 御門内へ魚不入候。 人の音信の物にても候へ、 昼は家の内へ入て夜かへし度候と承候。 廿八日廿五日、 春秋彼岸七日の間、 盆三ヶ日、 同前也。 当時ならば十三日同前たるべし。 此日共には一切鳴物・吹物・乱舞の具ならさず、 うたい等停止せられける。 他宗の人聞も可然候き。

(37)

一 昔は余所へ御遊山など御出の時は、 魚物なく精進にて候。 山科より大坂殿へ実如上人御下の時、 船中へ七ヶ所より御子供御をまいされ候きにも、 皆精進にて候。 愚老若年の時富田へまかる時、 御坊より船中へ昼休とてもたせられ被下候つるも精進にて候き。 いづかたへにても御遊山などの時は、 精進にて候。 いまも覚たる人候べく候。

(38)

一 三月廿四日の太夜以後は、 実如の御時は精進にて候き。 おなじく十二月四日晩も同事候。 蓮祐の正忌 実如の御母儀 両親御正忌なるによりたる事候。 これは蓮御代には、 六月十七日晩、 十二月廿七日晩には精進御沙汰候つるとて候。 其例と承候。

(39)

一 蓮祐禅尼 実如の御母儀 本泉寺蓮悟同母 若松本泉寺蓮悟母 蓮祐禅尼 一年に三年を取こし、 一七日仏事つかまつり候しを、 実如上人きこしめし、 尤ありがたき殊勝の所存にて候と御感候て、 我々に仰事候し、 慥覚申候。 又三年にあたりて、 又仏事一七日勤候事をも、 一段と御感候て、 若松所存うら山しく候と被仰候し、 対愚身仰事にて候き。

0944(40)

一 此比は昔にかはり候は、 御堂茶所にて朝とくは、 おさなき人々、 若き坊主達、 数十人ならび居られ、 経論聖教をよむ人おほき聞候つる。 此比は一人もなく候。 俗人も坊主達も物をよまれ候はず候とみえ候、 無勿体事候。 学文候はでは、 坊主の子供はいかゞ何になられ候べきや。 蓮上人の御時は、 かたく物よむべき旨被仰付、 昼夜物をよみ、 仏法の讃嘆より外は人々不被申候様に候し。 或時四、 五人物をよみさして侍しへやの前を、 蓮如上人御とおりありしかば、 人の前の物の本を其まゝ我前へ引よせたりしかば、 我前にはさかさまに侍しを蓮上人御覧じて、 兎角仰もなくて御通ありしかば、 彼主一段迷惑してぞ侍りける。 加様に其比は物よむとみせまいらせんとせし也。 当時は名聞にも志のかたはなし。

(41)

一 野村の御坊にては、 一家衆のあり所数ヶ所させられて、 すゑ中居のやうなる所まであり、 めしつかひ候ものゝあり所も候て、 在寺中過分に候。 行水の薪、 茶湯の下の炭などもたくさんに候て、 心安く聴聞の儀さへ候に、 ありがたくて候。 五人十人めしつかひ候者も候へかし、 御だいはを給り候て、 心安候つるに、 山田光教寺 蓮誓 在京の時、 教行寺 蓮芸 と愚老申出す事候て、 余に大勢御だいはを給り候事無冥伽由申候て、 召仕候者五人づゝ御扶持をうくべきよし、 我等申出候て、 三人として申入たる事にて候、 定知たる人も候べく候歟。 今は不入事にて候へ共、 事の次にしるし申候。 当時は拙者ごときの御用にも不立ものは、 御扶助をうくべき事にあらず候、 為冥加候間、 今は自堪忍もありがたく候。

0945(42)

一 野村殿にては、 座敷ごとに申に不及、 西浄・小便所・手水桶等、 手のごひ・足のごひまで被仰付候間、 暫時まいり候日共よく候事に候つる。 一家衆の座敷おほく候入候つる間、 斎勤行の前に祗候申候てもよく候。 今は少之間もまいり候も、 有べき所なくて勝事にて候。

(43)

