◎恵信尼消息
(1)
^*去年の十二月一日付のお手紙、 同二十日過ぎに確かに読みました。 何よりも*聖人が浄土に往生なさったことについてはあらためて申しあげることもありません。
^聖人は比叡山を下りて*六角堂に百日間こもり、 来世の救いを求めて祈っておられたところ、 九十五日目の明け方に、 ※夢の中に*聖徳太子が現れてお言葉をお示しくださいました。 それで、 すぐに六角堂を出て、 ※来世に救われる教えを求め、 *法然上人にお会いになりました。 そこで、 六角堂にこもったように、 また百日間、 雨の降る日も晴れた日も、 どんなに※風の強い日もお通いになったのです。 そして、 ただ来世の救いについては、 善人にも悪人にも同じように、 迷いの世界を離れることのできる道を、 ただひとすじに仰せになっていた上人のお言葉をお聞きして、 しっかりと受けとめられました。 ですから、 「法然上人のいらっしゃるところには、 人が何といおうと、 たとえ*地獄へ堕ちるに違いないといおうとも、 わたしはこれまで何度も生れ変り死に変りして迷い続けてきた身であるから、 どこへでもついて行きます」 と、 人がいろいろといったときも仰せになっていました。
^さて、 常陸の国、 *下妻のさかいの郷というところにいたとき、 夢を見ました。 それはお堂の落慶法要かと思います。 お堂は東向きに建っていて、 宵祭りが行われているのでしょうか、 お堂の前にはたいまつが明るく燃えていました。 たいまつの西のお堂の前に、 鳥居のようなものがあり、 その横木に仏の絵像が掛けられていましたが、 一つは普通の仏のお顔ではなく、 仏の*頭光のようであり、 はっきりとお姿を拝見することができず、 ただ光輝いているばかりでいらっしゃいました。 ^もう一つは確かに仏のお顔でしたので、 「これは何という仏さまなのでしょうか」 と尋ねると、 答えた人は誰であるかよくわかりませんが、 「あの光輝いているばかりでいらっしゃるのは、 まさしく法然上人です。 それは*勢至菩薩なのです」 というので、 「それでは、 もう一方は」 と尋ねると、 「あれは*観音菩薩です。 まさしく*善信房なのです」 というのを聞きました。 その時はっと目が覚めて、 夢であったとわかったのです。 ^けれども、 こんなことは人に話すものではないと聞いていましたし、 わたしがそのようなことをいったところで、 人は本当のことだと思うはずがないので、 まったく人にもいわないで、 法然上人のことだけを聖人に申しあげると、 「夢にはいろいろあるけれども、 それは正夢です。 法然上人は勢至菩薩の*化身であるといわれ、 それを夢に見ることもよくあるといわれます。 また、 勢至菩薩はこの上ない智慧そのものであり、 それはそのまま光となって輝いていらっしゃるのです」 と※仰せになりました。 観音菩薩のことは申しあげずにおりましたが、 その後は心の中で、 聖人を普通の人と思わずに過してきました。 あなたもこのようにお心得ください。
^ですから、 臨終がどのようなものであったとしても、 聖人の浄土往生は疑いなく、 それが変ることはありませんが、 *益方も臨終に立ち会ったそうで、 親子とはいいながらその縁がよほど深かったのだと思いますので、 心からうれしく思います。
^また、 この越後では去年の作物のできが特に悪く、 ひどいありさまで、 人々が生きていけるかどうかわからない中、 住むところを変えました。 この辺りだけでなく、 益方の方も、 またわたしが頼りにしている人の領地もみなこのようなありさまであり、 世間の人のほとんどが被害を受けている中で、 あれこれといっても仕方ありません。 ^このようなありさまですので、 長い間仕えていた男二人が正月に※いなくなってしまいました。 どうにも作物を作る手だてがありませんので、 ますます生活が不安なことですが、 この先それほど長く生きる身でもありませんし、 気にやむ程ではありません。 けれどもわたし一人ではなく、 こちらには親のいない*小黒の女房の娘や息子がいますし、 益方の子供もいますので、 何となく母親になったような気さえしています。 これらの子供たちがこの先無事に生きていけるか気がかりでなりません。
