^*¬称讃浄土教¼ (玄奘の訳) に説かれている。
^「たとえ百千倶胝那由他劫という長い時間を経て、 無量百千倶胝那由他という数限りない舌の上に、 無量の声を出して阿弥陀の功徳を讃めたたえたとしても、 なお讃めつくすことはできない。」
◎入出二門偈頌
*愚禿釈*親鸞作
^*¬無量寿経論¼ 一巻 (北魏の時代に、 インド出身の訳経僧である菩提留支が訳した)
^婆藪槃豆菩薩がお書きになった。 「婆藪槃豆」 はインドの言葉の音写である。
旧訳では天親というが、 これは正確ではない。 新訳では世親といい、 これが正しい。
¬優婆提舎願生偈¼ は、 善導大師は ¬浄土論¼ といわれた。
この論をまた ¬往生論¼ ともいう。 入出の二門はこの論に由来するのである。
【1】 ^*天親菩薩は、 *大乗の教典に説かれている真実の功徳によって、
^一心に*尽十方不可思議光如来に*帰命された。
^何ものにもさまたげられることのないその*光明は大いなる慈悲のはたらきであり、 そのまますべての仏がたの智慧なのである。
^*阿弥陀仏の浄土を観ずると、 その世界ははかり知れないほど広大であり、 果てのないことは大空のようである。
^*五種の不可思議の第五は仏法力の不可思議である。 この中、 仏の世界の不可思議について、
^二種のはたらきがある。 これは*安楽浄土のこの上ない功徳を示している。
^一つには、 業のはたらき、 すなわち*法蔵菩薩の大いなる*本願のはたらきにより成就されているということである。
^二つには、 阿弥陀仏が開かれたさとりのすぐれたはたらきによりたもたれているということである。
^※安楽浄土は平等の世界であり、 そこには男性であるとか女性であるとか、 身心が不自由であるとかそうでないとかの区別はない。 また、 自らのさとりだけを求めるものもいない。
^清らかな浄土に生れる人々はみな、 法蔵菩薩が成就したさとりの花から*化生する。
^もとは*九品の違いがあっても、 往生してからは何の違いもない。
^なぜなら、 同じ念仏によって生れるのであり、 その他の道によるのではないからである。 それは、 *淄川の水も*澠川の水も海に入れば一つの味になるようなものである。
^阿弥陀仏の本願のはたらきに遇ったものは、 愚かな*凡夫であっても、 いたずらに迷いの生死を繰り返すことはない。
^疑いなく信じて念仏すると、 仏は速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださるのである。
^法蔵菩薩は、 *五念門によって入出の功徳をそなえ、 *自利*利他の行を成就された。
^はかり知ることのできない長い時をかけて、 *五功徳門を成就されたのである。
^五念門とは何かというと、 *礼拝と*讃嘆と*作願と*観察と*回向である。
^どのように礼拝するのかというと、 *身業で礼拝されたのである。 正しい智慧をそなえた阿弥陀仏は、
^巧みな手だてによって、 すべての人々に安楽浄土へ生れようという心をおこさせようとなさるからである。
^これを入の第一門という。 またこれを*近門に入るというのである。
^どのように讃嘆するのかというと、 *口業でほめたたえられたのである。 *名号のいわれの通りに仏の名号を称えさせ、
^如来の光明という智慧の相によって、 *如実に行を修めさせようとなさるからである。
^これは*無礙光如来が選び取ってくださった本願の行だからである。
^これを入の第二門という。 すなわち*大会衆門に入ることを得るのである。
^どのように作願するのかというと、 *意業で常に願われたのである。 一心にただ念仏して浄土に生れようと願わせるのである。
^*蓮華蔵世界に生れて、 思いを止め心を静める行を如実に修めさせようとなさるのである。
^これを入の第三門という。 またこれを*宅門に入るというのである。
^どのように観察するのかというと、 智慧の眼によって観察なさったのである。 正しい思いで浄土を観じて、
^ありのままにそのすがたを想い描く行を如実に修めさせようとなさるからである。 ^浄土に生れたなら、 ただちに
^法を味わうさまざまな楽しみを受けさせてくださるのである。 これを入の第四門という。
