993上宮太子御記

しゃしょうがくなりたまひ​しより、 はんに​いり​たまふ​よ​に​いたる​まで、 とき​たまへる​ところ​の​もろもろ​の​みのり、 ひとつ​も​まこと​に​あらざる​こと​なし。 はじめにはごんときさつさとら​しめ​たまふ。 の​いで​て、 まづこうを​てらす​が​ごとし。 つぎに​ごんを​のべ​てしょうもんに​しら​しむ、 たかく​してようやく深谷じんこくを​てらす​が​ごとし。 また所所しょしょに​して方等ほうどう種種しゅじゅきょうを​あらわす​なり。 ぶつ一音いっとんときたまふ​と​いへども、 しゅじょうは​しなじな​にしたがひさとりを​うる​こと、 いちあめびょうどうに​そゝぐ​と​いへども、 草木そうもくだいしょうに​したがふ​て、 うくる​ところ​おなじから​ざる​が​ごとく​なり。 いちじゅうろくなか般若はんにゃくうの​さとり​をおしうを、 じゅうねんの​のち​にほっみょうどうを​ひらき​たまへ​り。 わしみねに​して​また​おもひ​あらわれ、 つるはやしに​してこえたゑ​たまひ​し​より、 しょうことばかねつたえなんかぎの​あな​より​いˆれˇて、 つゐに​えらび千人せんにんかんを​とゞめ​て、 みな​しるし​をけ​る一代いちだいおしえなり。

それ​より​のち、 じゅうにんひじりうけつたえ、 じゅうろく大国たいこくおうひろめまもり​たまへ​り​き。 しゃくそんめっし​たまへ​どもきょうぼうは​すでに​とまり、 くすり0994とゞめ​てくすに​わかれ​たる​に​おなじ。 たれ煩悩ぼんのうやまいを​のぞか​ざら​む。 たまを​かけ​てしんの​さる​に​に​たり。 つぎ​にみょうよいを​さます​べし。

そもそも天竺てんじくぶつの​あらわれ​てほうときたまふさかい震旦しんたんほうつたわり​て​ひろまるくになり。 ふたところ​を​きく​に、 仏法ぶっぽうようやくあわて​たる​ところ​なり。 震旦しんたんじょうげん三年さんねんげんじょう三蔵さんぞう天竺てんじくぎょうりんとき鶏足けいそくさんの​ふるき​みち、 たけしげり​てひとも​かよわ​ず、 どくおんむかしにわには、 むろうせ​てそうも​すま​ざり​けり。 摩訶まかこくに​ゆき​てだいじゅいんを​みれ​ば、 むかし国王こくおう観音かんのんぞうつくれ​る​あり。 は​みなそこいりて、 かたよりうえわづかにいでたる​なり。 仏法ぶっぽうめっし​をわら​む​とき​に、 このぞういり​はつ​べし​と​のたまひ​けり。 また震旦しんたんにもしょうにんおほくみちさかり​なれども、 しばしばみだるゝときあり。 こうしゅうの​すゑ​のだいに、 おおいかぜを​あふぎ、 まさほうともしびめっせ​しか​ば、 ぜんかなしみしか​ば、 うらみて​もて、 いのちを​すつ。 おんほっみちを​おしみ​し​は、 おうたいし​てつみろんぜ​し​なり。 開皇かいおうのころにかさねて​もてひろめき、 たいぎょうだいに​また​もておとろへ​しか​ば、 おになきかみなげくやまなりうみさわぐ。 またかいしょうたいおほくきょうろんを​やき​しか​ば、 みやうちぎょう、 かうべ​をたれて​もて​なげき、 もんまえ代官だいかんは、 なみだ​をながし​て​もてかなしみし​なり。 かのじょうがんより已来このかたさんびゃくろくじゅうねんを​へだて​つれ​ば、 天竺てんじくおもいかたどる観音かんのんぞういま​は​いり​をわり​ぬ​らむ。 かいしょうより以後いごいっぴゃくじゅうねんに​をよび​ぬれ​ば、 大唐だいとうおし0995はかる法門ほうもんかずすくなくなりぬ​らむ​と。