^*※この文は、 聖人が比叡山で*堂僧をつとめておられたとき、 山を下りて六角堂に百日間こもり、 来世の救いを求めて祈っておられた九十五日目の明け方に、 夢の中に聖徳太子が現れてお示しくださったお言葉です。 ご覧になっていただこうと思い、 書き記してお送りします。
(2)
^※「越後からのお手紙」
^*この文を書き記してお送りするのは、 聖人が生きておられた頃には、 いっても仕方のないことと思っていましたが、 今となっては、 このようなお方であったということも、 せめてあなたのお心にとどめていただこうと思って、 書き記してお送りします。 字の上手な人にきれいに書かせて、 お持ちになってください。
^また、 聖人のあの絵像一幅が欲しいと思います。 *あなたがまだ幼くて八歳であった年の※四月十四日より、 聖人がひどい風邪をおひきになった時のことなどを書き記しました。
^わたしは今年で八十二歳になりました。 一昨年の十一月から去年の五月までは、 今か今かと死ぬ時を待っていましたが、 今日まで生きています。 けれども今年の飢饉では、 飢え死にしてしまうかもしれないと思っています。 このようにそちらへ手紙を差しあげるのに、 一緒に何もお送りすることができないのはもどかしくてなりませんが、 どうすることもできません。
^益方殿にも、 この手紙の内容を同じようにお伝えください。 ものを書くのも大変ですので、 あらためての手紙は差しあげません。
「※*弘長三年」
二月十日
(3)
^親鸞聖人は、 *寛喜三年※四月十四日の正午頃から風邪気味になり、 その日の夕方から床につかれてひどいご様子であったのに、 腰や膝もさすらせず、 まったく看病人も寄せつけず、 ただ静かに横になっておられましたので、 お体に触れてみると火のように熱くなっておられました。 頭痛の激しさも、 普通ではないご様子です。
^さて、 床につかれて四日目の明け方に、 苦しそうな中で 「※これからはそうしよう」 と仰せになったので、 「どうなさいましたか。 うわごとを仰せですか」 とお尋ねしました。 すると聖人は、 「うわごとなどではありません。 床について二日目から、 ¬*無量寿経¼ を絶え間なく読んでいました。 ふと目を閉じると、 経典の文字が一字残らず光輝いてはっきりと見えるのです。 ^さてこれは何とも不思議なことです。 念仏して浄土に往生すると疑いなく信じることの他に、 いったい何が気にかかるのだろうと思い、 よくよく考えてみると、 *今から十七、 八年前に、 人々を救うため、 ※心を込めて*浄土三部経を千回読もうとしたことがありました。 けれども、 これはいったい何をしているのか、 ¬*往生礼讃¼ に、 ª自信教人信 難中転更難 (*みづから信じ、 人を教へて信ぜしむること、 難きがなかにうたたまた難し)º といわれているように、 自ら信じ、 そして人に教えて信じさせることが、 まことに仏の恩に報いることになると信じていながら、 *名号を称えることの他に何の不足があって、 わざわざ経典を読もうとしたのかと、 思い直して読むのをやめました。 今でも少しそのような思いが残っていたのでしょうか。 ^人が持つ執着の心、 *自力の心は、 よくよく考えて気をつけなければならないと思った後は、 経典を読むことはなくなりました。 ^それで、 床について四日目の明け方に、 ªこれからはそうしようº といったのです」 と仰せになり、 間もなく汗をたくさんかいて回復されたのです。
^浄土三部経を心を込めて千回読もうとされたのは、 *信蓮房が四歳の時で、 武蔵の国か上野の国か、 *佐貫というところで読み始めて、 四、 五日ほどして思い直し、 読むのをやめて常陸の国へ行かれたのです。
^信蓮房は*未の年の三月三日の昼に生れたので、 今年で五十三歳になるかと思います。
弘長三年二月十日
*恵信
(4)
^あなたにお送りした*お手紙の中に、 かつて聖人が寛喜三年※四月四日から病気になられた時のことを、 書き記して入れておきましたが、 その時のわたしの日記には、 四月十一日の明け方とありました。 「経典を読むことについては、 これからはそうしよう」 と仰せになったのを、 まさに四月十一日の明け方のことと書き記していたのです。 それを数えてみると八日目にあたっていました。 四月四日からは八日目にあたるのです。
