◎浄土文類聚鈔
【1】 ^そもそも、 何ものにもさまたげられることなく、 思いはかることもできない*
【2】 ^まず教というのは、 ¬*
【3】 ^行というのは、 *
【4】 ^願 (第十七・十八願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。
^「すべての世界の数限りない仏がたは、 みな同じく*
^また次のように説かれている (無量寿経)。
^「釈尊が*
^*
^「もし人が速やかに不退転の位に至ろうと思うなら、 あつく敬う心をもって仏の名号を信じ称えるがよい。 ^もし*
^「*
【5】 ^とくに釈尊のお言葉と菩薩がたの論書を用いて知ることができた。 これは、 凡夫が自ら励む*
【6】 ^¬無量寿経¼ に説かれている 「↑乃至」 というのは、 上から下までを含めて間を略するときに用いる言葉である。 「一念」 というのは、 すなわち*
【7】 ^浄信というのは、 他力によって与えられる深く広い信心である。 ^これは*
^「大きな喜びの心を得る」 というのは、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。
^「心から信じて安楽浄土に往生しようと願うものは、 明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである」
「信心を得た人は、 すぐれた徳をそなえているのである」
また次のように説かれている (如来会)。
「広大ですぐれた智慧をそなえた人である」
【8】 ^まことにこれは、 疑いを除き功徳を得させる不可思議な法であり、 たちどころにあらゆる功徳を満たす真実の教えであり、 生死を超えた命を得させるすぐれた法であり、 広大ですぐれた功徳をそなえた浄信である。
【9】 ^このようなわけであるから、 往相の行も信も、 すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。 仏より与えられた行信が往生成仏の因であって、 それ以外に因があるのではない。 よく知るがよい。
【10】 ^証というのは、 他力によって与えられる功徳に満ちたすぐれた果である。 ^これは*
【11】 ^無上涅槃の願 (第十一願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。
^「浄土に生れるものは、 すべてみな*
^また次のように説かれている (無量寿経)。
^「ただ他の世界にならって人間とか神々とかいうだけで、 その顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、 その姿は美しく、 いわゆる神々や人間のたぐいではない。 すべてのものが、 きわまりなくすぐれたさとりの身を得ているのである」
^また次のように説かれている (無量寿経)。
^「必ずこの生死の流れを超え離れて浄土に往生するがよい。 ただちに*
【12】 ^釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 煩悩にまみれ、 迷いの罪に汚れたものが、 仏より回向された信と行を得ると、 ただちに大乗の正定聚の位に定まるのである。 正定聚の位に定まるので、 浄土に生れて必ずさとりに至る。 ^必ずさとりに至るというのは、 *
【13】 ^このようなわけであるから、 往生の因も果も、 すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。 因が清らかであるから、 果もまた清らかである。 よく知るがよい。
【14】 ^二つに、 還相の回向というのは、 ※思いのままに人々を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、 他力によって恵まれることである。 ^これは*
【15】 ^願 (第二十二願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。
^「浄土の菩薩たちは、 みな*
【16】 ^釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 これは阿弥陀仏の大いなる慈悲の心からおこされた誓願のはたらきであり、 広大で思いはかることのできない利益なのである。 すなわち、 浄土に生れた人は迷いの世界に還ってあらゆるものを教え導き、 *