あな​たうと仏法ぶっぽうひがしながれて​さかりに我国わがくにとどまれ​り。 あとを​たれ​たるひじりむかしおほく​あらわれ​て、 みちひろめたまふきみこんちょうに​あひ​つぎ​たまへ​る​なり。 十方じっぽうかいに​あひ​がたく、 りょうこうに​きゝ​がたきだいじょうきょうてんを、 こゝに​して​おおくきゝみる​こと、 これ​おぼろげのえんに​あらず。 のち御音ぎょいんは​どくの​つゞみ​の​ごとし、 一度ひとたびきく​にみょうの​あだ​を​ころす​が​ごとし。 きょうの​みな​はくすりに​おなじ、 わずかに​あたる​にりんやまいを​たすく。 の​ゆへに​すゝむる​に​ねむごろなるこころざしは、 かわを​はぎ​てだいじょう文典もんでんを​うつす​べし​と。 これ​をうやまうこゝろ​は、 くちの​いき​をもてきょうかんちりを​のか​ざれ​と​しめさ​しめ​たまへ​る​なり。 それ雪山せっせんどうはんもとめいのちを​すて、 さいしょう仙人せんにんいちを​ねがひ​てはしし​なり。 じょうたいひがしを​こひ、 善財ぜんざいみなみもとめ、 薬王やくおうひじを​ともし、 みょうこうべを​すて​む​と​しき。 たとい一日いちにちたび恒沙ごうじゃの​かず​のを​すつ​とも、 なお仏法ぶっぽういっおんをもほうずる​こと​あたは​ず。 むかしゆかしたに​してほうききいぬは、 しゃこくに​むまれ​てひじりと​なり、 はやしなかに​してきょうを​きゝしとりは、 とうてんに​むまれ​て​たのしみ​を​うけ​き。 ちょうじゅう如↠是かくのごとし、 いわむやひとつつしみて​もてきかんをや。 嗟呼ああめつのち像法ぞうぼうの​ころ​に​いたり​て、 震旦しんたんに​はじめてかん明帝めいていときはじめ天竺てんじくよりつたえ我国わがくにには​おそく欽明きんめい天皇てんのう百済くだらよりきたれり​し​なり。 われいま​たなごゝろ​を​あはせ​てほうたえ0996ること​を​あらはす​なり。

むかしじょうぐうたいいうひじり御坐ましましき。 用明ようめい天皇てんのうの​はじめて親王しんのうなりときに、 あな太部たべはしひと皇女ひめみこはら​よりたんじょうし​たまへ​るおうなり。 はじめははにんゆめに、 金色こんじきなるそうあり​てのたまはくわれたすくる​ねがひ​あり、 しばらくはら​に宿やどら​む​と。 われ救世くせさつなり、 いえ西方さいほうに​あり​と​いひ​て、 くちなかに​おどり​いる​と​み​て、 懐妊かいにんし​たまへるたいなり。 たいおん伯父おじだつ天皇てんのうの、 てんし​たまふはじめの​とし​のしょうがつ一日ついたちに、 にんみやうちを​めぐり​て、 むまや​の​もと​に​いたる​ほど​に、 おぼえず​してうまれたまへ​る​なり。 おもとびといそぎ​て寝殿しんでんに​いたる​ほど​に、 にわかに​あかき​ひかり西にしよりきたりて​いる。 おんは​はなはだ​かうばし。 よつき​ののちよく​もの​のたまふ。 あくるとしがつじゅうにちあさよりみづからたなごゝろ​を​あはせ​て、 ひがしむかい南无なもぶつと​まふし​ておがみたまふ。

