0553大日本国粟散王聖徳太子奉讃

(1)

和国の教主聖徳皇

広大恩徳謝しがたし

一心に帰命したてまつり

奉讃不退ならしめよ

ホメタテマツルコトシリゾカザレトナリ

(2)

上宮皇子方便し

和国の有情をあわれみて

如来の悲願を弘宣せり

慶喜奉讃せしむべし

ヨロコビホメタテマツレトナリ

(3)

帰命尊重聖徳皇

用明天皇の親王のとき

穴太部の皇女の

御はらよりぞ誕生せる

(4)

皇女の御夢にみたまひき

金色の聖僧あらわれて

われよをすくうねがひあり

しばらく御はらにやどるべし

(5)

われこれ救世菩薩なり

いゑ西方にありとしめしてぞ

おどりて御くちにいりたまふ

はらまれいます菩薩也

(6)

敏達天皇あめのした

おさめまします元年の

ハジメノトシトイフナリ

正月一日に夫人の

みやのうちおぞ御遊せし

(7)554

御厩のほとりにいたるほど

おぼえずしてぞ誕生せし

女孺いだいてすみやかに

寝殿にいりたまひけり

(8)

金色のひかり西方より

きたりいりてぞてらしける

御身ははなはだかうばしく

ひかずをふるにもひほひけり

(9)

太子誕生ありしより

よつきののちにめづらしく

よくものがたりしたまひて

みだりになきさけびましまさず

(10)

太子の御とし二歳の

二月十五日のあしたにぞ

ひむがしにむかひて合掌し

タナゴヽロヲアワセテオガミタマフ

南无仏と再拝す

フタヽビオガミ給フ

(11)

太子六歳の御ときに

百済国より法師・尼アマ

経論わたりきたりしに

皇に奏したまひけり

(12)

六斎日をおしへしむ

この日は梵王・帝釈の

くにのまつりごとをみたまふに

ものゝいのちをころさざれ

(13)555

みかどよろこびましまして

勅宣くにゝくだされて

この日日にはことさらに

ものゝいのちをたすくべし

(14)

新羅国より仏像を

たてまつれりきその時に

太子奏したまひけり

西国のひじり釈迦牟尼仏

(15)

日羅上人新羅より

難波の館にぞきたれりし

これをあやしみきこしめし

太子ひそかにみそなわす

(16)

そのとき日羅ひざまづき

たなごゝろをあわせてぞ

敬礼救世観音大菩薩

伝灯東方粟散王と礼せしむ

(17)

日羅おほきにそのみより

しろきひかりをはなちけり

太子そのとき眉間の

オムマユノアヒダヨリノヒカリナリ

ひかりをはなちたまひけり

(18)

百済国より弥勒の

石の像をぞわたされき

蘇我の馬子の宿弥は

この像をうけとりたてまつる

(19)556

いゑのひむがしにてらをたつ

尼三人をすゑやしなひき

アマ

大臣塔をつくれりき

太子ことに令旨あり

(20)

塔は仏舎利のうつわもの

釈迦仏の御舎利ぞ

はからずにもおのづから

いできたりますことあらむ

(21)

そのとき斎飯のうえにして

 イチノウヘ

仏舎利一粒えたりけり

瑠璃のつぼにいれたまひ

塔に安置し礼しける

(22)

太子・大臣ひとつにて

三宝をひろめましましき

このときくにのうちにして

やまうおこりて人しにき

(23)

弓削の守屋と中臣の

勝海のむらじもろともに

皇に奏してまふさしむ

このくにもとより神をあがむ

(24)

馬子の大臣仏法を

おこしおこなふこのゆへに

やまふもおこりたみもしぬ

人のいのちはとゞまらじ

(25)557

帝皇御ことにのたまはく

まふすところはあきらけし

仏法をはやくとゞめよと

勅宣くにゝくだされき

(26)

太子奏せしめましましき

ふたりの人はもろともに

因果のことわりしらぬなり

わざわいさだめてみにあらむ

(27)

よきことことにおこなへば

さいわいきたるとおもふべし

あしきことをおこなへば

わざわいことにきたるなり

(28)

ふたりの人はいまさらに

わざわいにあはむと奏せしむ

守屋の連寺をやぶる

仏経・堂塔ほろぼしき

(29)

やけのこれりし仏像は

難波のほりえにすていれき

三人のをばせめうちて

おいいださしむときこへたり

(30)

その日そらにはくもなくて

おほきにかぜふきあめふりき

太子かさねて令旨あり

太子のオホセゴトナリ

わざわいいまにおこりぬと

(31)558

すなはちかさのやまうおこれりき

やみいたむことやきさくがごとくなり

ふたりの大臣もろともに

おほきにとがをかなしみき

(32)