※わかさ殿、 お取り次ぎください。
恵信
(5)
^あなたに届けてくださるかもしれないと思い、 ※越中の国へ行く人に、 ひとまずこの手紙をあずけます。 さて先年、 八十歳の時、 命にかかわる重い病気をわずらいました。 それに、 八十三歳には寿命が尽きると、 学者の書物などに等しく書かれているようなので、 *今年は必ずそうなるものと覚悟しています。 それで、 生きている間に*卒塔婆を建ててみたいと思い、 石の五重の塔を七尺の高さで造るように頼んだら、 職人が引き受けてくれましたので、 できあがってくればすぐに建てようと思っていました。 ところが去年の飢饉で、 益方の子供と前からいるこちらの子供と、 その他にも仕えているものの幼い子供たちが大勢いますので、 ※何とか飢え死にさせないように工面したところ、 着物もなくなってしまいましたし、 白い着物さえありませんの*で……
^*一人います。 また、 おと法師といっていた男の子は、 今はとう四郎といいます。 そちらへ行くようにいいましたので、 そのつもりでいてください。 けさの娘は十七歳になりました。 そして、 ことりというものには子供が一人もいないので、 七歳になる女の子を育てさせています。 その子は、 親と一緒にそちらへ行くことになっています。 あれこれといい尽すことができませんので、 ここまでにしておきます。 ^謹んで申しあげます。
(6)
^あなたに届けてくださるとのことで、 うれしさに手紙を差しあげます。 何度か手紙をお送りしましたが、 届いているでしょうか。
^わたしは今年で八十三歳になりましたが、 去年、 今年あたりは命が終る年といわれていますので、 どんなことでもいつも手紙でやりとりをしたいと思いますが、 確かに届けてくれる人がいつもいるとは限りません。
^さて、 生きている間にと思って、 七尺の五重の石塔を造るように頼んでいたところ、 間もなくできあがると知らせがありました。 ただ、 今は住むところも変り、 仕えていた人もみな逃げていなくなってしまいました。 何かにつけて不安なことですが、 生きている間に建ててみたいと思っていたところ、 間もなくできあがり、 こちらへ運ぶまでになっていると聞きましたので、 何としても生きている間に建てようと思っていますが、 どうなることでしょう。 そうしている間にも、 死んでしまったなら、 子供たちに建ててもらいたいと思っています。
^生きている間は、 どんなことでもいつも手紙でやりとりをしたいと思ってはいますが、 はるかな雲の彼方のように離れているので、 細やかな親子の情を交わすことができないように思います。 とりわけあなたは末の子ですので、 いとおしく思えてならないのですが、 とてもお会いすることまではできないでしょう。 いつも手紙でやりとりすることさえできないのは、 本当に心の痛むことです。
「*文永元年」
五月十三日
^*いずれにしても、 そちらへ行くことになっている人たちについて、 前にいたけさというものの娘が亡くなりました。 今、 けさの娘が一人います。 けさも病気がちです。 さて、 おと法師といっていた男の子は、 成人してとう四郎といいますが、 そのものとふたばという今年で十六歳になる女の子を、 そちらへ行かせるようにいいました。 何につきましてもお手紙ではいい尽すことができませんので、 ここまでにしておきます。 また、 前からいた七歳の子供を育てさせていることりも、 そちらへ行かせます。
五月十三日
^これは信頼できる人が届けてくださる手紙です。 そこで、 詳しく申しあげたいのですが、 手紙を届けてくださる人が今すぐにと急いでいますので、 詳しく書くことはできません。 また、 この※えもん入道殿が言葉をおかけしましょうとおっしゃったので、 うれしさに手紙を差しあげます。 信頼できる人が届けてくださるので、 どんなことでも詳しくお書きになってお送りください。 謹んで申しあげます。
(7)
^あなたに届けてくださるとのことで、 うれしさに手紙を差しあげます。
