大乗 (3月30日)
ちょっとほかのこととのからみで、大乗とは私にとっていったい何なのか、整理しておく必要が出てきました。
基礎知識的に、大乗とはサンスクリット語マハーヤーナ mahāyāna の訳語です。mahā は「大きい」、yāna は「乗り物」の意で、それまでの仏教(部派仏教)が出家者中心・自利中心であったのを小乗(自分ひとりのさとりを目指す小さな乗り物)として批判し、紀元前後頃インドに起こった仏教を指します。
(なお小乗とは大乗の側からのおとしめた呼び名ですので、できれば使いたくありません。現在では長老派の仏教、あるいはそのサンスクリット語でテーラヴァーダ teravāda と呼ぶのが通例のようです。一時期は上座部仏教、南方仏教とも言いました。)
ところで私の関心は、まず「浄土真宗」の内に視点を置いたとき、大乗とはどのような響きを持つ言葉なのかということであり、そして逆に「大乗」の側から見たとき、浄土真宗へと至る必然性はどこにあるのかということです。
まず浄土真宗的に考えるには、大乗という言葉と単独で向かっても無駄です。他の多くの考え方との絡み合いの中でとらえる必要がある。網目の譬喩で言うならば、「大乗」という言葉をつまみあげたら他にどんな言葉がどれだけついて動くかということであり、草引きの譬喩で言うならば、浄土真宗から大乗を引き抜くには根がどのように張っていると心得て、どこをつまみ、どのようにどれだけ力を入れなくてはならないか、という風に味わってみたい。
結論から言ってしまえば、大乗は浄土真宗の全背景でした。浄土真宗から大乗を引き抜いてしまったら、実は何も残らなかった。草引きではなくて、畑抜きになってしまった。いや、納得できる結論です。
ならば、大乗という土地が、浄土真宗という畑にならねばならなかった必然性はどこにあるのか。
見通しとして、私は大乗=易行道=浄土門と受け止めています。大乗の土地が易行の鍬で耕され、浄土の畑と仕上がって、如来大悲の温床となる。これで譬喩としては受け入れやすいとしても、そもそもそのような動きが出てこなくてはならなかった原動力は何なのか。
これまた結論から言ってしまいます。大乗が浄土真宗と実現せねばならなかったのは、ここにこの私がいるからです。
ある方から、「大乗(仏教)が独り立ちしたのはいつか」という主旨の問いを投げかけられていました(→茶室、#106)。刺激的な問いです。それを通じて考えたことを再吟味させてもらっておきましょう。
1.釈尊と「同じ」さとりを開こうと意志されたとき――歴史的に、釈尊の教えが広まるにともない、釈尊その人の神格化(仏格化?)が始まります。釈尊にあこがれ、そのあとを追おうとした者にとって、自分と釈尊を同列に置くことは畏れ多いことでしょう。が、釈尊の後数百年を経て、ただ釈尊のあとを追うだけではならぬ、釈尊と同じところに立たなくてはならぬという思いが熟してきた。そのように願うことを「
2.ある「全体」が全体性をもって立ち現れたとき――菩薩は、単に思い上がった人たちではありません。菩薩には「私が救われるとは一切衆生が救われることだ」という共通の思いがあった。「一切」衆生という形容がリアリティをもったとき、そこには個々人を超えた大きなものが、ある全体性をもって感じ取られていたはずです。その全体性が、たとえば「
3.真如空性の総体が「この私」に即して定位されたとき―― 2.はいわば、人間の側から宇宙の側への視点の転換です。全宇宙は善きものである! という直観および信頼が、それを支えた。しかし、全宇宙的な「善きかな」に徹底的にさからうこの私が抜き差しならなくなったところに、私を取り巻く真如空性の総体が、「この私」に相即するはたらきとして定位されることをめざす動機が生れます。その動機こそ「本願」であり、本願としてこの私に即して現成したはたらきが「他力」です。
4.本願他力の側における真理性と、ここにこの私がいるという個別性との間の根源的な矛盾が支えられたとき――しかし、生の他力はこの私の個別性を呑み込んで一挙に解消してしまいます。本願の日にまともに照らされては、この私という一滴の霧粒などたちまちに消えてしまわざるを得ない。真理に根源的に逆らいつつここにこの私が「いる」という(私にとっての)重さを支えんがために、矛盾は矛盾のまま、麗しくとどめおかれました。「浄土」の建立です。
5.私が宇宙のまん中に立ったとき――浄土が建立されてあるという事実に支えられて、この私はその個別性のまま、宇宙のまん中に立つことができる。しかも浄土の障子を隔てて、本願他力のまぶしい輝きは、お慈悲の暖かさと届きます。ならば、宇宙のまん中に立とうではありませんか。私がここにそのままの姿において立ち、そこを宇宙のまん中と受け止めない限り、大乗宇宙もいまだ独り立ちできないのです! 大乗成立は、遠い昔の話ではなくて、まさに私を待ってのことなのでした。そしてそれが、「他力の信心をいただく」という出来事なのでした。
6.楽しんだとき――こうして私が宇宙のまん中に立ったとき、大乗もまた、まさに独り立ちすることになります。しかしそれはまた、ここにこの私が残る限り、完了することのないはたらきでもあります。この私が迷いの生を終えまさしく宇宙大の〈おおきないのち〉に抱きとられていく日まで、時々刻々、新たに成就し続けていく。それがこの私には、(私の)歓びと味わわれるのです。このめぐみ、歓ばなくてなるものか。どのような状況に出会おうとそれを「楽しんだ」ときこそ、真に大乗が大乗としてうち震えているときなのです。それが、ナマンダブツの「称名」です。このナマンダブツは報恩です。わかりやすくいえば、「ありがとう(ございました)」です。
大乗とは、これまでの流れからするならば、6で出たように、私にとっては〈おおきないのち(=名号)〉のことです。ただそれは、この私めがけての〈いのちの願い(=本願)〉をはらまずには済まなかったおおきないのちであり、そしてその願いは浄土の建立において現実のはたらきと仕上がっているのでした。この迷いの私が、迷いのままに、〈願われたわたし〉であったと知らされる。
大乗とは、楽しんでいる限りでの、この私の姿です。
合掌。