たい六歳ろくさいなる​に、 百済くだらこくよりはじめほうあまきょうろんを​もてきたれ​り。 たいそうし​たまふ。 わたれ​るきょうろんみんと、 こうを​たき​て​ひらき​みる​こと​おはり​て、 また​そうし​たまふ。 つきごとの八日はちにちじゅうにちじゅうにち廿にじゅう三日さんにち廿にじゅうにちさんじゅうにち、 これ​を六斎ろくさいと​す。 この梵王ぼんのうたいしゃくくにの​まつりごと​をる。 ものゝいのち​を​ころす​こと​を​とゞむ​べし​と。 帝皇ていおうよろこび​たまひ​て、 てんみことのりを​くだし​たまひ​て、 この日日にちにちには​もの​を​ころす​こと​を​とゞめ​たまふ0997八年はちねんふゆ新羅しらぎこくより仏像ぶつぞうを​たてまつれ​り。 たいそうし​たまふ。 西国さいごくひじりしゃ牟尼むにぶつぞうなり​と。 新羅しらぎこくよりにちいうひときたれ​り。 たいひそかに​いやしきころもを​き​て、 もろもろ​のわらわに​まじわり​て、 なんやかたに​いたり​て​これ​を​み​たまふ​に、 にちたいを​さし​て​あやしぶ。 たいおどろき​て​もて​さる。 にちに​ひざまづき​て、 たなごゝろ​を​あはせ​ていわく、 きょうらい救世くせかんおん伝灯でんとう東方とうぼう粟散ぞくさんおうじゅう西方さいほうらいたんじょうかいえんみょうほうしゅじょうと​まふす​ほど​に、 にちおほきにひかりを​はなつ。 たいまたけんよりひかりを​はなち​たまふ。

また百済くだらよりろくいしぞうを​もて​わたせ​り。 大臣おおおみ蘇我そがうま宿すく、 このぞうを​うけ​たり。 いえひがしてらつくりて、 あんし​たてまつり​てぎょうし​たてまつる。 あま三人みたりを​すえ​てようせる​なり。 大臣おおおみこのてらとうをたつ。 たいのたまはく、 とうは​これぶっしゃの​うつわもの​なり、 しゃ如来にょらいおんしゃねんに​いで​きたり​なむ​と。 大臣おおおみこれ​を​きゝて​おりに、 斎食さいじきいいの​うえ​にぶっしゃ一粒ひとつぶを​え​たり。 瑠璃るりの​つぼ​に​いれ​て、 とうに​おき​て​おがむ。 たい大臣おおおみこころを​ひとつ​に​して三宝さんぼうひろむ。 このときくにうちやまいおこり​て、 するひとおほく​あり。

おおむらじ物部もののべ弓削ゆげもり中臣なかとみかつと​ともにそうし​て​まふさく、 我国わがくにには​もとよりかみを​のみ​たふとみ​あがむ。 しかるに蘇我そが大臣おおおみ仏法ぶっぽういうもの​をおこし​て​おこなふ。 これ​に​より​てやまいに​おこり​て0998人民おおみたからみな​たえ​ぬ​べし。 これ​は仏法ぶっぽうを​とゞめ​て​なん、 ひと​のいのちは​のがる​べき​と​そうす。 帝皇ていおうちょくし​て​のたまはく、 まふす​ところ​あきらけ​し、 はやく仏法ぶっぽうを​たて​とせんあり。

たいそうし​たまふ、 ふたりひとは​いまだいんの​ことわり​を不知しらざるなり。 よき​こと​を​おこなえ​ば​さいわい​いたる、 あしき​こと​を​おこなえ​ば​わざわいきたる。 このふたり​いま​かならず​わざわい​に​あい​なむ​とそうし​たまふ。 しかれどもせんあり​て、 もりおおむらじてらに​つかわし​て、 堂塔どうとうやぶぶっきょうを​やく。 やけのこれ​るぶつをば、 なんの​ほりえ​に​すて​つ。 三人みたりあまをば​せめ​うち​て​おい​いだす。 このくもなくて大風おおかぜふき、 あめくだる。 たい、 わざわい​は​いま​おこり​ぬ​と​のたまふ。

