浄土 (4月26日)
浄土とはいったい何なのでしょうか。
浄土があるのかないのか、といった気の抜けたことには触れません。私にとってお浄土はあること間違いのないものであり、さらに祖師方のご苦労において「実証」されているものですから。
また、お浄土がどのようなところであるのかも問いません。私はまだ『浄土三部経』や『浄土論』などしか読んだことがないのですが、お浄土の様子を説いた経論はたくさんありますので、詳細はそちらに譲ります。
今問題にしたいのは、「どうして」お浄土がなくてはならなかったのか、その存在の必然性であり、その意義です。
一応、基本的なことから確認しておきましょう。私はそもそも、浄土を「死後の世界」のようにはまったく考えていません。もちろん、生身の凡夫がそのまま触れることはできませんので、その限りで「この生を終えて初めて」出会える世界であることははっきりしています。が、それは死「後」の世界ということではない。
つまり、私が問いたいのは、「生きている(迷っている)私にとって」の浄土の意味なのです。
また、本来浄土(kṣetra-pariśuddhi)は仏国(buddha-kṣetra)とほぼ同義で、諸仏はみなご自身の仏国を建立なさっていますから、諸仏の数と同じだけの浄土があります。その中、阿弥陀仏の「固有名詞としての」浄土が極楽(Sukhāvatī)です。
が、ここで私が考えてようとしているのは、普通名詞としての浄土(たくさんある)でも固有名詞としての極楽でもなく、端的に唯一の名詞(というよりも、この私に即したはたらき)としての浄土です。
浄土を「来世浄土(往く浄土)」・「浄仏国土(成る浄土)」・「常寂光土(在る浄土)」と分ける考え方もあります。大雑把には、「往く浄土」が世間一般での浄土観に近いもの(≒来世)で、「成る浄土」は現実世界を仏国土として浄めることを目指す「菩薩行」を意味し、「在る浄土」は現実世界がそのまま仏のおさとりの実現であるという天台系の密教思想を指します。
一見、私が問おうとしているのは「在る浄土」に近いもののように思えますが、むしろ問題の核心は「密教とは一線を画した」浄土観にあります。
どういうことか。
浄土を考えるには、その背景に大乗という思想を据えなくてはなりません。
私は、大乗仏教の出現を、「人間の側から宇宙の側へ」の視点の飛躍と理解しています。「我執」という名のこだわりを瞑想を通じてほぐし、大きな全体へと帰一することによって迷いの生死を超えていくという現実の個々人から出発する実践行が、大きな全体へ抱かれたこの私という転換によって、時間を離れた即座の救済の教えへと飛躍した。そんなイメージです。
大乗が出現することによって、個々人の迷いや現実社会の実際とは裏腹に、「一切所与の現実はその総体として善きものである」という理解が進みます。華厳や天台、さらに真言の教えがこの系列です。そこには、壮大で輝きわたる「仏の正覚そのもの」としての宇宙観が展開されています。
あまりにも美しい。しかし私は、このような密教系の教えを、大乗という思想の抱えている豊かさが「こらえきれずに」噴き出してしまったものだと受け止めています。理由は簡単です。ここに、迷いの私のいることが、私にとっては抜き差しならないからです。
これで、つながりが読み取っていただけるでしょうか。浄土がなくてはならない理由とは、ここにこの私のいることなのです。迷いの私の醜く重い現実と、美しすぎる真実とが、両立・併存することを許し、支えてくださってあるもの――それこそが、浄土のはたらきなのでした。
上で触れた常寂光土(在る浄土)は、真実そのままの、まぶしい世界です。そこにこの私の入り込む余地はない。いえ、いわゆる「即身成仏」はこの身のままその世界へ融合する方途を確立しているのですから、余地はない、と断言しては言い過ぎです。しかし、「迷いのままに」真実の世界を喜ぶ術でないことは確かでしょう。
私にとっての浄土とは、丸裸、このままの私が、背伸びすることも臆することもなく、すばらしい真実の世界に信頼し喜ぶことのできる秘密です。それを情に引きつけて言い直すならば、遊雲が私を待ってくれているところです。
合掌。