◎弥陀如来名号徳
【1】 ^無量光というのは、 ¬*観無量寿経¼ に、 「^*無量寿仏には八万四千の*相がある。 その一つ一つの相にはまた八万四千の*好がある。 その一つ一つの好にはまた八万四千の*光明がある。 その一つ一つの光明はひろくすべての世界を照らし、 念仏するものを摂め取ってお捨てにならないのである」 と説かれている。 ^*源信和尚はこの光について、 ¬*往生要集¼ に、 「^一つ一つの相にはそれぞれ七百五*倶胝六百万の光明があり、 燃えさかる火のように明るく輝いている」 といわれている。 ^一つの相から放たれる光明でさえこのように数が多い。 まして八万四千の相から放たれる光がどれほど多いのかをお考えになるがよい。 このように光明の数が多いことから、 無量光というのである。
【2】 ^次に無辺光というのは、 このように無量の光明が、 あらゆる世界をどこまでも果てしなく照らすことから、 無辺光というのである。
【3】 ^次に無礙光というのは、 太陽や月の光は、 ものにさえぎられると届かないが、 この*阿弥陀仏の光明は、 何ものにもさまたげられることなくすべての命あるものをお照らしになるので、 無礙光仏というのである。 命あるものの*煩悩や悪い行いをおこす心にさまたげられないので、 無礙光仏というのである。 ^もし無礙光という徳を阿弥陀仏がそなえておられなかったなら、 いったいどうなるのであろうか。 *極楽世界とこの*娑婆世界との間は、 十万億の*三千大千世界に隔てられていると説かれている。 ※その一つ一つの三千大千世界にはそれぞれ四重の*鉄囲山がある。 まず一世界のまわりを囲む鉄囲山があり、 その高さは*須弥山と等しい。 次に小千世界のまわりを囲む鉄囲山があり、 その高さは*他化自在天に達している。 次に中千世界のまわりを囲む鉄囲山があり、 その高さは*色界の初禅天に達している。 次に大千世界のまわりを囲む鉄囲山があり、 その高さは*第二禅天にまで達している。 ^このようなわけで、 もし無礙光仏でなかったなら、 その光明は一つの世界でさえ貫き通ることはできないであろう。 まして十万億の世界であれば、 いうまでもない。 無礙光仏の光明は、 このような思いも及ばない山々を貫いて照らし、 この世界の念仏するものを摂め取ってくださることに何のさまたげもないから、 無礙光というのである。
【4】 ^次に清浄光というのは、 *法蔵菩薩が*貪欲の心を離れたことにより、 その身にそなえられた光である。 貪欲というのに二種類がある。 一つには淫欲であり、 二つには財欲である。 この二種類の貪欲の心を離れたことにより、 その身にそなえられた光である。 それはあらゆる命あるものの煩悩の汚れを取り除くための光明であり、 淫欲や財欲の罪を取り除くためである。 だから清浄光というのである。
【5】 ^次に歓喜光というのは、 *瞋恚の心を離れた*善根によってその身にそなえられた光である。 瞋恚の心を離れたというのは、 外に怒り腹立ちの素振りもなく、 内にそねみねたみの心もないことを、 瞋恚の心を離れたというのである。 この瞋恚を離れた心によってその身にそなえられた光であり、 あらゆる命あるものの怒り腹立ちやそねみねたみの罪を取り除くためにその身にそなえられた光であるから、 歓喜光というのである。
【6】 ^次に智慧光というのは、 これは*愚痴の心を離れた善根によってその身にそなえれられた光である。 愚痴の心を離れた善根というのは、 すべての命あるものに、 仏の智慧を学び身につけてこの上ないさとりを開こうと思う心をおこさせるために、 その身にそなえれられたものである。 つまり念仏を信じる心を得させるのである。 念仏を信じるというのは、 すでに智慧を得てさとりを開くことが定まった身になることであり、 これは愚痴を離れることであると知るがよい。 だから智慧光仏というのである。
【7】 ^次に無対光というのは、 阿弥陀仏の光に等しく並ぶ光はまったくないから、 無対というのである。
【8】 ^次に炎王光というのは、 光が明るく盛んであることを、 火が盛んに燃えている様子にたとえるのである。 炎が煙もなく燃えさかっているように明るく盛んであるというのである。
【9】 ^次に不断光というのは、 この光がどのような時も絶えることなく照ら*し……