こののちかさやまいに​おこり​て、 やみ​いたむ​こと​やき​さく​が​ごとし。 ふたり​の大臣おおおみことに​おもき​とが​を​くひ​て、 そうし​て​まふす、 おみやみくるしみ​いたむ​こと​たえ​がたし、 ねがはくは三宝さんぼうに​いのり​たてまつらむ​と。 またちょくあり​て、 三人みたりあまを​めし​て二人ふたり大臣おおおみを​いのら​しむ。 また堂塔どうとうたえ​うせ​に​し、 仏法ぶっぽうあらためしむる​なり。 これ​より​またこうず。

たい御父おんちち用明ようめい天皇てんのうくらいに​つき​たまひ​ぬ。 ねんあり​て​のたまはく、 われ三宝さんぼう帰依きえし​なむ​とおもう蘇我そが大臣おおおみおほせごと​に​したがは​む​とそうし、 ほうを​めし​てだいに​いれ​し​なり。 たいよろこび​て大臣おおおみを​とり​て、 なみだ​を​ながし​て​のたまはく、 三宝さんぼうの​たえ​なる​こと​を0999ひといまだ​しら​ぬ​に、 大臣おおおみこころを​よせ​たり、 うれしく​も​ある​かな​と​のたまふ。 あるひとひそかにもりおおむらじに​つげ​て​いはく、 人々ひとびとはかりごと​を​なし​て、 ひょうを​まふけ​よ、 あひ​たすく​べし​と​いへ​り。 もりおおむらじまたすめらじゅし​たてまつる​と​いふ​こと​きこえ​なれ​り​となり。 蘇我そがおおむらじいはくたい武士もののふを​ひきゐ​てもりおおむらじおへと。 もりまたひょうを​おこし​てしろを​つき​ふせぐ。 おんいくさ、 そのいくさこはく​さかりなり。 かたのひょうおそり​おのゝき​てたびしりぞき​かへる。 この​とき​にたい御年おんとしじゅうろくなり。 しょうぐんの​うしろ​に​たち​て、 いくさつとめごと​を​しめす。

またはたの川勝かわかつ白膠木ぬるでをもて天王てんのうぞうを​きざみ​つくら​せ​て、 もて​もとゞり​の​うえ​に​さし、 ほこ​の​さき​に​さゝげ​てがんを​おこし​て​いはく、 われをしていくさに​かた​しめ​たまへ、 しからば、 天王てんのうぞうを​あらはしとうを​たて​ん​と​いへ​り。 大臣おおおみも​また如是かくのごとくがんじ​てたたかふ。 物部もののべもりおおむらじおおいなる​いちゐ​のに​のぼり​て、 物部もののべうじだいみょうじんを​いのり​ちかひ​てを​はなつ。 たいおんあぶみ​に​あたれ​り。 たいまた舎人とねりあと赤槫あかまるに​おほせ​て、 天王てんのうに​いのり​てを​はなた​しむ。 とおくもりむらじが​むね​に​あたり​て​さかさま​により​おち​ぬ。 そのいくさみだれやぶれ​ぬ。 せめ​ゆき​てもりが​かうべ​を​きり​つ。 いえうちざいしょうえんおば​みなてらの​もの​と​なし​て、 たまつくりきしうえはじめ天王てんのうを​たつ。 これ​より仏法ぶっぽういよいよさかりなり1000

たいおん伯父おじしゅうとしゅんこうに​つき​たまひ​ぬ。 このぎょたいじゅうさいにてかんむりしたまふ。 またたい伯母おばすい天皇てんのうくらいに​つき​たまへ​り。 くにの​まつりごと​を​みなたいに​まかせ​たまふ。 百済くだらこく使つかいにて阿佐あさといふおうきたれ​り。 たいおがみいはくきょうらい救世くせだいかんおんさつ妙教みょうきょうずう東方とうぼう日本にっぽんこくじゅうさい伝灯でんとう演説えんぜつと​まふす。 たいけんよりびゃっこうを​はなち​たまふ。