一 阿弥陀堂・御影堂にての勤行の間には、 近年は炎天にも扇つかはせられず候、 敬の心にて候げに候。 実如の御時、 光応寺へ仰られ事候き。 敬の心に扇をのをのつかはず候、 尤候、 但雖然あまり炎気の比はつかひてよかるべき由被仰候て、 各つかひ候つる、 永正の比にて候き。 其後又御つかひ候人もなく、 今はいよいよ扇御つかひなき事のやうに候。 斎にはをのをの御つかひ候つるが、 これも近年は一向をのをの御つかひなく候。 蓮上人の御時は、 其沙汰もなき事とて候。

(44)

一 上人の御時、 実如上人へ常に御物語候とて、 実如上人常に御物語を度々承候つるは、 太子の御命日に太子講私記あそばされ度候由、 御物語候つると被仰由御物語候き。 又念仏堂をたてゝ、 念仏にて行道をおり申たきと被仰つると、 これも同前に御物語候き。 然ば南殿の庭中に持仏堂永正十三年に立候時は、 これを念仏行道堂にてぞ侍らんと、 をのをの申合侍りき。 さもなくて毎月五日廿五日勤ばかり候つる事候。

(45)

一 御堂衆の内儀、 法儀になられぬは不可然と、 蓮上人仰の事に承及候しに、 仰之旨各御物語候つるは、 理0946は分別候へ共、 仏法をかたるに信がなければ、 弥陀の大悲をつたふる心なきが故に、 かたる仏法を聴ものが悦ぬ事にて候と被仰けるとぞ。

(46)

一 或人安心のかたに付て不審なる旨を申入たりしかば、 蓮上人仰云、 堂のものにとへと被仰ける間、 御堂衆にたづね申候へと被仰旨申候しかば、 何共無分別之由被申の間、 其旨申入たりしかば、 召て直に被仰聞、 不審をもはらさせられけり。 か様に被仰出は、 人の不審なる事あらば、 御堂衆に分別しはらさせらるべきためと聞え申たり。

(47)

一 野村殿にて御堂衆に被仰し事とて、 宿老衆に御物語候しは、 蓮上人仰には、 おなじ奉公する身なれど、 御堂にあるものは難有事とおもふべし、 たゞちに弥陀如来・開山へみやづかへ申身也。 内外共後生はほとけに成べき御はからひの身なり、 ありがたき事と思ひて、 冥加をよくおもひて、 取をく物の手にとるも足の下にふむ物も仏物・法物なり、 御用により今生よりたすけられまいらする身也、 ありがたく思べしと、 毎朝毎夕仰事ありしとなり。 げにありがたき仰共毎日被蒙けると也。

(48)

一 蓮如上人はいかなる極寒にも、 よるめしたる物はきたなきとてめしすてられ、 つめたき御こそでをめして、 暁の御堂へ御出仕には御出候しとあり、 尤の御事なり。 冥加をおぼしめされしことはり、 ありがたき事。 但此比の下根のわれらはならず候也。 あさましあさまし。

右此条々は、 御所望により思出るにしたがひて注進する也。 一句一言も虚言は有べからず候。 但外見は大にはゞかりなり、 努々他見あるべからず。 炎0947天の術なくねぶりの間、 すぢなき事しるし進候、 やがて可被入火者也。
天正参年 乙亥 林鐘上旬 日 苾蒭兼俊 八十四歳

(花押) 書之

   願入寺まいる

(49)