帝王ゑことを奏せしむ

このやまうのくるしみいたむこと

たえしのぶべきかたもなし

ねがはくは三宝にいのらむと

(33)

そのとき勅宣くだされて

三人の尼をめしてこそ

二人の大臣にたまはせて

いのらしめたまひしか

(34)

そののち寺を建立し

仏法これより興ぜしむ

オコシタテントテ

やまふもとゞまりしづまりて

人民わづらひなかりけり

(35)

太子の御ちゝ用明皇

くらゐにつきて二年に

朕も三宝に帰依せむと

勅宣ありとぞきこへたる

(36)

馬子の大臣勅宣に

したがはむと奏してぞ

法師をめして内裏に

いれはじめたまひける

(37)559

太子よろこびましまして

大臣のをとりてこそ

なみだをながしてのたまはく

三宝のたえなるを人しらず

(38)

大臣こゝろをよせしめて

うれしくもあるかなと令旨あり

こののちある人ひそかにて

守屋の連につげしめき

(39)

ひとびとはかりごとをなしてこそ

群兵をまうけよといひければ

これをきゝて阿部のいゑに

こもりて兵士をもとめけり

(40)

中臣の勝海の連もろともに

兵士をおこして守屋を

相たすけんとかまへつゝ

天皇をじゆしたてまつる

(41)

蘇我の大臣はからひて

儲君に奏聞せしめてぞ

トウグノクラヰナリ

守屋をうたむとさだめしに

御かたの軍衆むらがりて

(42)

守屋の連ことさらに

つわものをおこして城をつき

群兵こわくさかりにて

御かたのいくささわがしく

(43)560

おぢおのゝきてみたびまで

しりぞきかへりしそのときに

令旨をことにくだされて

軍兵こわくさかりなり

(44)

はたの川勝に命じてぞ

白膠木をとらしめて

ヌルデノキナリ

四王の像をきざみつゝ

もとゞりにさしほこにさゝぐ

(45)

願をおこしてのたまはく

わがたゝかひをかたしめよ

四天王を造置して

寺塔をたてむと令旨あり

(46)

馬子の大臣願じつゝ

御かたのつわものたゝかふに

守屋の連さわがしく

いちゐの木にこそのぼりしか

(47)

物部の府都の大神の

 モリヤガウヂガミナリ

あらくはなてるやといひて

太子の御あぶみにあたりしに

おそれはさらにましまさず

(48)

舎人迹見の赤槫にぞ

かさねて勅命くだされて

四天王にいのりつゝ

箭をはなたしめたまへりき

(49)561

守屋がむねにあたりしに

木よりさかさまにおちにけり

御かたのつわものせめゆきて

守屋がかうべときりてけり

(50)

玉造の岸の上に

四天王寺をたてたまふ

仏法これよりさかりなり

王家もいよいよゆたか也

(51)

太子の御おぢそうシユ峻皇

この天皇の御宇には

太子の御とし十九歳

かぶりしたまふときこへたり

(52)

そのとき百済のつかひにて

阿佐王子きたれりき

太子をおがみてまふさしむ

敬礼救世大慈観音菩薩

(53)

妙教流通東方日本国

四十九歳伝灯演説と礼しけり

儲君そのとき眉間より

トウグノクラヰ

オムマユノアヒダヨリノヒカリナリ

タイシノツカサナリ

しろきひかりをはなたしむ

(54)

甲斐のくによりたてまつる

あしよつしろき黒駒に

してくもにぞいりたまふ

ノラセタマフナリ

東のかたへぞいましける

(55)562

調使麻呂ばかりこそ

御馬のみぎにはそえりしか

人人あふぎそらをみる

信濃の国にいたります

(56)

みこしの坂をめぐりてぞ

三日ありてかへります

日本国のありさまを

さわることなくみそなわす

(57)

推古天皇のみまえにて

¬勝鬘経¼ を講じましましき

三日講じおはりし夜

そらより蓮花ふりくだる

(58)

華のながさは二三尺

方三四丈の地にふりみてり

あくるあしたに蓮花を

御かどあやしみみたまひき

(59)

この地に寺をたてたまふ

橘寺とまふすなり

ふれりし華はこの寺に

いまにおさめおかれたり

(60)

小野妹子の大臣を

勅使としたまひてぞ

衡山におはしてたもてりし

¬法華経¼ をとりにつかわしき

(61)563

妹子におしえの令旨あり

赤県の南に衡山あり

般若寺といふ寺もあり

くわしくたづねていたるべし

(62)

むかしの同法しににけむ

いま三人ばかりあり

御経わたさむ勅使とて

使 かひぞとなのるべし

(63)

妹子勅命にしたがひて

般若寺にぞいたりける

門にひとりの沙弥ありて

みてすなわちいりにけり

(64)