たい甲斐かいくにより​たてまつれ​る黒駒くろこまあしよつしろきじょうじ​て、 くもいりひがしに​さり​ぬ。 調じょう麿まろうまみぎに​そえ​り。 人々ひとびとあふぎ​て​みる。 信濃しなのくにに​いたり​て、 みこし​のさかいを​めぐり​て、 三日みっかを​へ​てかえりたまへ​り。

たいすい天皇てんのうぜんに​して、 こうに​のぼり​て ¬しょうまんぎょう¼ をこうじ​たまふ。 もろもろ​の名僧めいそうをしてを​とは​しむる​に、 ときに​こたふる​ことたえなり。 三日みっかこうじ​おわるよるそらよりれんふれ​り。 はなひろささんしゃくさんじょうに​ふり​つもれ​り、 すんばかり​なり。 あくるあさかだみ​たまふ​て、 そのてらたて、 いま​のたちばなでらなり。 ふれ​るはないまこのてらに​あり。

またたい小野おのいもちょく使と​して、 さき​のこうしゅう衡山こうざんに​あり​し​とき、 たもち​たり​し​ところ​のきょうを​おしえ​て​とり​に​つかわす。 おしえ​て​のたまはく、 赤県せきけんみなみ衡山こうざんあり、 山内さんない般若はんにゃあり。 むかし同法どうほうは​みな​すでにし​おはり​に​けむ、 たゞ三人みたりぞ​あら​む。 われ1001使つかいと​なのり​て、 そこ​にじゅうせ​しときたもて​り​しふく一巻いっかんの ¬法華ほけきょう¼ を、 こひ​て​もてきたれ​と​のたまふ。 いもわたり​ゆき​て、 おしえ​に​したがひ​て​もて​いたり​ぬ。 もんひとりしゃあり​て、 これ​を​み​て​すなわちいりいわく、 ぜん使つかいきたれ​り​とつぐしわ​おひ​たるそう三人みたりつゑ​を​つい​ていで、 よろこび​ゑみ​て使つかいに​おしえ​てきょうを​とら​しめ​つ。 すなわちたもちきたれ​り。

たいいかるが​のみや寝殿しんでんの​かたはら​にしゃを​つくり​て夢殿ゆめどのと​なづく。 つきたび沐浴もくよくしていりたまふ。 あくるあさいでえんだいの​こと​を​かたり​たまふ。 また​このなかいりしょきょうしょせいしたまふ。 あるいは七日しちにちしちいでたまは​ず。 を​とぢ​て​おと​も​し​たまは​ず。 高麗こうらい恵慈えじほういわく、 たい三昧さんまいじょういりたまへ​り、 おどろかし​たてまつる​こと​なかれ​と。 八日はちにちといふあさいでたまへ​り。 たままくらうえに​ひとまき​のきょうあり。

恵慈えじほうを​めし​てかたりて​のたまはく、 われ先身さきのみ衡山こうざんに​あり​しとき、 たもて​り​しきょうは​これ​なり。 すぎに​しとしいもが​もてきたりし​は、 わが弟子でしきょうなり。 三人みたり老僧ろうそうわれおさめ​し​ところ​を不知しらずして、 きょうを​おくれ​り​し​なり。 よて​わが​たましゐ​を​つかわし​て​とら​しむ​と​のたまふ。 さき​のきょうは​み​あわする​に、 これ​には​なきもんひとつ​あり。 この​たび​のきょうは​ひとまき​に​かけ​り。 なる​かみ​にてたまじくなり。 また百済くだらこくよりそう道忻どうきんじゅうにんきたりて​つかふ​まつる。 さき​の衡山こうざんにして ¬法華ほけきょう¼ をときときわれら​は1002がくどうとして​ときどき​まいり​てきく人々ひとびとなり​と​まふす。 のちとし小野おのいも、 また大唐だいとうに​わたれ​り​し​なり。 衡山こうざんに​ゆき​たれば、 さき​のそうひとり​のこり​て、 かたり​て​いはく、 すぎたるとしあきなんじが​くに​のたい、 もと​はぜんせいりゅうくるまに​のり​て、 ひゃくにんを​したがへ​て、 東方とうぼうよりそらを​ふみ​て​きたり​て、 ふるき​むろ​のうちを​さぐり​て、 一巻いっかんきょうを​とり​て、 くもを​しのび​て​さり​し​なり​といふ。 あきらかに​しり​ぬ、 この夢殿ゆめどのいりたまひ​し​ほど​の​こと​なり​けり​と。