【17】 ^このようなわけであるから、 往相も還相も、 すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。 よく知るがよい。
【18】 ^ここに、 浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、 ※*
^願わくは、 出家のものも在家のものも、 本願の大いなる慈悲の船に乗っては清らかな信心を順風とし、 迷いの闇夜の仲では功徳に満ちた名号の宝玉を大いなる灯火とするがよい。 心が暗く知るところが少ないものは、 敬ってこの本願他力の道に努め励むがよい。 罪が重くさわりが多いものは、 深くこの信を尊ぶがよい。 ^ああ、 この大いなる本願はいくたび生を重ねてもあえるものではなく、 まことの浄信はどれだけ時を経ても得ることができない。 思いがけずこの真実の信心を得たなら、 遠く過去からの因縁をよろこべ。 もしまた、 このたび疑いの網におおわれたなら、 もとのように果てしなく長い間生れ変り死に変りし続けなければならない。 摂め取ってお捨てにならないという真実の法を仰ぎ、 だれもが速やかに往生することができる教えを聞いて、 疑いためらってはならない。
^まことによろこばしいことである。 仰いで考えてみると、 愚禿親鸞は、 心を本願の大地にうちたて、 思いを不可思議の大海に流すのである。 ^聞かせていただいたところをたたえ、 得させていただいたところをよろこんで、 釈尊のまことの言葉を集め、 浄土の祖師がたの解釈を抜き出し、 もっぱらこの上なく尊い仏を念じて、 その広大な恩に報いるのである。
【19】 ^そこで、 曇鸞大師の ¬*
「菩薩は仏にしたがう。 それはちょうど、 親孝行な子どもが父母にしたがい、 忠義な家来が君主にしたがって、 自分勝手な振舞いをせず、 その行いが、 必ず父母や君主の意向によるようなものである。 仏の恩を知ってその徳に報いるのであるから、 何ごともまず仏に申しあげるのは当然である」
^ここに仏の恩の深いことを信じ喜んで、 次のように 「念仏正信偈」 をつくった。
【20】 ^西方の浄土におられる不可思議なはたらきをそなえた阿弥陀仏は、 *
^すぐれた広い誓いをおこされ、 この上ない大いなる慈悲の願をおたてになった。
^この誓願を選び取るため、 五*
^誓願を成就されてからすでに十劫の時を経ている。 その寿命は限りなく長く、 はかり知ることができない。
^慈悲の広く深いことは大空のようであり、 智慧がまどかに満ちあふれていることは大海のようである。
^清らかですぐれた果てしない浄土は、 広大な功徳によりうるわしくととのえられている。
^さまざまな功徳をことごとくそなえており、 あらゆる仏がたの浄土よりもはるかに超えすぐれている。
^阿弥陀仏は、 *
^智慧の光は明るく輝き、 さとりの眼を開かせる。 すべての世界で、 その名号が聞こえないところはない。
^仏のさとりの功徳はただ仏だけが知っておられる。 その功徳のすべてを名号におさめて、 愚かな凡夫にお与えになるのである。
^阿弥陀仏の光明は、 あらゆるものを照らす。 すでに無明の闇は破られても、
^貪りや怒りの雲や霧は、 いつも清らかな信心の空をおおっている。
^しかし、 たとえば太陽や月や星の光が、 煙や霞、 雲や霧などにさえぎられても、
^その下は明るくて闇がないのと同じである。 阿弥陀仏の光明は、 太陽や月の光よりも超えすぐれているのである。
^この上ない浄信を得て夜も明け方になると、 迷いの雲は必ず晴れて、
^清らかで何ものにもさまたげられることのない光明が明るく輝き、 真実一如のさとりの世界があきらかになるのである。
^信心を得て念仏すれば、 光明の内に摂め取られ護られて、 この世において限りない功徳を得るのである。
^*
^すべての世界の仏がたがお護りくださることはまことに疑いがなく、 みな同じように念仏するものをほめたたえお喜びになる。
^煩悩にまみれたものや五逆・十悪の罪を犯すものも、 みな同じように浄土に生れ、 *
^将来さまざまなさとりへの道がみな失われてしまっても、 特にこの阿弥陀仏の教えだけはその後いつまでもとどめおかれるであろう。
^どうしてこの阿弥陀仏の大いなる本願を疑うことがあろうか。 ただ釈尊のまことの教えを信じるがよい。