一 それ*長禄元年に存如上人御往生ありし時、 以外に各騒動の事ありし事あり。 蓮如上人は御譲状ありて、 御嫡子と云、 別儀あるべからざる事にて侍しを、 御継母 法名如蓮 の御わざなれば、 青蓮院にましましける円光院応玄をおどし申され、 嫡々の儀と申成れ、 御議旨なりとて、 既に御葬送の時も御住持分たりき。 然ば一家衆も坊主衆も御内衆も、 各同心に以連署一味に御家督の分にてぞ侍りき。 御流の人誰か兎角申べき人なし。 御継母御とり持なれば、 たれにても如何の儀とも申人なくてぞ侍けると也。 然ば存如上人御舎弟如乗一人、 是不可然、 さりとて御譲状と申、 嫡子の儀といひ、 応玄の儀心得がたしとぞの給ひける。 雖然御継母御とり持なれば無是非事と、 申出すべき様もなき所に、 是非共不謂旨、 達て如乗一人の仰事ありけるに、 常楽台光崇も一向疎略の体也。 然ば其外は皆々口侍りしに、 大に不可然の旨、 青光院宣祐 如乗也 一人各へ被申出、 か様には不可有事之由、 一人はりて有馳走て、 兼寿法印家督の儀は被申沙汰たる事也。 仍爰に不思議共出来し、 開山聖人御道具等、 先三種共、 蓮如上人へ参事ありき。 是不思議の子細共也。 開山御袈裟・御助老・御珠数等参也。 然ば此儀各同心の由候聞候て、 土蔵等に有ける物、 経論正教迄、 悉御継母の御方へ夜中に取かく0948されて、 倉にはたゞ一尺ばかりの味噌桶一と代物百疋、 蔵には残され置れけれ共、 其比未御方と申ける蓮上人の御方には、 いさゝかも兎角の違乱不可申之由被仰定、 御住持職のわたり申一儀計を肝要と被思食たる事也。 此儀たゞ青光院一人の被申定たる事也。 堅申定られ、 一人の依馳走たる事にて、 一門の衆も坊主衆も惣の御門徒中も、 各尤と同心により、 御内のかたがたの事も無別儀、 御住持にならせ給ひたる事也。 依之青光院を別而御執事の儀也。 仍二俣の坊に青光院居住の間、 細々吉崎の御坊に御座の時も、 二俣の坊へ御出ありし事也。 依之如乗の跡にも蓮乗、 又蓮乗跡にも蓮悟又実悟、 兄弟三人を被仰付事にて侍り。 然ば又徳度の時は、 自余にかはりて、 代々実悟まで御太刀拝領せしむる事也。 其外本泉寺は自余末寺にかはるべき旨、 被仰出たる事共有之 云云。 自余之儀略之。

(50)

一 野村殿の報恩講にあひたてまつり侍しに、 身及ざる事の、 大坂の御坊にて見侍るに、 みぐるしく侍る事あり。 霜月廿八日に、 はや結願の日中の比、 無事に目出度など少々申に、 日中の前後より魚を板にすへて、 縁廊加のはしばしにならべをく。 これはいかなる事ぞととへば、 明日の精進ほどきに早速進上の物といへり。 然ば明日こそ出べきに、 今日出候事は聞も及ばず見をよばず、 あまりにあまりにみぐるしく、 これは今日にきこしめし候歟とみえ侍り。 総じて山科などにては見及ざりけるしたて、 明日こそ可被進事にて候へ。 さてさて今日はいかゞと申事にて候。 これはたれもたれも御申候はぬ歟と存候事候。 可有停止事候。 又人の申候は、 廿八日の日中すぐれば、 上々には魚をきこしめし候と申人候之由、 人の申候。 尤さ候べきと申事にて候。

0949(51)

一 野村殿にて実如上人は、 私記あそばし候時は、 四十四、 五の御年までは、 あそばしはてゝは南へ左へ御かへり候、 五十ちかく御也候ては、 跡へ北へ御かへり候つると覚え候。 定御年寄ては直に御帰候事候哉。 蓮上人か様に御入候事ぞと御帰候。

(52)

一 円如は私記のあひの讃の念仏三度出させ給ひ候し由御物がたり候。 其外はみな顕証寺蓮淳の役、 宿老役に毎年出され候由御物がたり候し。 これは蓮淳勢州へ下向候て、 無上洛事の事にて候つると御物語也。

(53)

一 裳付衣のそで口のゑもんは、 昔はすわうなどのごとく取たる也。 蓮御七年の御仏事より、 上人御衣のゑ紋さなきとて、 当時のごとくすぐに一おりに各とり候ける事也。

(54)

一 実如上人へ愚老御意を得候つる条々、 先勤のふし本末のかはり大にかはるべき様に、 各申候人候つる間、 いかゞと我等は可申候哉と尋申候。 野村殿にて只これに御申候様に可申也と、 仰ありたるによりて、 聊ふしはかせを替て申候をも、 御申候ごとくに申たる事也。 則本泉寺の蓮悟と同前、 加談合令申侍る也。

(55)