たいおんこうかしわうじかたわらにそうろうたいかたりて​のたまはく、 きみわがこゝろ​の​ごとし、 ひとつ​の​こと​も​たがは​ず。 さいわいなり。 われしになむあなを​おなじく​して、 ともに​うづむ​べし​と​なり。 きさきこたえ​て​まふす、 せんしゅう万歳ばんぜいあした​ゆふべ​に​つかえ​む​と​おもふ。 いかなる​こゝろ​あり​て​か、 今日こんにちおはら​む​こと​をば​のたまふ​や​と。 たいこたえ​て​いはく、 はじめあれおわりあり、 きみさだまれ​ることわりなり。 一度ひとたびうまれひとたびしぬる​は、 ひとの​つね​のみちなり。 われむかししんを​かへ​て仏道ぶつどうを​おこなひ​つとめ​き。 わづかにしょうこくたいとして、 たえなる流布るふし、 ほうなき​ところ​にいちじょうを​とき​つ。 じょくあくひさしあそばんと​おもは​ず​と​のたまふ。

きさきなみだながし​て、 もて​これ​を​うけたまはる。 たいなんよりみやこに​かへり​たまふ、 片岳かたおかやまみちほとりうえたるひとせ​り。 のり​たまへ​る黒駒くろこまあゆま​ず​してとどまる。 たいうまより​おり1003て​かたらひ​たまふ。 むらさきうえころもを​ぬぎ​て、 おほゐ​たまふ。 すなわちうたえいじ​て​のたまはく、

志奈しな天留てる 片丘かたおかやま 伊悲いひ于恵うゑ ふせる多比たひひと 阿波礼あわれ於夜おや奈志なし 奈礼なれ奈利なり計如けめ 左須さす多爾たに 木見きみ波那はな幾木きき 伊比いひ于恵うゑ ふせ旅人たひひと 阿波礼あわれ

と。 うえたるひとかしらを​もちあげ​て、 おんかえりごとを​たてまつる。

伊賀留我いかるか かわ 多江波たえは古曽こそ わが大君おほきみ 御名みな和春わす礼妻れめ

たいみやに​かへり​たまひ​て​の​のち、 このひとに​けり。 たいかなしみ​たまひ​て、 そうせ​しめ​たまふ。 大臣おおおみこの​こと​を​そしる人々ひとびと七人しちにんあり。 めし​てたいのたまふ。 片丘かたおかに​ゆき​て​みよ​と​のたまへ​ば、 ゆきて​みる​に​その​かばね​なし、 ひつぎ​の​うち​はなはだ​かうばし。 みな​おどろき​あやしむ。

たいいかるが​のみやに​ましまし​て、 きさきかたりたまひ​て、 沐浴もくよくこうべを​あらは​せ、 じょうを​きせ​しめ​たまふ​て、 われ今夜こよいともにさらんと​のべ​たまひ、 ゆかを​ならべ​てふせたまひ​ぬ。 あくるあさに、 ひさしくおき​たまは​ず、 人々ひとびと大殿おおどのを​ひらひ​て​みる​に、 ともに​かくれ​たまひ​に​けり。 かおわ​もと​の​ごとし。 おんかおりことにかうばし。 御歳おんとしじゅうさいなり。 おはり​たまふ黒駒くろこまいなゝき​よばひ​て、 くさ・みずを​くわ​ず、 輿こしに​したがひ​て​みさゝぎ​に​いたる。 一度ひとたびいなゝき​て​たうれぬ。 その​かばね1004を​も​うづも。