^さて、 *去年の八月頃から、 お腹の病気に悩まされています。 それがどうにもよくならないことばかりはわずらわしく思いますが、 その他は年老いていますので、 今は身も心も衰えてどうしようもありません。 わたしは*寅年の生れですので、 今年で八十六歳になりました。
^また、 そちらへ行かせようとしていたものたちも、 いろいろありまして、 長い間仕えていたことりというものと結婚して一緒に暮している三郎たといっていたものが、 *入道となって今はさいしんといいます。 その入道の親類のうまのじょうとかいう*御家人の娘は、 今年で十歳ぐらいになります。 母親はかがといい、 本当に※おだやかでよい性格でした。 わたしに仕えていましたが、 先年に熱病が流行って亡くなりました。 母親がいないので、 今子供のいないことりにあずけているのです。
^そしてまた、 けさというものの娘は、 なでしといいました。 本当によい性格でしたが、 流行っていた熱病で亡くなりました。 母親のけさは生きていますが、 頭にはれものができて長い間苦しんでいました。 それが今はひどくなって、 どうにもならないといっています。 もう一人の娘は、 今年で二十歳になります。 その娘とことりと※いとく、 そしてそちらにいた時におと法師といっていた男の子は、 今はとう四郎といいますが、 そちらへ行くようにいったところ、 両親を残して行くことはできないと心に決めているといっています。 けれどもそれについては何とかいたします。 ^このような田舎で、 何とか代りの人を見つけて行かせようとも思っています。 信蓮房が来るでしょうからその時に伝えます。 ただ、 代りの人がどれほどいるかはわかりません。 このように信頼できるものは世間になかなかいないと思います。
^また、 小袖を何度もいただきました。 今は死装束として着る衣もありますので、 うれしさは何ともいいようがありません。 ※今わたしが身につけるものは、 死ぬ時のことと離しては考えられません。 今はもう死ぬ時を待っている身ですから。
^また、 信頼できる人が届けてくださるときに、 小袖を送ってくださると仰せになっていました。 このえもん入道は信頼できる人のはずです。 また、 *宰相殿は落ち着いて暮しておられるでしょうか。 子供たちみなのことは、 どんなことでもお聞かせいただきたいと思います。 いい尽すことができませんので、 ここまでにしておきます。 ^謹んで申しあげます。
九月七日
^また、 わかさ殿も今では少し年を取られたことでしょう。 何とも懐かしく思います。 年を取ると、 あまりよく思っていなかった人でも、 懐かしく思い、 会いたくなるものです。 かこのまえのこともいとおしく、 上れん房のことも※思い出されて、 懐かしく思います。 ^謹んで申しあげます。
*ちくぜん
わかさ殿、 お取り次ぎください。
*とびたのまきより
(8)
「*わかさ殿」
^あなたに届けてくださるとのことで、 うれしさに手紙を差しあげます。
^さて、 *今年まで生きながらえるとは思っていませんでしたが、 わたしは今年で八十七歳になるかと思います。 寅年の生れですので、 八十七か八十八になるかと思います。 ですから今は死ぬ時を待つばかりで、 驚くほど年を取りましたが、 咳が出ることもなく痰が絡むこともありません。 腰や膝をさすってもらうということも今のところありません。 まるで犬のように元気に動き回っていますが、 今年になって、 あまりにも物忘れがひどく、 衰えてしまったように思います。
^さて、 去年から本当に恐ろしいことが多く起ります。
^また、 あなたがくださった綾織の衣を※すかいのものが届けてくださいました。 何ともお礼のいいようがありません。 今は死ぬ時を待つばかりですので、 これが最後であろうと思います。 今までにもあなたからいただいた綾織の小袖を、 死装束にと思い、 とっています。 本当にうれしく思います。 衣の表地にする布も、 まだ持っています。
^また、 子供たちのことは本当に懐かしく、 お聞かせいただきたいものです。 *あなたの子供のことも、 ぜひともお聞かせいただきたいと思います。 この世でもう一度、 子供たちの姿を見ることや、 わたしの姿を見ていただくことはかなわないでしょう。 わたしは間もなく*極楽に往生するでしょうし、 そこでは何でも明らかに見ることができますので、 必ず念仏して、 共に極楽へ往生してお会いしましょう。 いよいよ極楽に往生してお会いするのですから、 何でも明らかになることでしょう。