【10】^……という光である。 超というのは、 阿弥陀仏の光明は、 太陽や月の光に超えすぐれているので、 超というのである。 超とは、 他のすべての光に超えすぐれていることを知らせようとするのであり、 そこで超日月光というのである。
^十二光について、 そのあらましを書き記したのである。 詳しく述べ尽すことも、 書き表すこともできない。
【11】^阿弥陀仏は智慧の光でいらっしゃるのである。 この智慧の光を無礙光仏と申しあげるのである。 無礙光と申しあげるわけは、 すべての世界の命あるものの煩悩や悪い行いをおこす心にさまたげられることもさえぎられることもないから、 無礙というのである。 阿弥陀仏の光が思いも及ばない、 すなわち不可思議であることをあらわし知らせようとして、 帰命尽十方無碍光如来といわれるのである。 ^無礙光仏を常に心に思って、 その*名号を称えると、 阿弥陀仏はすべての仏がたの功徳を一つにしてそなえていらっしゃるから、 その名号を称えることの功徳は限りがない。 そこで、 *龍樹菩薩は 「*十二礼」 に、 「阿弥陀仏の功徳について説くと、 あらゆる功徳を果てしなくそなえておられることは、 あたかも海のようである」 と教えてくださっている。 このようなわけで不可思議光仏と申しあげると示されているのである。 不可思議光仏であるから、 *天親菩薩は ¬*浄土論¼ に、 「尽十方無礙光仏と申しあげる」 といわれている。 阿弥陀仏に十二の光の名*が……
【12】^…… ¬浄土論¼ にあらわされている。 *諸仏咨嗟の願に大行が誓われている。 大行というのは、 無礙光仏の名号を称えるのである。 この行はひろくすべての行をおさめており、 速やかに往生の因を欠けることなくそなえさせる。 このようなわけで大行というのである。 だから、 あらゆるもののすべての*無明を破る。 また、 あらゆる煩悩を身にそなえたわたしたちは、 無礙光仏の*誓願を疑いなく信じることによって、 *無量光明土に至るのである。 光明土に至ると、 *自然にはかり知れない功徳を得、 大いなる光を身にそなえるのである。 大いなる光を得るから、 さまざまなさとりを開くのである。
【13】^難思光仏というのは、 この阿弥陀仏の光の功徳は、 *釈尊でさえその心に思うことができないと説かれている。 心にも思うことができないから難思光仏というのである。
【14】^次に無称光というのは、 これも釈尊が 「この不可思議光仏の功徳は説き尽すことができない」 と説かれている。 言葉に表すこともできないというのである。 だから無称光と申しあげると説かれている。 そのようなわけで、 *曇鸞大師の ¬*讃阿弥陀仏偈¼ には、 難思光仏と無称光仏とを合わせて 「*南無不可思議光仏」 といわれている。 この不可思議光仏があらわれてくださるべきところを、 すでに天親菩*薩……
【15】^……と示されている。 *自力の行者を、 如来と等しいということはあってはならない。 行者それぞれの自力の心では、 不可思議光仏の浄土に至ることはできないというのである。 ただ*他力の信心によって、 不可思議光仏の浄土に至ると示されている。 ^信心を得てその浄土に生れようと願うものは、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない功徳を、 欠けることなくその身にそなえる。 それは心にも思うことができないし、 言葉にも表すことができない。 このようなわけで不可思議光仏と申しあげると示されているのである。
南無不可思議光仏
原本に次のように記されている。
*文応元年十二月二日、 これを書き写す。
*愚禿*親鸞八十八歳、 書き終える。
相・好 仏の身体にそなわる大きな特徴を相といい、 微細な特徴を好という。 報身の場合は相も好も八万四千、 応身の場合は相を三十二、 好を八十とする。
色界の初禅天・第二禅天 色界四禅天 (初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天) の初めの二つの世界。 欲界の上に位置する。
し… 以下原本欠落。
が… 以下原本欠落。
諸仏咨嗟の願 第十七願のこと。 咨嗟とは讃嘆の意で、 阿弥陀仏の名号が諸仏によりほめたたえられることをいう。
薩… 以下原本欠落。
文応元年 1260年。