1211◎夏0207御文章
(1)
◎▼そもそも、 今日の聖教を聴聞のためにとて、 みなみな*これへ御より候ふことは、 信心のいはれをよくよくこころえられ候ひて、 今日よりは御こころをうかうかと御もち候はで、 *ききわけられ候はでは、 なにの所用もなきことにてあるべく候ふ。 そのいはれをただいま申すべく候ふ。 *御耳をすましてよくよくきこしめし候ふべし。
それ、 安心と申すは、 もろもろの雑行をすてて一心に弥陀如来をたのみ、 今度のわれらが後生たすけたまへと申すをこそ、 安心を決定したる行者とは申し候ふなれ。 このいはれをしりてのうへの仏恩報謝の念仏とは申すことにて候ふなり。
されば聖人 (*親鸞) の ¬和讃¼ (*正像末和讃) にも、 「▲*智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり」 (35) 「▲*信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」 (34) と仰せられたり。 このこころをもつてこころえられ候1212はんこと肝要にて候ふ。
それについては、 まづ 「▲念仏の行者、 南無阿弥陀仏の名号をきかば、 ªあは、 はやわが往生は成就しにけり、 十方衆生、 往生成就せずは0208正覚取らじと誓ひたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆゑにº とおもふべし」 (*安心決定鈔・本) といへり。
また 「▲極楽といふ名をきかば、 ªあは、 わが往生すべきところを成就したまひにけり、 衆生往生せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵比丘の成就したまへる極楽よº とおもふべし」 (安心決定鈔・本)。
また 「▲本願を信じ名号をとなふとも、 よそなる仏の功徳とおもひて名号に功をいれなば、 などか往生をとげざらんなんどおもはんは、 かなしかるべきことなり。 ひしとわれらが往生成就せしすがたを南無阿弥陀仏とはいひけるといふ信心おこりぬれば、 仏体すなはちわれらが往生の行なるがゆゑに、 一声のところに往生を決定するなり」 (安心決定鈔・本)。
このこころは、 安心をとりてのうへのことどもにてはんべるなりとこころえらるべきことなりとおもふべきものなり。
*あなかしこ、 あなかしこ。
(2)
▼そもそも、 今日、 *御影前へ御まゐり候ふ面々は、 聖教をよみ候ふを御聴聞の1213ためにてぞ御入り候ふらん。 さればいづれの所にても聖教を聴聞せられ候ふときも、 *その義理をききわけ0209らるる分もさらに候はで、 ただ*人目ばかりのやうにみなみなあつまられ候ふことは、 *なにの篇目もなきやうにおぼえ候ふ。
それ、 聖教をよみ候ふことも、 他力の信心をとらしめんがためにこそよみ候ふことにて候ふに、 さらにそのいはれをききわけ候ひて、 わが信のあさきをも直され候はんことこそ仏法の本意にてはあるべきに、 毎日に聖教があるとては、 *しるもしらぬもよられ候ふことは、 *所詮もなきことにて候ふ。
今日よりしては、 *あひかまへてそのいはれをききわけられ候ひて、 *もとの信心のわろきことをも人にたづねられ候ひて直され候はでは、 かなふべからず候ふ。 その分をよくよくこころえられ候ひて聴聞候はば、 *自行化他のため、 しかるべきことにて候ふ。 そのとほりをあらましただいま申しはんべるべく候ふ。 御耳をすまして御きき候へ。
それ、 安心と申すは、 いかなる罪のふかき人も、 もろもろの雑行をすてて一心に弥陀如来をたのみ、 今度のわれらが後生たすけたまへと申すをこそ、 安心を決定したる念仏の行者とは申すなり。 このいはれをよく決定してのうへの仏恩報謝のためといへることにては候ふなれ。