一 同仏前の道具等の事も尋申候へば、 灯台等の成以下これのごとくすべし、 但足のひだなど数を一も二もすくなくすべしとの仰なり。 仍聊かずをすくなく、 かなごも三所のを二所したりなどすべしと仰の間、 さやう0950に申付させ侍り。

(56)

一 報恩講は松岡寺・光教寺・本泉寺などと同前に、 一七日中、 初・中・後に私記よむべしと。 これは下間上野介 源四郎賴慶 といへる時に、 以此人伺申たる事候。

(57)

一 御堂の卓、 野村殿にては、 打置をば押板の上にはをかぬ物と申候と相阿弥申入たるに 能阿が孫芸阿が子真相と号す よりて、 御堂にをかれたる打置をば、 悉とらせられ、 卓にさゝせられたる事候。 豫在寺の間の事にて候き。 当時大坂殿に押板に打置をかせられ候段、 如何の事に候。

(58)

一 昔は賀州三ヶ寺にも廿二日、 廿五日、 廿七日三ヶ度、 朝勤の上に早引被申たる事に候由候、 各御物語候き。 雖然大坂殿へ蓮上人御隠居ありてより、 三ヶ度早引、 大坂殿にて御申なく候間、 賀州の三ヶ寺も不申候と三ヶ所共御物語候。 雖然蓮不可申とは不被仰候しかども、 但私に略したると御物語候き。 然御堂新く立られたる時、 いづれの月にても候へかし、 一月は三ヶ度早引申たると御物語。 同其御堂新敷立られたる月の廿八日には、 開山聖人私記をも御よみ候由候し。 愚老は清沢の坊新敷立て、 初の一月には連語二十八日私記御よみ候、 早引もありたる事候。 是拙者未住時の事也。

(59)

一 左候間、 知恩講・両師講式も昔は三ヶ寺に読たると、 蓮綱・蓮誓・連語御物語候き。 これも野村殿にて実如上人あそばし候はぬ間、 略したるとの御物語候き。

(60)

一 昔は六時礼讃を朝暮の勤行也、 讃・念仏は近年の事也。 讃・念仏、 蓮上人ばかりの御歳よりと聞え申候。 越中瑞泉寺は住持なくて留守衆・堂衆計候の間、 文明の始比までは、 朝暮の行事に六時礼讃申たるとて候0951。 各覚て語候。

(61)

一 巧如上人廿五年忌御仏事には、 蓮如上人 五十歳 寛正五年成けるにも、 法事讃を結願日御行ありしと也。 ちか比までも加様に法事は有けると也 後花園院御代也

(62)

一 一家衆は、 いづれおいづれもかはりめなく、 昔は勤にはみなみな絹袈裟なりけるを、 蓮上人の仰に、 迷惑人などは絹袈裟大儀たるべき間、 御一人惣の代官に御かけ有べし、 然ば布袈裟にて朝暮の行事すべしと也。 人々当忌日は絹袈裟かくべき也と被仰候て、 明応二、 三年の比より朝暮は布袈裟也。

(63)

一 末々一家衆袴を被著事も仰にてはなし。 吉崎の御坊にて年始に岡崎の証拠寺参上の時、 被著候て其まゝぬがれず著して、 如此仰にてもなき事也。 然間永正十の比、 報恩講一七日の間、 実如上人の仰にてぬがれ候つる。 其後又前に被著事にて候間、 被著もよしと仰にて被著候き。 其時末寺にて、 賀州三ヶ寺などにては如何有べきぞと、 御意をえられ候へば、 それは御思案ありて可被仰とて、 兎角の仰もなし。 然ば末寺にては不可被著事にて候。

(64)

一 野村殿へ北国・遠国の一家衆上洛の時、 内陣衆は御上 北殿 にて御参候、 こなたは袴を著し扇持て参、 何にても一献にて御見参。 昔は未定候て御礼も過分に候つる。 実如上人の御時、 さ様の事も少事に御定候き。 円如の御筆にてあそばし被出候つる事候。 御住持 百疋、 武0952者少路殿 疋、 大納言殿 廿疋、 北向、 丹後 廿疋、 左衛門太夫 廿疋、 中 あぐりと云 奏者廿疋、 奥 御ちの人北向 御方奏者同、 南殿 蓮能御入候時は疋、 同奏者 廿疋。 南殿分は円如の御意見の外也。