^インドの菩薩がたや中国・日本の高僧がたは、
^釈尊の教えの本意を示し、 阿弥陀仏の本願がわたしたちのためにたてられたことを明らかにされた。
^「南インドに龍樹菩薩が現れて、 *
^尊い大乗の法を説き、 *
^龍樹菩薩は、 ¬十住毘婆沙村¼ を著して、 *
^大いなる*
^仏の名号を称えて、 速やかに不退転の位に至るがよい。 清らかな信心を得たものは、 浄土に生れて仏を見たてまつるのである」 と述べられた。
^天親菩薩は、 ¬浄土論¼ を著して、 「浄土の経典にもとづいて真実の教えを明らかにする」 と述べられた。
^*
^*
^「本願の名号に帰し、 大いなる功徳の海に入れば、 必ず浄土に往生する身と定まる。
^阿弥陀仏の浄土に往生すれば、 ただちに煩悩を滅してこの上ない平等の真理をさとった身となり、
^さらに迷いの世界に還り、 *
^*
^天親菩薩の ¬浄土論¼ を註釈して、 阿弥陀仏の本願は、 称名となってはたらいていると明らかにし、
^往相も還相も本願による回向であると示された。 「あらゆる煩悩をそなえた凡夫でも、
^信心が開けおこったならただちに*
^必ずはかり知れない光明の浄土に至り、 迷いの世界のすべての人々を導くことができる」 と述べられた。
^*
^さまざまな善を自力で修めても、 それは劣っているとして、 あらゆる功徳をそなえた名号をひとすじに称えることをお勧めになる。
^*
^「たとえ生涯悪をつくり続けても、 阿弥陀仏の本願を信じれば、 浄土に往生しこの上ないさとりを開く」 と述べられた。
^*
^善悪のすべての人を哀れんで、 光明と名号が縁となり因となってお救いくださると示された。
^「*
^この人は真実の浄土に往生して、 ただちに変ることのないさとりを開く」 と述べられた。
^*
^さまざまな経典や論書によって浄土往生の教と行を示された。 まことにこれは、 濁りに満ちた世において目となり足となるものである。
^念仏一つをもっぱら修めるものと、 さまざまな行をまじえて修めるものとの違いを明らかにして、 念仏往生の真実の法門に導き入れてくださった。
^「自力の行者の信心は浅く、 *
^*
^日本という辺境の地に往生浄土の真実の教えを開き興され、 *
^「迷いの世界に輪廻し続けるのは、 本願を疑いはからうからである。
^速やかにさとりの世界に入るには、 ただ本願を信じるより他はない」 と述べられた。
^浄土の教えを説かれた祖師がたはみな同じお心で、 数限りない*
^出家のものも在家のものも今の世の人々はみなともに、 ただこの高僧がたの教えを仰いで信じるがよい。
^以上、 六十行百二十句の偈を終る。
【21】 ^問うていう。 念仏往生の願 (第十八願) には、 すでに三心が誓われている。 それなのに、 なぜ天親菩薩は 「一心」 といわれたのであろうか。
^答えていう。 それは愚かなものに容易にわからせるためであり、 だから天親菩薩は三心を合せて一心といわれたのであろう。 ^三心というのは、 一つには至心、 二つには信楽、 三つには欲生である。
【22】 ^わたしなりに三心それぞれの字の意味から ¬浄土論¼ のおこころを考えてみると、 三心は一心となるのである。 ^それはどのようなことかというと、 一つには 「至心」 について、 「至」 とは、
【23】 ^また、 三心について考えてみると、 ^一つには至心について、 この心はすなわち、 阿弥陀仏のこの上ない功徳がまどかにそなわった真実の心である。 阿弥陀仏は、 真実の功徳をすべてのものに施し与えられたのである。 すなわち、 阿弥陀仏の名号を至心の*
【24】 ^¬無量寿経¼ に説かれている。
^「貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起さず、 また、 そういう思いを持ってさえいなかった。 すべてのものに執着せず、 どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、 数多くの苦をものともせず、 欲は少なく足ることを知って、 貪り・怒り・愚かさを離れていた。 ^そしていつも*
【25】 ^釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 この心は、 阿弥陀仏の清らかで広大な至心であり、 これを真実心というのである。 至心はすなわち大いなる慈悲の心であるから、 疑いの心があるはずはない。