たいかくれ​たまひ​しかの衡山こうざんより​もて​わたり​たまへ​り​しきょうは、 にわかに​うせ​ぬ。 いまてらに​ある、 いもが​もて​きたれ​り​しきょうなり。 新羅しらぎより​きたれ​り​ししゃぶつぞうは、 いまに​やましなでらひがしどうに​あり。 百済くだらより​たてまつれ​り​しいしろくぞうは、 いま​ふるきみやこ元興がんごうひがしどうにあり。 たい天王てんのうほうりゅう元興がんごうちゅうぐうたちばなでら蜂丘はちおかでら池後いけじりでらかずら日向ひゅうがつくりたまへり。

たいみつ御名みなあり。 ひとつには、 うまや豊聡とよさとみみおうと​まふす。 王宮おうぐううまやの​もと​にてうまれたまへ​り。 じゅうにん一度ひとたびに​うれえ​を​まふす​こと​を​よく​きゝて、 ひとこと​をも​もらさ​ず​して​ことわり​たまふ​によりて​まふす​ところ​なり。 また、 しょうとくたいと​まふす。 うまれ​たまひ​て​のおんありさま、 みなそうに​に​たまえ​り。 ¬しょうまんぎょう¼・¬法華ほけきょう¼ とうきょうしょつくりのりを​ひろめ、 ひとを​わたし​たまふ​によりてしょうとくと​まふす​なり。 また、 じょうぐうたいと​まふす。 すい天皇てんのうぎょに、 たい皇宮こうぐうみなみに​すま​しめ​て、 くにの​まつりごと​を​まかせ​たまふ​によりて​なり。

¬ほん¼、 へいせん ¬しょうとくたいでん¼、 ¬じょうぐう¼、 諾楽ならきょうやく沙門しゃもん景戒けいかいせん ¬日本にっぽんこく現報げんぽう善悪ぜんあく異記いき¼ とうみえたる​なり。 ¬ほん三宝さんぼう感通かんつうしゅう¼ かん第一だいいちいわく天王てんのう手印しゅいんえんいわく宝塔ほうとういっしんばしらなかぶっしゃ毛髪もうはつこめたまへり​と。 また金堂こんどうなかしゃ1005じゅうさんつぶを​おさめ​いれ​たまへ​り​と。 しゅん天皇てんのう元年がんねん百済くだらこくよりぶっしゃを​たてまつり、 ¬ほん¼ に​いたり​て霊験れいげんを​あかさ​ず​と。 たいびょうちゅうもんしゅつげんこと

冷泉れいぜいいんそくだいじゅうねんなり、 てんねんさい きのえのうま そうちゅうぜん宝塔ほうとうてんがために、 をもつてけずり、 しかるあいだちゅうひとつの銅函どうかんいだしぬ。 そのふためいにいはく、 「今年こんねんさい かのとの 河内かわちのくに石川いしかわこおり磯長いそながさとひとつのしょうにて、 もつともしょうるゆゑしょてんじおはりぬ。 われにゅうめつ以後いごひゃくさんじゅうさいおよびて、 このもんしゅつげんするかな。 そのとき国王こくおう大臣だいじんとうほっし、 仏法ぶっぽうがんすならくのみ」 と。

後冷泉院即位第十年也、 天喜二年歳次 甲午 僧忠禅為起宝塔、 削手于地、 而間地中掘出一銅函。 其蓋銘曰、 今年歳次 辛巳 河内国石川郡磯長里、 于一勝地、 尤足称美故点墓所已了。 吾入滅以後及于四百参拾余歳、 此記文出現哉。 爾時国王大臣、 発起寺塔、 願求仏法耳。

内銘ないめいにいはく、 「われしょうのために、 かの衡山こうざんよりこの日域じちいきりて、 もり邪見じゃけん降伏ごうぶくし、 つひに仏法ぶっぽうとくあらわす。 処々しょしょにおいてじゅうろっらんぞうりゅうして、 一千いっせんさんびゃくさいそう化度けどし、 ¬ほっ¼・¬しょうまん¼・¬ゆい¼ とうだいじょうしょせいす。 断悪だんあく修善しゅぜんみち、 やうやくもつて満足まんぞくす。