(65)

一 上洛の明日北殿御上にて供御相伴。 北隣波佐谷 坊・山田闡坊両所、 何時も女中方にての御相伴の時は、 三方にてまいらせらる。 其後近年大津証寺 蓮淳泉寺 蓮悟 両所は、 御相伴の女中方にては三方也。 円如御往生の後時分也。 必上洛の三ヶ日めには、 於御亭御相伴供御あり。 其時は各同折敷也、 御住持は足付折敷也。 又内陣外につかれ候一家衆上洛し、 北殿 武者少路殿へ 御礼被申候程の人をば、 上洛一両日の間、 北殿上にて供御御相伴にて給られ侍し也。 山科殿にて儀如此候也。 末々一家衆上洛の一両日中に御ていにて、 御相伴に供御にめし候つる事にて候。 人により細々めし候人も候。

(66)

一 若松・愚拙などは、 在京中二日三日あひ候て、 御相伴にて御亭にて再々被下候。 北隣坊・光闡坊の事は申に及ばぬ事候。 末々一家衆も宿老はしげくめし候つる事候。

(67)

一 一家衆子皆々ちごにて上洛し徳度候時は、 児の時は申に及ばず、 出家し御堂にて勤にも、 祝の御盃被下候時も、 其日一日は父の上に座に付候て侍し。 これは昔よりの事候、 今もか様に御入候歟。 内陣の外衆子の徳度にも、 其日の御堂にての御勤には内陣に付られ侍し、 今もか様に御入候や。 徳度御礼も昔は分限まかせに過分に申され候つる。 これも実如上人御時、 円如など御申の事にて、 略せられ少分に成候つる。 近年はか様事も破てかはり候。

徳度の時の御礼、 御住持 百疋、 大納言殿 疋、 武者少路0953殿 疋、 御堂衆 十疋 宛、 其内剃首人 廿疋、 必児出立の小袖一歟。 又水干一具分つかはし候つる也、 丹後 廿疋、 同舎弟左衛門太夫へ 廿疋、 遣度のよし色々申入候へ共、 中々有間敷事とてさせられず候。 これも円如御筆にて日記で候て、 いまに所持候方もありげに候。

(68)

一 蓮上人の御時御寿像は、 蓮三の御時始寿像を書事とて、 狩野に被書侍し。 それ願成就院殿御申也。 狩野には千疋被下侍しと也。 順如は、 これも千疋始なれば被参候しを、 不被納侍しと也。 同年本泉寺蓮乗も御申候し、 近比まで若松に候しが、 不似申の由、 各仰候し。 これも御礼は一向御収なく候。 色々御申候つれ共、 銭を入べき事いはれなしと被仰たると、 各御物語候し。 又其後、 蓮上人六十歳計の御時、 あまた人々被申候間、 あまたかゝせらる中に、 よく相似たるが候つるを、 御主もこれは似たるぞと仰らるゝが一幅候つるを、 蓮悟に、 これはとりて可下、 似たる程にと仰候て、 表ほいまでさせられ、 兵衛督 蓮悟 に持て可下と被仰下候つる。 御礼貳百疋申上入られ候へば、 何事にぜにを入るぞときつく被仰、 せめて表襃背ほいの代成共可遣と被申入ば、 表襃の代はこなたよりやりたるぞ、 たゞ取て下れよ、 物は不可入候と被仰、 一銭も不被納候て御下候て、 裏書則あそばされ、 蓮悟へ被下候つる事候。 以上若松本泉寺に、 蓮上人御寿像五幅まで候つる。 二幅は人申入候つる人の跡もなく、 ある人被上候間、 野村殿へ上可申と申候へば、 先其方に置べき由を被仰候つると承り候き。 以上五幅候き。

0954(69)

一 上人は、 あたら敷めし物、 小袖などをめしては、 聖人の御前へ御まいりありて、 御おがみざまに小袖などを引出して、 御用により暮し候と御申ありて、 御おがみ候つる事にて候。 か様にあるべき事にて候。 如此御沙汰の事、 蓮悟被仰候つると物語候き。

(70)