^またこれを*屋門に入るというのである。 ^法蔵菩薩の修行が成就するということについて、
^この四種は入の功徳を成就なさったのであり、 自利の行を成就なさったと知るがよい。
^第五は出の功徳を成就なさったのである。 法蔵菩薩の出の第五門である回向は、
^どのように回向するのかというと、 功徳を与えようと願われたのである。 法蔵菩薩は、 苦しみ悩むすべてのものを捨てることができず、
^回向を本として大いなる慈悲の心を成就なさったのであるから、 その功徳をお与えくださるのである。
^浄土に生れたものは、 そのまま速やかに自利の智慧と
^利他の慈悲とを成就し、 *煩悩に満ちた迷いの世界に還ってきて、
^さまざまなすがたを現し、 *神通力をそなえ、 思いのままに教え導く位に至り、 すべてのものを救うはたらきを与えられるのである。
^これを出の第五門という。 *園林遊戯地門に入るのである。
^この*本願力の回向によって、 利他の行を成就なさったと知るがよい。
^無礙光仏は*因位のときに、 このような広大な誓いをおこし、 本願をおたてになった。
^法蔵菩薩はすでに*智慧心を成就し、 *方便心・*無障心を成就し、
^*妙楽勝真心を成就して、 ^速やかにこの上ないさとりを得られたのである。
^自利と利他の功徳を成就すること、 これを入出の門と、 天親菩薩はいわれたのである。
【2】 ^*曇鸞大師は、 天親菩薩の ¬*浄土論¼ を注釈なさった。
^本願力が成就したことを、 五念門という。 仏の方からいうなら、 他すなわち*衆生を利益するのであるから、 利他というのがよい。
^衆生の方からいうなら、 他すなわち仏が利益するのであるから、 他利というのがよい。 よく知るがよい。 いまは仏のはたらきを語ろうとするのである。
^¬浄土論¼ に 「如実に行を修め、 本願に相応する」 といわれているのは、 阿弥陀仏の名号のいわれと、 その光明のはたらきを疑いなく信じることである。
^この信心を一心という。 ^あらゆる煩悩をそなえた凡夫が、
^自ら煩悩を断ち切らないまま、 さとりを得る身となる。 これは安楽浄土にそなわる*自然の徳なのである。
^「煩悩の泥の中に開く蓮の花」 というのは、 ¬*維摩経¼ に 「高原の乾いた陸地には蓮の花は生じないが、
^低い湿地の泥沼に蓮の花が生じる」 と説かれている。 これは、 凡夫が煩悩の泥の中にあって、
^如来回向の信心の花を開くことができるのをたとえたのである。 ^これは阿弥陀仏の本願の
^不可思議なはたらきを示している。 すなわち入出の二門を*他力と、 曇鸞大師はいわれたのである。
【3】 ^*道綽禅師は、 浄土の教えを解釈していわれている。 ^¬*大集経¼ の 「月蔵分」 に、 「*末法の時代には、
^多くのものが仏道修行に励んだとしても、 一人としてさとりを得るものはいないであろう」 と説かれている。
^この*娑婆世界でさとりを求める心を起して修行するのは、 *聖道門であり、 *自力という。
^今は末法の時代であり、 *五濁の世である。 ただ浄土の教えによってのみ、 さとりに至ることができる。
^今の時代の人々は、 まるで暴風や豪雨のように、 悪事を犯しさまざまな罪をつくり続けている。
^阿弥陀仏がその大いなる本願に名号を称えさせようとお誓いになっているのは、 煩悩に汚れ濁りと悪に満ちた世に生きるもののためなのである。
^このようなわけで、 すべての仏がたは阿弥陀仏の浄土に往生することをお勧めになった。 ^たとえ生涯悪をつくり続けるものでも、
^名号のいわれにかなって*三信を得たなら、 それは阿弥陀仏を疑いなく信じる心であって、 この心は淳朴な心であるから如実というのである。
^それでいて、 浄土に生れないということがあるだろうか。 ^必ず安楽浄土に往生して、
^仏のさとりを開くことができる。 ^すなわち、 これが*易行道であり、 他力ということであると、 道綽禅師はいわれたのである。
【4】 ^*善導大師は、 念仏の教えを解釈していわれている。 ^念仏によって仏のさとりを開く、 これこそが真実の教えである。
^これを*一乗海といい、 また*菩提蔵という。