【26】 ^二つには信楽について、 この心はすなわち、 真実心を信楽の体とするのである。 ^ところが、 煩悩に縛られ濁りに満ちた世に生きる愚かな凡夫には、 清らかな信心がなく、 真実の信心がない。 だから、 真実の功徳にあうことができず、 清らかな信楽を得ることができないのである。 ^そこで、 ¬*
【27】 ^本願 (第十八願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。
^「すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ」
【28】 ^釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 この心は、 すなわち本願に誓われている功徳に満ちた清らかな真実の信楽であり、 これを信心というのである。 信心はすなわち大いなる慈悲の心であるから、 疑いの心があるはずはない。
【29】 ^三つには欲生について、 この心はすなわち、 清らかな真実の信心を欲生の体とするのである。 ^ところが、 果てしない過去から迷いの世界を生れ変り死に変りし続けているあらゆる凡夫には、 清らかな回向の心がなく、 また真実の回向の心がない。 ^そこで、 阿弥陀仏は、 法蔵菩薩であったとき、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 ほんの一瞬の間に至るまでも、 功徳を施し与える心を本としてなされ、 それによって大いなる慈悲の心を成就されたのである。 ^だから、 阿弥陀仏は清らかな真実の欲生心を、 すべての人々にお与えになるのである。
【30】 ^本願 (第十八願) が成就したことを示す文は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。
「^それは阿弥陀仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、 浄土へ生れようと願うときそのまま往生する身に定まり、 不退転の位に至るのである」
【31】 ^釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 この心は、 阿弥陀仏の大いなる慈悲であって、 すべての人々を招き喚ばれる仰せである。 すなわち、 この大いなる慈悲の欲生心をもって、 これを回向というのである。
【32】 ^三心はみな、 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな真実の心であり、 疑いがまじることはない。 だから、 そのまま一心なのである。
【33】 ^そこで、 善導大師の ¬観経疏¼ をひらくと、 次のようにいわれている (散善義)。
^「西の岸に人がいて、 ªそなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるなº と喚ぶ声がする」
^また次のようにいわれている。
「^ª水の河と火の河の間にある白い道º というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
【34】 ^これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 ^そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。 この深心は堅く信じる心、 すなわち堅固深信である。 この堅固深信は真実の徳を持った心、 すなわち真心である。 この真心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、 すなわち金剛心である。 この金剛心はこの上なくすぐれた心、 すなわち無上心である。 この無上心はすなわち淳心・一心・相続心である。 この淳心・一心・相続心は広大な法を受けた喜びの心、 すなわち大慶喜心である。 大慶喜心を得たなら、 この心は、 嘘いつわりで飾り立てることのない淳朴な心となり、 疑うことなくひとすじに信じる心となり、 途切れることなく生涯たもたれる心となる。 この心は大いなるさとりを求める心、 すなわち大菩提心である。 この大菩提心はまことの心、 すなわち真実信心である。 この真実信心は仏になろうと願う心、 すなわち願作仏心である。 この願作仏心はすべてのものを救おうとする心、 すなわち度衆生心である。 この度衆生心はすべてのものを安楽浄土に生れさせる心である。 ^この心は自他にとらわれない平等の真理をさとった心、 すなわち畢竟平等心である。 この心はすべてのものを慈しみ哀れむ心、 すなわち大悲心である。 この心はさとりを開く正しい因であり、 仏のはたらきそのものである。 ^これを ¬浄土論¼ には、 「*