しはおひたる僧三人

つゑをついてぞいできたる

思禅師の使とて

よろこびゑみておしえしむ

(65)

¬法華¼ 一部をひとまきに

あはせかゝれる御経を

勅使の妹子におしへしめ

とらせたりとぞ奏しける

(66)

いかるがの宮の寝殿の

かたわらにいゑをつくりてぞ

夢殿とぞなづけたる

日ごとにみたびおゆあみて

(67)

いりてあしたにいでたまひ

閻浮提のことをかたります

この内にいりてこそ

諸経の疏をばつくれり

(68)

七日七夜いでずして

戸をとぢ御こゑもしたまはず

高麗の恵慈まふさしむ

太子は三昧定にいらしめり

(69)

おどろかしますことなかれ

八日といふにいでたまひ

玉の枕のうえにこそ

ひとまきの経おはしませ

(70)

恵慈法師をめしてこそ

ことをかたりてのたまはく

吾衡山にありしとき

たもちし経はこれなりと

(71)

すぎにしとしに妹子が

もちてきたりしその経は

弟子たりし僧の持経なり

三人の老僧みなしらず

(72)

おもふあまりにひかれつゝ

わがたましひをつかはして

とりよせきたる経なりと

太子くわしく命じけり

(73)565

すぎにしとしの経をみて

いまこの経をあわすれば

なき文字ひとつありとみゆ

さきの経にはさらになし

(74)

いまこの所持の経巻は

きなるかみにてひとまきに

たまの軸にておわします

老僧しらでおしえたり

(75)

百済国よりきたれりし

道欣等の十人は

衡山にして ¬法華経¼ を

ときたまひしそのときに

(76)

われらは廬岳の道士とて

ときどきまいりしひとびとと

おのおのなのりまふしてぞ

太子の慈哀をあらわせる

(77)

妹子の大臣のちのとし

また衡州にわたされき

衡山にまたゆきたるに

老僧ひとりのこりてぞ

(78)

妹子にかたりおしえける

もとは思禅師とましましき

すぎぬるとしのあきのころ

なんぢがくにの太子は

(79)566

青龍の車にのりてこそ

五百人をしたがへて

東のかたよりそらをふみ

きたりいますとおしへしむ

(80)

むろのうちにいりてこそ

さしはさめる一巻の

御経をとりくもをしのぎ

さりにしとこそかたれりし

(81)

太子衡山にいりたまふ

そのときしりぬあきらかに

夢殿にいりましましゝ

ほどなりけりといふことを

(82)

上宮太子の后妃は

 キサキナリ

かしわでの氏の夫人也

御かたわらにさぶらふに

太子かたりてのたまはく

(83)

君わがこゝろのごとくにて

ひとつのこともたがはねば

まことにさいわいなりけりと

太子の御意にあひかなふ

オムコヽロニカナフナリ

(84)

われしになむその日には

おなじくあなにうづむべし

きさきこたへてまふさしむ

千秋万歳ふるまでも

(85)567

あしたゆふべにいたるまで

つかへまつらむとぞおもふ

いかなるこゝろいましてか

おわりのことをば令旨ある

(86)

太子こたへおはします

はじめあればおわりある

さだまれるよのことおりを

ゆめゆめおどろきおもわざれ

(87)

ひとたびはかならずむまれしめ

ひとたびはかならずしぬること

ひとのつねのみちなれば

むかしもいまもたえぬ也

(88)

われあまたのみをうけて

仏道をおこなひきたらしむ

わづかに小国の太子として

たえなるみのりを流布せしむ

(89)

のりなきところに一乗の

深義をひろめときをきつ

五濁のあしきよよまでに

ひさしくあそばむとおもわれず

(90)

きさきなみだをながしてぞ

かなしみあわれみましまして

太子難波よりしてぞ

いかるがの宮にかへります

(91)568

かたおかやまのほとりにて

うへたるひとふしたりき

くろこまあゆまずとゞまれり

太子むまよりおりてこそ

(92)

うゑ人ふしたるそのうへに

むらさきのうへの御衣を

タイシノオムゾトマフス也

とひておほいましまして

御歌をたまひてのたまはく

シナテルヤカタオカヤマニイヰニウヘテフセルソノタビ人アハレオヤナシ

(93)

うゑ人かしらをもちあげて

御かへりごとをぞたてまつる

あわれかなしき御ことかな

奉讃まことにつきがたし

イカルガノトミノオガワノタヘバコソワガオホキミノミナハワスレメ

(94)

太子みやこにかへります

のちにうえ人しにおわる

太子かなしみましまして

はぶりおさめおわします

(95)

うゑ人しにてそののちに

むらさきの御衣をとりよせて

もとのごとくに皇太子

著服してぞおはします

モトノゴトクタイシノキサセオハシマストマフスナリ

(96)