一 蓮上人御七年は、 隣国も閑にて各上洛申、 ありがたく候き。 八年に成候明の年は錯乱出来候、 それは永正三年也、 越後国一揆おこり候。 河内国錯乱いでき、 それに大坂には、 兄にて候宰相実賢住持にて候つるが、 不慮の申事出来、 大坂五人坊主以下牢人の事に候つる。 其砌以来、 当宗御門弟の坊主衆以下具足かけ始たる事にて候。

(71)

一 常楽寺は、 蓮覚・如覚・実乗迄三代は、 総て阿弥陀堂勤行あはれず候き。 空覚の時は不知事也。 子細をばしらず、 如此侍りし事也。 今の証賢は勤行にあひ被申事也。

(72)

一 永正三年に細河右京大夫政元と畠山上総守--と中わろく成て、 河内国誉田の城を政元せめられけるに、 いかにも城よくて不成けり。 程ふるまゝに何者のいひける事や覧、 河内津の国の本願寺門徒を陣立させて此城を責ば、 たちまち可被得勝利と、 政元にいひける程に、 政元同心あり。 山科殿へ政元まいり給ひ、 門徒の坊主達惣門徒に出陣させて給り候へと申させ給ふ。 其時は実如上人の御返事には、 中々作用の事仕付ぬ身と申、 門徒ものに左様の事は申付たる事もなし。 長袖の身と申、 中々申付候共、 不可承引事にて候と、 色々御返事候へ共、 年来無等閑申承間の事にて候へば、 此時御合力可為満足と、 種々様々の事にて侍しに、 中0955々此儀に限て、 一向長袖の身にてさ様の事難申付由、 再三仰候へ共、 前住蓮御時より甚深に申談事にて候へば、 加様の折節にてこそ候へ、 被仰付候て給候へと、 かさねがさね数日申させ給侍しかども、 堅而退御申候へ共かなはず。 或時は右京兆山科へ来臨の間、 大津へ実如御逃候つる時も侍し。 又大津へ追かけて参らせ給ひ候し程の体にて候間、 御料簡なくて、 摂津・河内両国の坊主衆・御門徒衆へ、 此事、 京兆半将軍の様に今は威勢かぎりなき人にて、 然も御本寺之事を無御等閑馳走人にて候へば、 再三如此御斟酌候へ共、 如此仰候間、 各出陣候へかしと被仰出候へ共、 両国衆いまだ左様の事は不仕付候へば、 兵具もなし、 如何して俄に可仕候哉。 元より開山上人以来、 左様事当宗になき御事候。 いかに右京兆御申候共、 不可有御承引事候由被申候。 数度以折紙状等、 丹後・同弟四郎被申遣候へ共、 両国衆いかにとて如此の事可仕候哉、 正に開山以来なき御事を可仕候哉、 又於御進退も無勿体候由、 度々被申上。 野村殿よりは、 京兆の催促御申候儀被仰付候へ共、 さりとては開山以来御座なき事を可仕候哉とて、 終領納不被申候。 政元よりは切々被申候間、 不被及御料簡候て、 加賀国四郎より、 千人歟と覚候被召上、 誉田城へ被立候き。 其後此儀被申結候て、 宰相殿御事は蓮様御愛子之御事候へば、 御本寺様に用可申候。 実如様御事不謂、 開山上人以来無御座事を被仰付候とて、 不可用候と申、 御内仁・隣国坊主衆等、 以連署被申定、 如此ありたる事候。 然共宰相殿更無其覚悟事候、 取持被申坊主等の曲言になりて、 五、 六人いまに門徒も被召放、 無子孫やうに候。 則大坂殿へは源四郎0956美濃法橋二百余人召具し下向の間、 宰相殿、 同大方殿、 同御料人 いちやいちや、 左衛門督 未児之時、 大坂殿をば御退候。 又畠山尾張守大方殿さあるべき事にあらずとて、 又大坂殿へすゑ被申候き。 雖然か様の強義有べからずとて、 又大方殿も宰相殿も京都進退の事にて、 三ヶ年牢々分にて候つるを、 御比丘尼御所曼化院御扱候て、 山科へ御和与候て、 宰相殿は少後に御なをり候事にて候。 其時の河内・摂州衆書状、 丹州源四郎方状の案等大坂殿より下申候間、 所持候事候き。