【35】 ^また問うていう。 ¬無量寿経¼ に説かれる至心・信楽・欲生の三心と ¬*
^答えていう。 ¬無量寿経¼ の三心と ¬観無量寿経¼ の三心とは、 同じである。 ^どうして知ることができるかというと、 善導大師は、 ¬観経疏¼ に ^「至誠心」 を解釈する中で、 次のようにいわれている (散善義)。
「ª至º とは真であり、 ª誠º とは実である」
^念仏の法を*勧める人と浄土往生の行とについて信を立てるということを示される中で、 次のようにいわれている (散善義)。
「一心に阿弥陀仏の名号を専念する。 これを*正定業というのである」
「深心とは、 すなわち真実の信心である」
^¬観経疏¼ に 「回向発願心」 を解釈する中で、 次のようにいわれている (散善義)。
「この心は深く信じる心であり、 金剛のようにかたい」
^明らかに知ることができた。 「一心」 とは信心であり、 「専念」 とはすなわち正定業である。 この一心の中に至誠心と回向発願心が摂められるのである。 ^このことはすでに前の問いの中で答えている。
【36】 ^また問うていう。 ¬無量寿経¼ や ¬観無量寿経¼ に説かれる三心と ¬*阿弥陀経¼ に説かれる執持とは、 同じなのであろうか、 異なるのであろうか。
^答えていう。 ¬阿弥陀経¼ に 「名号を執持する」 と説かれている。 「執」 とは、 心がしっかりと定まって他に移らないことであり、 「持」 とは、 散失しないことをいうのである。 だから 「乱れることがない」 と説かれるのである。 執持とは、 すなわち一心である。 一心とは、 すなわち信心である。 ^したがって、 釈尊のお説きになった 「名号を執持する」 という真実の教え、 「一心に乱れることがない」 というまことの言葉について、 必ずこれを信じ、 ひとえにこれを仰がなければならない。
【37】 ^インドの菩薩がたや中国・日本の祖師がたは、 浄土の真実の教えを説き示し、 五濁の世のよこしまな心を持つものをお導きになるのである。 ¬無量寿経¼・¬観無量寿経¼・¬阿弥陀経¼ の三経に説く教えには*
^ここで、 善導大師の ¬観経疏¼ をひらくと、 次のようにいわれている (定善義)。
^「ª如意º には二つの意味がある。 一つには人々の意のままにという意味で、 それぞれの心にしたがってみなお救いになる。 二つには阿弥陀仏の意のままにという意味で、 *
^「敬って、 往生を願うすべての人々に申しあげる。 ※わたしたちは大いにこれまでの罪を恥じなければならない。 釈尊はまことに慈悲深い父母である。 さまざまな手だてをもって、 わたしたちに他力の信心をおこさせてくださる」
【38】 ^明らかに知ることができた。 釈尊と阿弥陀仏の大いなる慈悲によって、 一心という成仏の因を得たのである。 よく知るがよい。 この因を得た人は、 *たぐいまれな人であり、 もっともすぐれた人なのである。 ところが、 迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける愚かな凡夫は、 自ら真実の信心を起すことができない。
^このようなわけで、 ¬無量寿経¼ には次のように説かれている。
^「この阿弥陀仏の教えを聞き、 信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、 これより難しいことは他にない」
^「まことに世間の常識を越えた信じがたい尊い教えである」