大臣已下七人の

そしりあやしむことしげし

勅命をくだしましまして

ゆきて片岳をみるべしと

(97)569

臣下ゆきてみるにかばねなし

ひつぎはなはだかうばしく

みなひとおどろきあやしみき

まことにあだの人ならず

(98)

太子みやにましまして

きさきにかたらひおはします

おゆあみみぐしをあらわせて

きよき御衣をぞきたまひし

(99)

われもろともにこよひは

さりなんとゆかをならべてぞ

ふしたまひぬとみえたまふ

あくるあしたにひさしくも

(100)

御おとまさずあやしくも

御殿のみとをひらきてぞ

人々あまたまいりしに

きさきもともにかくれます

(101)

御かほはもとのごとくにて

はなはだかうばしくおわします

御としは四十九歳なり

仏法のともしびきえたまふ

(102)

くろこまいなゝきよばいけり

くさ・みづくわずかなしみて

御こしにしたがひまいりてぞ

御廟にいたりつきにけり

タイシノミサヽギヲゴベウトマフスナリ

(103)570

ひとたびいなゝきよばわりて

たうれしぬとぞみゑたりし

そのかばねをばすなわちに

御廟のかたにうづまれき

タイシノミハカナリ

(104)

太子崩御のその日にぞ

 タイシノゴニフメチノヒナリ

衡山よりの御経は

にわかにうせましましぬ

恋慕渇仰つきがたし

(105)

妹子がみちてわたれりし

経ばかりこそいますなれ

まことに不思議のおほきこと

奉讃きわなくあわれ也

(106)

新羅国よりたてまつる

釈迦牟尼仏の尊像は

やましな寺の東の

精舎にいまにおわします

(107)

百済国よりたてまつる

石の弥勒菩薩は

ふるきみやこの元興寺の

東の精舎におわします

(108)

太子のつくりおわします

御寺はそのかずあまたあり

四天王寺・法隆寺

中宮寺・橘寺

(109)571

蜂岡寺・池じり

葛城寺・日向寺なり

このほか御てらきこゆれど

伝記・縁記をひらくべし

(110)

太子の御名はあまたいます

厩戸・豊聴耳の皇子なり

御誕生のところゆへ

厩戸ともにあらわせり

(111)

十人一度にまふすこと

ひとりももらさずきこしめす

ことわりいますによりてこそ

とよきゝみゝとはまふしけり

(112)

皇太子の御誕生

御ありさまをたづぬれば

僧の威儀にていますゆえ

聖徳太子とまふしけり

(113)

¬勝鬘¼・¬法華経¼等の

義疏をつくりひろめしめ

有情をわたしままふゆへ

聖徳太子とまふすなり

(114)

王宮のみなみにすましめて

儲君とあがめましましき

トウグノクラヰトマフスナリ

まつりごとをまかせて

上宮太子とまふしける

 572已上一百一十四首

 

日本記、 平氏伝聖徳太子御伝、 上宮記、 諾楽古京薬師寺沙門景 の撰日本国現報善悪霊異記等 ゆる り。 三宝流 の に く、 日本国、  めに に し、 葦二 ぢ ひ立。 てり  と て を知。 れり  り れ豊葦原水穂 と名。 けたり の代七 の に、 日天 りて と成。 れり  て に が を く↢日 と↡。  の世百 と む。 神武天皇 て即位元年 の の歳、 釈迦滅 の ず二百五十 に成。 れり

 

ª大谷大学蔵享保十二年敬誓書写本奥書º

「日本記 平 が撰/聖徳太子御伝 上宮記/諾楽ならきやう薬師 の沙門けい いのせん/日本国現報善悪霊異記 に みえたる*康元二歳[丁/巳]二月日/愚禿親鸞[八十/五歳]書↠之/右太子奉 は奥州糠信郡南部八戸願永 の住物也/則 蓮如上人御真筆也/于時享保第五[庚/子]年冬中旬 て↢羽州秋 に↡/写之長浜亮空 翌年享保六[辛/丑]天皋月/中旬七して↢曲谷陰士七十三翁 に↡写↠之老後思出百快千/喜而已/加之往昔建長七年[乙/卯]十一月晦日 愚禿釈親鸞八十/三歳御 の七十七 の太子奉讃 て↢大坂↡拝↢ す を↡合一百九/十二首正像 に十一首三所惣合二百三首之中 の は正/像 に有↠之残二百一 は別讃也 は三朝高 に の多讃/超越相 の の極応↠知耳/爾時/享保第十二[丁/未]稔閏正月廿三日再写之訖/江州坂田郡江里之庄春近住/皆念寺/釈敬誓/初之讃播州姫路龍玄所持摂州大坂乞請浅井寛文十二[壬/子]献歳下旬第四再写畢」

 

底本は愛知県満性寺蔵室町時代書写本。