(73)

一 大坂の御坊と堺の御坊とは、 宰相殿 実賢 へ御相続坊にて候を、 堺の御坊をば、 両所まではとて、 大方殿 蓮能 上御申候。 大坂の坊ばかりは実賢は住持の分にて、 蓮上人御往生以後数年候しを、 申事によりて被明候て、 其後はやうやう山科の御坊の傍に南殿と申は、 大方殿、 宰相殿御入候つる。 大方殿永正十五年に御往生候てより、 同十六年に江州堅田の坊へ実賢をば被仰付住候。 色々道具以下まで実より被仰付給候て住持候事候。 其後三ヶ年過候てより、 大坂殿をば教恩院と名づけられ、 実如の御隠居の所と被定侍し。 其比より円如は、 本願寺殿御住持分に世上の儀は候つる。 内儀は実如御住持分にて候。 堺の坊は蓮上人の御坊にて、 信証院と号せられ侍し。 其後中比、 堺坊には左衛門督 実従 を可被仰付と、 内々有増候しかども、 何と哉覧申事候て、 実如御往生砌は、 山城三栖坊を被仰付候しかども、 終不住候。 証如の御時、 牧方の坊を仰付られ住し侍る事也。 子孫いまにこれにあり。

(74)

一 大坂一乱の砌は、 芳野飯貝の坊には、 弟にて候侍従実本善寺 住持候しかども、 無別儀候き。 久宝西証寺 寺の坊は大坂ちかく候へば、 諸事一同に候し間、 宰相殿牢々の砌も、 同前に牢篭し京都に候し。 其後各候てより、 如前に0957住房の事にて候き。

(75)

一 上人は不断何事にても候へ、 御あやまちあり物に御あたりなど御沙汰候事候へば、 上人の御とがめ候也、 御罰候也と、 少の事をも思食たる事とて、 各にも被仰出されたるとて候。 末学の者は猶以可存事候。

(76)

一 毎朝の勤行の念仏は六反がへしと云物也、 一段念仏六反づゝ也、 讃の間は二段づゝ十二反也。

(77)

一 実如上人の御時、 慶聞坊に被仰候、 四反がへしの節覚たるやらん、 末々の衆には毎朝申させ度とぞ被仰ける。 慶聞坊忘申たり、 覚不申由被申ければ、 然ば不可成也、 たれも覚たらむには、 末々の衆に申させ度物をとぞ被仰ける。 六反がへしのかずの少なき物にて候とぞ申されける。

(78)

一 葬礼の時道中にて申念仏をば念仏と云べし。 四反かへし申間、 これを四反返と云はわろし。 へんがへしとはふし又別也と心得べし。

(79)

一 持仏堂かならず有べき事也、 上古より例也。 山科の御坊にても又大坂殿にても、 教信閣とてがくをうたれて侍し事也。 大坂の御坊にて教信閣の外にも一所り、 両所ありし事也。 やましなにては南殿庭中に持仏堂も新敷、 木仏也。

 

 0958当流諸国坊々事 次第不同

大谷殿 山科山科殿 同 音羽村少大坂殿 摂津
吉崎殿 越前 摂州三栖みす 山科歟
大津 近州久宝寺 河州出口
富田 摂州飯貝 大和土呂 三州
英賀 播州鷲塚 三州堅田 近州
黒江 紀州今は別所
二俣 賀州若松細田
清沢中戸井波 越中
当来 能登 号極楽寺安養寺 越中
山田 賀州菅生滝野
波佐谷 賀州松岡鮎滝
牧方 河州下市 大和
登弥山 播州名塩 播州
桧河 大和荒河 越前大町
岡崎 越前栃河藤嶋
粟津 賀州大杉大田
大賀市能美大桑
鳥越寺尾
福満 越中立野梅原
針崎 三川 勝万寺 越中佐々木 三川 上宮寺
中戸 板東 常敬寺 昔は号弥陀本願寺為帰参略之
十日市 歟 善鎭息在所 賀州
野々市 馬市 勝大寺
浄光寺 越後国開山御座所 非本寺 云云
    文亀比迄有之今依乱御坊跡ばかり
円徳寺 同国

 

底本は大阪府願得寺造実悟自筆本。