御俗姓

【1】 ^しゅう*親鸞しんらんしょうにんの出家前の氏姓についていえば、 藤原氏の流れにあり、 ながおか大臣*藤原ふじわらの内麿うちまろこうの子孫、 *皇太こうたいごうぐうの大進だいしん*日野ひの有範ありのり公の子息である。

^またその*ほんをうかがえば、 *弥陀みだぶつ*化身ともいわれ、 あるいは*曇鸞どんらん大師の生れ変りともいわれる。

^このようななかで、 九歳の年の春、 *えんの門下に入り、 出家*とくして範宴はんねん*少納言しょうなごんのきみと名乗られた。 それ以来、 叡山えいざんかわに伝わる*源信げんしんしょうの流れをくみ、 *天台てんだいしゅうの学問を深く極められたのである。

^その後、 二十九歳の時に至り、 *源空げんくう聖人の住房を訪ねてその高弟となり、 浄土真宗の教えを受け継いで専修念仏の法義を明らかにし、 *ぼんのままで往生できる真実の信心を示して世俗に生きる愚かな凡夫を教え導き、 真実の浄土への往生をお勧めくださったのである。

【2】 ^思えば、 この十一月二十八日は、 宗祖親鸞聖人がご往生された*しょうである。 毎年訪れるこの御正忌のことは、 教えに親しいものもそうでないものも、 昔から今に至るまで念仏するものであれば知らないものはない。 そうであるから、 *じょうしんしゅうに身を置いて信心を得たもののなか、 この御正忌に際して報謝の志を寄せないようなものは、 まったく木石にも等しい心なきものでしかない。

 ^そのようななかで、 聖人の恩徳は高さ八萬*じゅんといわれる*しゅせんより高く、 深さ三千里といわれる大海の底より深いものであり、 その尊い恩徳に報謝せずにいられるものではない。

^そこで毎年の仏事として、 七日間にわたり、 恩徳に報謝するために唯一無二の勤行を法式に沿って営むのである。 この七日間の*報恩ほうおんこうに際しては、 門徒が全国各地から相集うのであり、 今も衰退することなく続いている。

^しかしながら、 真実の信心を得ていないものが、 この御正忌に際し、 信じるところをお互いに訪ねあい、 聞きあうことで、 真実の信心を定められるようなら、 それこそまことに聖人の恩徳に報謝する志としてふさわしいものである。

【3】 ^身にしみて感じることであるが、 親鸞聖人のご往生は遠い昔のこととなり、 すでに二百年余りの年月を経ているものの、 遺されたみ教えはますます盛んであり、 「*教行きょうぎょうしんしょう」 として示された法義は、 今も世の人々の心に残り語り継がれている。 まさに尊ぶべきものであり、 信じるべきものである。

 ^このことについて、 今の浄土真宗の行者のなかで、 真実の信心を得ているものはきわめて少ない。 ただ世間の良い評判を求めて恩徳に報謝するというのなら、 どれほど志を寄せたとしても、 *りき真実の信心が定まっていないものに、 その甲斐はない。 まことに 「水に入っていながら垢を落とさない」 と譬えられるようなものであろう。

^そうであるから、 この七日間の報恩講の間に、 他力*本願ほんがんの道理を心から聞きひらき、 疑いなくひとすじに念仏する行者となってこそ、 実にこのたびの聖人の御正忌を営む本意にかなうことになる。 そうなってこそ、 まことに聖人の恩徳に報謝する尊い仏事といえるのである。 ^謹んで申しあげます。

 ^*文明ぶんめい九年十一月初旬、 ふと思い立って親鸞聖人の恩徳に報謝するために、 筆を取り書き記したものである。

 

得度 僧侶となること。 師弟同信の約を結ぶ儀式。
御正忌 祥月命日のこと。 新暦では一月十六日にあたる。
すでに二百年余りの年月を経ているものの 原文は、 「いっぴゃくさい星霜せいそうおくるといへども」 であるが、 本書の奥書に 「とき文明ぶんめいねんじゅう一月いちがつはじめのころ、 にはかに報恩ほうおん謝徳しゃとくのためにかんめこれをしるすものなり」 とあり、 この文明九年 (1477) は、 親鸞聖人のご往生から二百十五年を経ているので、 このように約しておいた。 なお 「一百余歳」 と記されるのは、 ¬報恩講私記¼ に 「きゅうせきいっぴゃくねんしもした」 とある文言に合わせられたものと考えられる。