^また、 この手紙は近くに住んでいる巫女の甥とかいうものに届けてもらいます。 手元がとても暗く、 詳しく書くことができません。 また信頼できる人が届けてくださるときにでも、 綿を少しお送りください。 ※尾張の国にいるえもん入道は信頼できる人です。 その人も、 こちらに※来ることがあるように聞いていますが、 まだはっきりとしたことはわかりません。
^また、 *光寿御前が教えを学ぶために京都を離れ、 旅に出るとか仰せになっていましたが、 こちらにはお越しになっていません。
^また、 わかさ殿は、 今では年を取っておられることでしょうと、 本当に懐かしく思います。 必ず念仏して、 共に極楽へ往生なさるようにとお伝えください。
^何よりも子供たちのことを、 詳しく仰せになってください。 お聞かせいただきたいと思います。 *一昨年でしょうか、 あなたに次の子供が生れたとお聞きしましたが、 その子供にもお会いしたいものです。
^また、 そちらへ行かせようといっていた女の子も、 先年に熱病が流行って亡くなりました。 ことりという女の子も、 もう年を取りました。 うまのじょうという御家人の娘も、 そちらへ行かせようと、 ことりにあずけていたのですが、 とても不作法な様子で髪などもととのえず、 本当に見苦しい身なりをしています。 何の取柄もない心配な子供のようです。
^けさの娘のわかばという女の子は、 今年で二十一歳になります。 妊娠して、 この三月頃に子供を産むのですが、 男の子なら父親が引き取ることでしょう。 今では五歳になる男の子を産んだ時にも、 跡継ぎとして父親が引き取りました。 今回もどうなることでしょう。 わかばの母親は、 頭に何か大変なはれものができてすでに十年余りが過ぎましたが、 何もできず、 ただ死ぬ時を待っているようだといっています。
^そちらにいた時におと法師といっていた男の子に、 あなたのところへ行くようにいっていましたが、 今では妻子がいるので、 とても行くとはいわないと思います。 わたしが命を終えた後は、 信蓮房にいっておきますので、 あなたからも来るようにと仰せになってください。
^また、 信蓮房は何か思うところがあるのでしょうか、 *のづみという山寺で*不断念仏をはじめているようで、 何か書物を書かなければならないとかいっているようです。 *五条殿のためにといっているようです。
^何につきましても申しあげたいことは多くありますが、 手紙を届けてくださる人が明け方に出発するといっていますので、 この手紙は夜に書いています。 とても暗く、 読めるような字で書けませんので、 ここまでにしておきます。
^また、 針を少しお送りください。 この手紙を届けてくださる人にでもあずけてください。 お手紙の中に入れてお送りいただきたいと思います。 ぜひとも、 子供たちのことを詳しくお知らせください。 お聞かせいただくだけで心が和らぎます。 あれこれといい尽すことができませんので、 ここまでにしておきます。
^また、 宰相殿はまだ結婚しておられないのでしょうか。
^あまりにも暗くて、 どうして書いたらよいでしょうか。 とても読めるような字では書けません。
三月十二日 午後十時
夢の中に…お示しくださいました 原文は 「
聖徳太子の文を結びて、 示現にあづからせたまひて」 であるが、 解釈が一定していない。 一には、 聖人が太子の文を結んで六角堂に参篭されていたところ、 夢告を受けたとする解釈である。 二には、 太子が (夢の中に現れて) 文を結んで聖人に示したとする解釈である。 三には、 聖人が救世観音を本尊とする六角堂に参篭されていたことから、 救世観音が (夢の中に現れて) 太子の文を結んで聖人に示したとする解釈である。
なお、 「文を結ぶ」 という表現については、 「結び文 (文書の封の一種)」 であるとみる解釈の他に、 「口誦する (口に出してとなえる)」 という意であるとみる解釈もある。 また、 この 「文」 の内容については、 「
聖徳太子廟窟偈」 とする説、 「
行者宿報の
偈」 とする説などがある。