されば聖人 (親鸞)1214 の ¬和讃¼ (正像末和讃(35)) にもこのこころを、 「▲智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし」 と仰せられたり。
この信心をよくよく決定候はでは、 仏恩報尽と申すことはあるまじきことにて0210候ふ。 なにと御こころえ候ふやらん。 *この分をよくよく御こころえ候ひて、 みなみな御かへり候はば、 *やがて宿々にても*信心のとほりをあひたがひに*沙汰せられ候ひて、 信心決定候はば、 今度の往生極楽は一定にてあるべきことにて候ふ。
あなかしこ、 あなかしこ。
(3)
▼そもそも、 今月はすでに*前住上人 (*存如) の御正忌にてわたらせおはしますあひだ、 未安心の人々は信心をよくよくとらせたまひ候はば、 すなはち今月前住の報謝ともなるべく候ふ。
さればこの去んぬる夏ころよりこのあひだにいたるまで、 毎日に*かたのごとく*耳ぢかなる聖教のぬきがきなんどをえらび出して、 あらあらよみまうすやうに候ふといへども、 来臨の道俗男女をおほよそみおよびまうし候ふに、 *いつも体にて、 さらにそのいろもみえましまさずとおぼえ候ふ。
所詮それをいかんと申し候ふに、 毎日の聖教になにたることをたふとき1215とも、 また殊勝なるとも申され候ふ人々の一人も*御入り候はぬときは、 *なにの諸篇もなきことにて候ふ。 信心のとほりをもまた*ひとすぢめを御ききわけ候ひてこそ*連々の聴聞の0211*一かどにても候はんずるに、 うかうかと御入り候ふ*体たらく、 *言語道断しかるべからずおぼえ候ふ。
たとへば聖教をよみ候ふと申すも、 他力信心をとらしめんがためばかりのことにて候ふあひだ、 初心の方々はあひかまへて今日のこの御影前を御たちいで候はば、 やがて不審なることをも申されて、 ひとびとにたづねまうされ候ひて、 信心決定せられ候はんずることこそ肝要たるべく候ふ。 その分よくよく御こころえあるべく候ふ。
それにつき候ひては、 *なにまでもいり候ふまじく候ふ。 弥陀をたのみ信心を御とりあるべく候ふ。 その安心のすがたを、 ただいまめづらしからず候へども申すべく候ふ。 御こころをしづめ、 ねぶりをさましてねんごろに聴聞候へ。
それ、 親鸞聖人のすすめましまし候ふ他力の安心と申すは、 *なにのやうもなく一心に弥陀如来をひしとたのみ、 後生たすけたまへと申さん人々は、 十人も百人も、 のこらず極楽に往生すべきこと、 さらにその疑あるべからず候ふ。 この分を面々各々に御こころえ候ひて、 みなみな*本々へ御かへりあるべく候1216ふ。
あなかしこ、 あなかしこ。
(4)0212
▼そもそも、 今月十八日のまへに、 安心の次第*あらあら御ものがたり申し候ふところに、 面々聴聞の御*人数の方々いかが御こころえ候ふや、 御こころもとなくおぼえ候ふ。
いくたび申してもただおなじ体に御ききなし候ひては、 毎日において随分*勘文をよみまうし候ふその甲斐もあるべからず、 ただ一すぢめの信心のとほり御こころえの分も候はでは、 *さらさら所詮なきことにて候ふ。 されば未安心の御すがた、 ただ人目ばかりの御心中を御もち候ふ方々は、 毎日の聖教には*なかなか聴聞のこと無益かとおぼえ候ふ。
そのいはれはいかんと申し候ふに、 はやこの夏中もなかばはすぎて二十四五日のあひだのことにて候ふ。 また上来も毎日聖教の勘文をえらびよみまうし候へども、 たれにても一人として、 今日の聖教になにと申したることのたふときとも、 また不審なるとも仰せられ候ふ人数、 一人も御入り候はず候ふ。 この夏中と申さんもいまのことにて候ふあひだ、 みなみな人目ばかり名聞の体たらく、 言語道断あさましくおぼえ候ふ。
これほどに毎日耳ぢかに聖教のなかをえらびいだしまうし1217候へども、 *つれなく御わたり候ふこと、 まことに事のたとへに鹿の角を蜂のさしたるやうにみなみなおぼしめし候ふあひだ、 *千万千万*勿体なく候ふ。