^これはもっとも完全な教えであり、 もっとも速やかにさとりへ至る教えなのである。
^真実の教えにはなかなか遇えるものではなく、 信心を得ることは難しい。 難の中の難であり、 これ以上に難しいことはない。
^*釈尊をはじめとするすべての仏がたは、 まことに慈悲深い父母である。 さまざまな
^巧みな手だてによって、 わたしたちにこの上ない真実の信心をおこさせてくださるのである。
^煩悩をそなえた凡夫が、 仏の本願のはたらきによって信心を得る。
^この人はただの愚かな凡夫ではなく、 泥の中に咲く白い蓮の花のような人なのである。
^この信心を得た人は、 *もっともすぐれてたぐいまれな人であり、 この上なくうるわしい人である。
^安楽浄土に往生すると、 その自然のはたらきにより、 ただちに仏のさとりを開かせてくださると、 善導大師はいわれたのである。
入出二門偈頌
七十四行
愚禿釈親鸞作
安楽浄土は平等の…求めるものもいない 原文は、 「女人・根欠・二乗の種、 安楽浄刹に永く生ぜず」 である。 これは、 ¬浄土論¼ に、 「
大乗善根の界は、 等しくして機嫌の名なし。 女人および根欠、 二乗の種生ぜず」 とある文に依ったと考えられ、 阿弥陀仏の浄土には女人と根欠と二乗が存在しないと述べて、 浄土が平等なさとりの世界であることを示したものである。 このなか、 「女人」 とは女性のことであり、 「根欠」 とは眼・耳・舌等の諸器官が不自由な人のことである。 また、 「二乗」 とは
声聞・
縁覚という小乗の行者のことで仏になれない者とされていた。
聖典が成立した当時は、 女人や根欠を卑しく劣ったものとみる社会通念が支配的であった。 そうした中にあって、 この教説は、 浄土にはそのそうな差別の実体もなく、 差別的な名もないという、 浄土の絶対平等性をあらわすことによって、 差別の社会通念を破り、 すべてのものに救いをもたらそうとしたものである。
しかし、 こうした教説に用いられている表現について、 聖典の真意とは異なった解釈をし、 現実の差別を容認し助長してきたという歴史がある。 すなわち、 女性や障害者を特別な存在とみなして差別し、 非難やそしりの対象とすることなどである。 これらのことが現在もなお行われているのは大きな誤りであり、 決して許されることではない。 さらには、 女性であることや障害のあることが、 過去世の行いの報いであるとして差別を温存し助長することも、 とうてい是認することができない。
一切の平等を説く教えが仏教であり、 阿弥陀仏の本願には、 すべてのものを差別なく平等に救うと誓われている。 この本願によって成就された浄土の平等性を通して、 常に現実の差別を自己の問題として捉えていかなければならない。
称讃浄土教… この引文は現代語版にない。 英訳を参考に、 聖典全書の原文より有国が現代語訳した。
無量寿経論… 冒頭の5行は現代語版にない。 英訳を参考に、 聖典全書の原文より有国が現代語訳した。
礼拝・讃嘆・作願・観察・回向 礼拝は、 身に阿弥陀仏を礼拝すること。 讃嘆は、 光明と名号のいわれを信じ、 口に仏名を称えて阿弥陀仏の功徳をたたえること。 作願は、 一心に専ら阿弥陀仏の浄土に往生しようと願うこと。 観察は、 阿弥陀仏・菩薩の姿、 浄土の荘厳相を思いうかべること。 回向は、 自己の功徳をすべての衆生にふりむけてともに浄土に往生したいと願うこと。 親鸞聖人は、 これらの行が、 すべて法蔵菩薩の修められた功徳として名号にそなわって衆生に回向されるとみられた。
如実に… 阿弥陀仏の本願に相応し、 教の通りに修行して法に違わないこと。
智慧心・方便心・無障心・妙楽勝真心 智慧心は、 真実の法をさとる心。 方便心は、 巧みな方法を用いてさとりに導く心。 無障心は、 さとりへのさまたげを離れさせる心。 妙楽勝真心は、 浄土のすぐれた真実の功徳にかなう心。 親鸞聖人は、 これらを他力信心にそなわる徳とされた。
一乗海 すべての衆生を載せて、 ひとしくさとりに至らせる唯一の法である本願名号の功徳が、 深く広いことを海に喩えたもの。
菩提蔵 仏のさとりに至る道を説く教え。 大乗の教えのこと。