【39】 ^まことに知ることができた。 釈尊がこの世にお出ましになったもっとも大切なわけは、 阿弥陀仏が慈悲の心からおこしてくださった本願のまことの利益を明らかにするためであり、 それが仏がたの本意であると示されたのである。 凡夫が信心を得てただちに往生が定まると示すことを、 大いなる慈悲の根本となさったのである。 これによって仏がたのおこころをうかがうと、 過去・現在・未来のすべての仏がたが世にお出ましになる本当の目的は、 ただ阿弥陀仏の不可思議な本願を説くためなのである。 ^常に迷いの海に沈んでいる凡夫は、 本願のはたらきによって真実の功徳である名号を聞き、 この上ない信心を得たそのとき、 大きな喜びの心を得て不退転の位に至る。 自ら煩悩を断ち切らないまま、 浄土で速やかにさとりを開くことができるのである。
浄土文類聚鈔
¬経¼ に 「乃至」 といふは、 上下を兼ねて中を略するの言なり。 「一念」 といふはすなはちこれ専念なり。 専念はすなはちこれ一声なり。 一声はすなはちこれ称名なり。 称名はすなはちこれ憶念なり。 憶念はすなはちこれ正念なり。 正念はすなはちこれ正業なり。 また 「乃至一念」 といふは、 これさらに観想・功徳・遍数等の一念をいふにはあらず。 往生の心行を獲得する時節の延促について、 乃至一念といふなり、 知るべし。
であり、 この文は先に引用されている ¬無量寿経¼ の第十八願成就文とおほよそ往相回向の行信について、 行にすなはち一念あり、 また信に一念あり。 行の一念といふは、 いはく、 称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。
と述べられた後に弥勒付属の文が引用されており、 そして、¬経¼ (大経) に 「乃至」 といひ、 釈 (散善義) に 「下至」 といへり。 乃下その言異なりといへども、 その意これ一つなり。 また乃至とは一多包容の言なり。 (中略) いま弥勒付属の 「一念」 はすなはちこれ一声なり。 一声すなはちこれ一念なり。 一念すなはちこれ一行なり。 一行すなはちこれ正行なり。 正行すなはちこれ正業なり。 正業すなはちこれ正念なり。 正念すなはちこれ念仏なり。 すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
と述べられていることから、 この箇所は弥勒付属の文の 「乃至一念」 (行の一念) とし、 また、 後半の 「また ª乃至一念º といふは…乃至一念といふなり」 については、 「信文類」 の信一念釈に、それ真実の信楽を案ずるに、 信楽に一念あり。 一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、 広大難思の慶心を彰すなり。
と述べられた後に第十八願成就文が引用されていることから、 第十八願成就文の 「乃至一念」 (信の一念) について述べられたものであるとみるのが従来の解釈である。しかるに薄地の凡夫、 底下の群生、 浄信獲がたく、 極果証しがたし。 なにをもつてのゆゑに、 往相の回向によらざるがゆゑに、 疑網に纏縛せらるるによるがゆゑに。 いまし如来の加威力によるがゆゑに、 博く大悲広慧の力によるがゆゑに、 清浄真実の信心を獲。 この心顛倒せず、 この心虚偽ならず。
であり、 この内容は、 「往相の回向によらざる」 「疑網に纏縛せらるる」 の二句を挙げて、 難信の理由を示し、 次いで 「如来の加威力による」 「大悲広慧の力による」 の二句を挙げて、 獲信の根拠を示されたものである。しかるに常没の凡愚、 流転の群生、 無上妙果の成じがたきにあらず、 真実の信楽まことに獲ること難し。 なにをもつてのゆゑに、 いまし如来の加威力によるがゆゑなり、 博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。 たまたま浄信を獲ば、 この心顛倒せず、 この心虚偽ならず。
とあり、 本書で獲信の根拠となっていた 「如来の加威力による」 「大悲広慧の力による」 の二句が、 難信の理由として挙げられていることから、 本書の原文を、しかるに薄地の凡夫、 底下の群生、 浄信獲がたく、 極果証しがたし。 なにをもつてのゆゑに、 往相の回向によらざるがゆゑに、 疑網に纏縛せらるるによるがゆゑに、-いまし如来の加威力によるがゆゑに、 博く大悲広慧の力によるがゆゑに。/清浄真実の信心を獲ば、 この心顛倒せず、 この心虚偽ならず。
と読むべきであるとする解釈がある。 この場合、 「往相の回向によらざる」 「疑網に纏縛せらるる」 「如来の加威力による」 「大悲広慧の力による」 の四句のすべてが、 他力に依らず自力にとらわれた