風の強い日 原文は、 「
たいふ」 であるが、 原本のこれに該当する箇所を 「だい事 (大事)」 と読む説がある。
仰せになりました。 観音菩薩 原文は、 「
候ひしかども、 観音の御ことは申さず」 であるが、 原本のこれに該当する箇所を 「候ひしか、 との (殿) 観音の御ことは」 と読む説がある。
いなくなってしまいました 原文は、 「
うせ候ひぬ」 であるが、 このなか、 「うせ」 について、 「失せ (逃亡)」 とみる解釈と、 「亡せ (死亡)」 とみる解釈がある。 本現代語訳においては、 前者にしたがって訳しておいた。
この文は 原文は、 「
この文ぞ」 であるが、 このなか、 「文ぞ」 について、 原本のこれに該当する箇所を 「文書」 と読む説がある。
越後からのお手紙 原文は、 「
ゑちごの御文にて候ふ」 であるが、 原文では、 この下に 「此御表書は覚信御房御筆也」 と、
覚如上人の筆かとみられる註記がある。
弘長三年 原文は、 「弘長三年癸亥」 であるが、 これは覚如上人の筆かとみられている。
これからはそうしよう 原文は、 「
まはさてあらん」 であるが、 これについて、 「
真はさてあらん (やはりそうであろう)」 とみる解釈と、 「
今はさてあらん (これからはそうしよう)」 とみる解釈がある。 いずれも親鸞聖人の 「
人の執心、 自力のしん (心)」 に対する深い自覚から出た言葉であるが、 前者は、 自ら抱いていた自力のはからいを内省された言葉として解釈する見方であり、 後者は、 そうした自力のはからいに気をつけなければならないと自制された言葉として解釈する見方である。 本現代語訳においては、 後者にしたがって訳しておいた。
心を込めて 原文は、 「
げにげにしく」 であるが、 これについて、 「誠実に、 心を込めて」 の意であるとみる解釈と、 「もっともらしく」 の意であるとみる解釈がある。 本現代語訳においては、 前者にしたがって訳しておいた。
四月四日・四月十四日 親鸞聖人が風邪で床に就かれた日付について、
恵信尼公は、 第二通に 「
四月十四日より、 かぜ大事におはしまし候ひし」 と記され、 また、 第三通に、 「
四月十四日午の時ばかりより」 床に就かれて 「
臥して四日と申すあか月」 に回復に向かわれたと記されている。 第四通では、 当時の日記によって、 「
四月四日」 に床に就かれてから、 八日目の 「
四月十一日のあか月」 に回復に向かわれたと記されて、 第三通で四日目と記した内容を訂正しておられる。 したがって、 聖人が風邪で床に就かれた日付について、 第二通と第三通において 「四月十四日」 と記されているが、 これらは 「四月四日」 の誤記であると考えられる。
わかさ殿、 お取り次ぎください 原文は、 「
わかさ殿申させたまへ」 であるが、 「わかさ」 を覚信尼公の侍女であるとみて、 「申させたまへ」 は侍女への披露依頼文とする説と、 「わかさ」 を覚信尼公であるとみて、 「申させたまへ」 は敬愛の意を表す慣用表現とする説がある。 本現代語訳においては、 前者にしたがって訳しておいた。
越中の国へ行く…あずけます 原文は、 「
ゑちうへこの文はつかはし候ふなり」 であるが、 このなか、 「ゑちう」 について、 国名 「越中」 とする説と、 人名とする説がある。 また、 「
ゑちうへこの文」 について、 原本のこれに該当する箇所を 「ゑちごの文 (越後の手紙)」 と読む説もある。 本現代語訳では、 国名 「越中」 であるとみて訳しておいた。
何とか飢え死にさせないように 原文は、 「
殺さじと候ひしほどに」 であるが、 このうち、 「殺さじ」 について、 原本のこれに該当する箇所を 「こころざし」 と読む説がある。 この場合、 「(幼い子供たちを) 気遣って」 という意となる。
おだやかでよい性格 原文は、 「
おだしくよく」 であるが、 このなか、 「よく」 について、 原本のこれに該当する箇所を 「かく」 「うく」 「うへ」 等と読む説がある。
いとく 原文は、 「
いとく」 であるが、 原本では、 「い」 に続く二字が不明であり、 他に 「いこく」 「いさく」 「いとへ」 等と読む説がある。