内銘曰、 吾為利生、 彼衡山入此日域、 降伏守屋之邪見、 終顕仏法之威徳。 於処処造立四十六箇之伽藍、 化度一千三百余歳之僧尼、 製記 ¬法華¼・¬勝鬘¼・¬維摩¼ 等大乗義疏。 断悪修善之道、 漸以満足矣。

¬もんしょうでん¼にいはく、

¬文松子伝¼云、

だいだいじょうほん誓願ぜいがんじょういっのごとく愍念みんねんす。 このゆゑに方便ほうべんして西方さいほうより片州へんしゅうたんじょうしてしょうぼうおこす。

大慈大乗本誓願 愍念有情如一子
是故方便従西方 誕生片州興正法

わが救世くせかんおんなり。 じょう契女けいにょだいせいなり。 わがしょういくせるだい悲母ひも西方さいほうきょうしゅ弥陀みだそんなり。

我身救世観世音 定慧契女大勢至
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊

真如しんにょ真実しんじつもとより一体いったいなり。 一体いったいよりさんげんずるも同一どういつしんなり。 片城へんいきえんまたすでにきぬれば、 かえりて西方さいほうにわがじょうおこす。

真如真実本一体 一体現三同一身
片城化縁亦已尽 還起西方我浄土

まっしょじょうせんがために、 父母ぶもしょしょう血肉けつにくしんしょうにこのびょうくつりゅうす。 三骨さんこついちびょう三尊さんぞんくらいなり。

1006為度末世諸有情 父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位

過去かこ七仏しちぶつ法輪ほうりんところだいじょう相応そうおうどくなり。 ひとたび参詣さんけいすれば悪趣あくしゅはなれ、 けつじょうして極楽ごくらくかいおうじょうせん。

過去七仏法輪処 大乗相応功徳也
一度参詣離悪趣 決定往生極楽界

いんにてはしょうまんにんごうす。 晨旦しんたんでは恵思えしぜんしょうす。

  印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師

もんぜん恵慈えじほったい御時おんときしゅなり、 ぜんおんなり。

恵文禅師・恵慈法師、 たい御時師主也、 思禅師御師也。

仏法ぶっぽう振旦しんたん日域じちいき伝来でんらいして三節さんせつあり、 いはゆるしょう像末ぞうまつなり。 しょうぼう千年せんねんあいだ天竺てんじく流布るふす。 像法ぞうぼうだいじゅう三年さんねんかん明帝めいていときちゅう天竺てんじくとうじく法蘭ほうらん二人ふたりしょうにんぶっきょうびゃくひてきたる。 振旦しんたんかん明帝めいていみやこ西にしはくにてはじめて仏法ぶっぽうおこす。 のちひゃくはちじゅうねんて、 だい日本にっぽんこくだいさんじゅうしゅ欽明きんめい天皇てんのう百済くだらこく聖明せいめいおう仏像ぶつぞうきょうかんとうをわがちょうおうけんず、 像法ぞうぼうりてひゃくさいなり。

仏法伝来振旦・日域有三節、 所謂正像末也。 正法千年之間天竺流布。 像法第十三年漢明帝代時、 中天竺摩騰迦・竺法蘭二人聖人、 仏教負白馬来。 振旦漢明帝、 都西白馬寺始興仏法。 後経四百八十余年、 大日本国第三十主欽明天皇代、 百済国聖明王、 仏像・経巻等献我朝王、 入像法五百歳也。

*正嘉元歳 丁巳 五月十一日書写之

愚禿親鸞 八十五歳

以彼真筆草本

*弘安六年八月三日

釈寂忍 二十五歳

*徳治第二暦孟冬六日天、 於造岡道場、 拝見此書、於和田宿坊、 書写之了。

釈覚如

豫依目所労更発、 右筆参差、 仍雇他筆雖終功、 至于奥又故書止之而已。

 

底本は本派本願寺蔵徳治二年覚如上人書写本 (ルビは有国)。