一つは*無道心、 一つは*無興隆ともおぼえ候ふ。 この聖教をよみまうし候はんも、 いま三十日のうちのこと0213にて候ふ。 いつまでのやうにつれなく御心中も御直り候はでは、 真実真実無道心に候ふ。 まことに宝の山に入りて、 手をむなしくしてかへりたらんにひとしかるべく候ふ。
さればとて*当流の安心をとられ候はんにつけても、 なにのわづらひか御わたり候はんや。 今日よりしてひしとみなみなおぼしめしたち候ひて、 信心を決定候ひて、 このたびの往生極楽をおぼしめしさだめられ候はば、 まことに聖人 (親鸞) の御*素意にも本意とおぼしめし候ふべきものなり。
(5)
▼この夏のはじめよりすでに百日のあひだ、 かたのごとく安心のおもむき申し候ふといへども、 まことに御こころにおもひいれられ候ふすがたも、 *さのみみえたまひ候はずおぼえ候ふ。
すでに夏中と申すも今日明日ばかりのことにて候ふ。 こののちもこのあひだの体たらくにて*御入りあるべく候ふや、 あさましく1218おぼえ候ふ。 よくよく安心の次第、 人にあひたづねられ候ひて決定せらるべく候ふ。 はや明日までのことにて候ふあひだ、 かくのごとくかたく申し候ふなり。 よくよく御こころえあるべく候ふなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
この第四章の末語、 文勢・義旨おだやかならざるに似たり。 *先哲の述意はかりがたしといへども、 ひそかにかんがふるに、 これ後人第五章をもつて、 あやまりて第四章に混ぜるものか。 かるがゆゑに改めて*両軸となす。 いまより聞くものをして惑ひなからしむ。 予、 *臨池の技にふけるにあらず。 実に門下の道俗をして金剛心に住し、 生を安養に期せしめんと欲するがため、 ことさらに*觚をあやとりてこころをここに尽すのみ。
*安永七戊戌の春これを書く。
*法如七十二歳
底本は本派本願寺蔵式務部依用本ˆ聖典全書の底本は愛知県本証寺蔵林末院文庫室町時代末期書写本ˇ。
ききわけられ ここでの 「ききわく」 は、 信心のいわれをはっきりと聞きひらいて信をとること。
御耳をすまして 余念をまじえずに。 専心に。
その義理 凡夫が他力によって救済されるという本願の道理。
なにの篇目もなき なんの役にもたたない。
しるもしらぬも 聖教に示されている道理を知る人も知らない人も。
この分 凡夫が他力によって救済されるという本願の道理。
やがて さっそく。 すぐさま。
信心のとほり 自分が聞いて信じているまま。
沙汰 話し合うこと。
前住上人の御正忌 本願寺第七代、
存如上人は
*長禄元年 (1457) 六月十八日に
示寂した。
耳ぢかなる 聞きなれてわかりやすい。
いつも体にて… いつもと同じように、 心して仏法を聞こうとする様子がみえない。
御入り候はぬ いらっしゃらない。
なにの諸篇もなきこと 何のかいもないこと。
ひとすぢめを御ききわけ 唯一の正しい法義の筋道を聞いて領解すること。
連々の ひきつづいての。
一かどにても候はんずるに かいがあることでもありましょうが。
なにまでも… 信心を領受するには自力のはからいはいらない。
本々へ 各自の元の宿へ。
人数 人々。 顔ぶれ。
勘文 肝文のこと。 肝要な聖教の文。
つれなく御わたり候ふ 何の反応もなさらない。
勿体なく候ふ もってのほかである。 ふとどきである。 不都合である。
無道心 仏道を求める心のないこと。
無興隆 仏法興隆の心のないこと。
御入りある いらっしゃる。
両軸となす ふたつに分ける。
臨池の技 習字、 てならいのこと。 後漢の張芝が池にのぞんで一心不乱に習字のけいこを続けたため、 池の水が墨で黒くなったという故事による。
觚をあやとりて 觚は四角の木札。 昔、 中国でこれに文字を記したところから、 筆をあやつって文章を作ること。 また文筆に携わることをいう。
安永七 1778年。