恵信尼公に仕えていた者の名前であると考えられる。
今わたしが身につけるものは 原文は、 「
いまは尼が着て候ふものは」 であるが、 このなか、 「尼が」 について、 原本のこれに該当する箇所を 「あまり (余り)」 と読む説がある。
思い出されて 原文は、 「
思ひいでられて」 であるが、 原本のこれに該当する箇所を 「とはせられて」 と読む説がある。 この場合、 「お尋ねくださって」 という意味になる。
すかい 原文は、 「
すかい」 であるが、 原本のこれに該当する箇所を 「すりい」 と読む説がある。
尾張の国にいる 原文は、 「
おはりに候ふ」 であるが、 これについて、 「最後です」 という意であるとみる解釈と、 「尾張の国にいる」 という意であるとみる解釈がある。 本現代語訳では、 後者にしたがって訳しておいた。
来る 原文は、 「
まゐる」 であるが、 原本では、 「る」 の上の二字が不明であり、 他に 「かかる」 「かへる」 等と読む説がある。
去年の… 弘長二年十一月二十八日に親鸞聖人が示寂し、 十二月一日付で、 そのことを覚信尼公から母の恵信尼公に伝えたその手紙。
六角堂 現在の京都市中京区六角通東洞院西入ルにある頂法寺。 聖徳太子の創建と伝えられ、 当時は観世音菩薩の霊験のある寺として知られていた。
下妻のさかいの郷 現在の茨城県下妻市坂井とされる。 「さかい」 は 「堺」 「幸井」 の字を充てる説もある。
頭光 頭部より放たれる円形の光明。
この文は… この一段は、 前部の余白に書かれていて、 現存しないが第一通と一緒に送られた聖徳太子のお言葉を書きとめた文の添書である。
堂僧 比叡山の常行三昧堂につとめる不断念仏衆のことを当時一般に 「堂僧」 「山の堂僧」 などと呼んだ。
この文 第一通にいう聖徳太子のお言葉を書きとめた文のことか。
あなたがまだ… 寛喜三年 (1231) の出来事を記した第三通を指していう。 覚信尼公はこの年に八歳であるから、 その生年が元仁元年 (1224) であることが判明する。
弘長三年 1263年。
寛喜三年 1231年。 親鸞聖人五十九歳。
今から十七、 八年前 十七年前は建保二年 (1214) に相当する。 親鸞聖人四十二歳。
みづから… 信文類訓。
佐貫 現在の群馬県邑楽郡明和町大佐貫。
未の年 承元五年 (1211)。
お手紙 弘長三年 (1263) 二月十日付の第三通を指す。
今年 弘長四年 (文永元年・1264)。
卒塔婆 梵語ストゥーパの音写。 ここでは墓標のこと。 卒塔婆は親鸞聖人のためのものとする説と、 恵信尼公がみずからの寿塔として建てたとする説とがある。
で…… 以下原本欠落。
一人います… 以下は余白に書かれている。
文永元年 1264年。
いずれにしても… 以下、 追伸。
去年 文永三年 (1266)。
寅年の生れ この記述から恵信尼公が寿永元年 (1182) 壬寅の誕生であることがわかる。
入道 在俗生活のまま剃髪して仏門に入った男性をいう。
御家人 一般には鎌倉幕府から本領安堵された武士のことであるが、 ここでは武家に仕えている人というほどの意味であろう。
宰相殿 覚信尼公と日野広綱との間に生れた娘で、 「日野一流系図」 に 「字光玉」 とある女性にあたるとされる。
ちくぜん 恵信尼公の呼び名であろう。
とびたのまき 恵信尼公の手紙の発信地。 現在の新潟県上越市内で、 諸説があって確定しない。
わかさ殿 端裏書であり、 下部は欠失している。
今年 文永五年 (1268)。
あなたの子供 覚信尼公の娘宰相か、 長男覚恵法師のことであろう。
光寿御前 (-1307) 覚恵法師。 覚信尼公の長男で、 覚如上人の父。
一昨年でしょうか… 一昨年は文永三年 (1266) にあたる。 この年に覚信尼公の次男唯善が生れている。
のづみ… 現在の新潟県上越市板倉区にある山寺薬師を指すという説と、 同県長岡市寺泊野積であるとする説とがある。 また、 山寺薬師には、 栗沢信蓮房が不断念仏を行ったという伝承を持つ 「聖の岩窟」 がある。
不断念仏 特定の日時を定めて昼夜不断に行う念仏修行のこと。
五条殿 親鸞聖人のことか。
△¬御伝鈔¼ 巻下第五段には、 聖人が京都五条西洞院に居住していた旨の記述がある。