そのまんま (2月4日)
そのまんまとは どういうことじゃ、
ほったらかしと どうちがう。
ほったらかしは 見捨てることじゃ、
こころ閉ざして 知らぬふり。
そのまんまとは どういうことじゃ、
なりゆきまかせとどうちがう。
なりゆきまかせは遠くのことじゃ、
こころ届かず 当てもなく。
そのまんまとは どういうことじゃ、
一生懸命とどうちがう。
一生懸命はさみしいことじゃ、
こころ尖って われ一人。
そのまんまとは どういうことじゃ、
のらりくらりと どうちがう。
のらりくらりは 骨なしくらげ、
こころ決まらず ゆくえなく。
そのまんまとは どういうことじゃ、
当たり前とは どうちがう。
当たり前では 話もつげぬ、
こころこわばる 鉄面皮。
そのまんまとは 乗っかることじゃ、
仏願にまかせてお浄土参り。
そのまんまとは 驚くことじゃ、
すべてがそのままご恩であったか!
如来とであうが、そのまんま――
そのまんまとは どういうことじゃ、
このまんまとは どうちがう。
このまんまではまだ力みすぎ……
凡夫のまんまがそのまんま。
仏教語 (2月13日)
気づいてみれば、ここ数年一番時間・労力をつぎ込んでいることについて何も書いていません。紹介かねがね、それに触れてみましょう。
現在、何より自分自身の土台作りとして、ひたすらお
その成果(?)を、随時「浄土真宗聖典」コーナーへあげています。とりあえず、目標はご
*1 親鸞聖人の主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』のこと。
*2 『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』のこと。
*3 親鸞聖人が浄土教の祖師と定め尊崇された七人の高僧。インドの龍樹(りゅうじゅ)菩薩・天親(てんじん)ぼさつ、中国の曇鸞(どんらん)大師・道綽(どうしゃく)禅師・善導(ぜんどう)大師、日本の源信(げんしん)和尚・源空(げんくう)〔法然〕上人を指す。
一口「十年計画」で始め、現在もうじき丸四年になるところです。最初は少したどると表示できない「字」に出くわし、そのたびに「外字」から作ってという状況だったのですが、今では文字はほぼ整備が終わり、逐次埋めていく脚註や巻末註などもそろって、当初とは比較にならない速度で作業が進むようになりました。
とりかかって二年ばかりは、先が見えないこともあって気持ちがあせり、とにかく「進める」ことに必死でした。しかし昨年あたりから、作業が「進む」ことはそれほど問題ではなくなり、仏典の言葉をただ「浴びて」いることが心地よくなって、それにあわせて自分の言葉を忘れはじめ、当「住職の部屋」の更新が滞っていたのです。
昨年末に「下準備」がほぼ完了し、いよいよ4月から本題のご本典にかかる目標で、今はこれまで後回しにしていた細かい部分の詰め――入力した内容の校正やリンクの動作確認、さらに書式をそろえることなど――をしているところです。
さらにここ一週間ばかりに限ると、底本二冊にそれぞれついている「巻末註」を一元化して重複項目を整理し、内容のつじつまを合わせています。整理した項目数で 1,500 ばかり、ちょっとした「真宗小事典」の体裁になってきました。 →巻末註
本文からすくい上げた「仏教語」の羅列なのですが、元の本文をたどっていることもあって、これが思いがけず面白いのです。基礎知識の復習もかねて、急がずゆっくり楽しんでいます。
たとえば、「五苦」という項目があります。善導大師が数回使っておられ、元をたどれば『観経(仏説観無量寿経)』に出てきます。一般に、四苦*4八苦*5はよく使いますが五苦という言い方はなじみも薄く、初めて意識したときには「中途半端な数だなあ」といったとぼけた印象でした。五苦の内容は、
ごく 〔五苦〕 五種の苦。生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦の五つをいう。(ルビ割愛)
となっています。これが、『観経』の内容と重なり、善導大師の味わいを通じて、今は無性にうれしい。
*4 生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)。
*5 四苦に、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)を合わせたもの。
説明してしまうと「つまらなく」なりますが、さすがに上だけでは何が言いたいのかすらわからないでしょうから補足しましょう。要点は、四苦に、八苦の中の残り四つから愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)だけを取り上げていることです。(ここで遊雲のことが重なっているのも事実です。) しかし、『観経』の内容*6に照らしたとき、怨憎会苦(恨み憎むものに会う苦しみ)ならまだしも、愛別離苦である理由がわかりません。途中をはしょって結論だけ言えば、つまるところ、この「愛別離苦」は、背を向けてわざわざ迷いの中に頭を突っ込んでいる「この私」に対する、阿弥陀如来の側の「苦」なのでしょう。
*6 王舎城(おうしゃじょう)の悲劇。韋提希(いだいけ)が息子の阿闍世(あじゃせ)に幽閉され、その悲嘆の中で救いを請い、それに応じて釈尊が浄土の観法を説かれたもの。
それに呼応する記述が、「娑婆」の項の末尾に出てきます。
しゃば 〔娑婆〕 梵語サハー (sahā) の音写。
そうか。この娑婆は、私にとって以上に、阿弥陀如来にとって堪忍土であったのか。
たかが仏教語、されど仏教語。単なる概念語としてでなくその裏に広がる仏教の大きな世界に気持ちが届きはじめると、私の小さな理解を吹き飛ばしてしまうだけの深い響きがあります。
合掌。
心 (2月26日)
得がたいご縁が、重なっています。
当サイトの掲示板、「茶室」で、味わい深い問いを投げかけていただいていました(No.75)。いわく、「仏教において心とはどういうものなのですか(取意)」。
来月の2日、県内の中学校の立志式へ、話をしに行きます。講題は『すてきな私』とさせてもらっており、生徒ひとりひとりに「ああ、私も――すてきなんだ!」と感じてほしくて、何をどう話すか(正確には、個々の話題はどうでもよくて、気持ちの中心をどこに置いてどう運んでいくかが問題です)をずっと考えています。
さらに、古い知り合い(私のサンスクリット語の先生です)から久しぶりに連絡があり、一時取り組みかけて立ち消えのようになっている「穴」というテーマを思い出させてもらいました。
ほかにも、いちいちは紹介しきれないような他愛のない、しかし私にとっては大きな、ちょっとしたことが、突然みんな一つの焦点に思いを集めはじめたような感覚におそわれ、実のところかなりとまどっています。
焦点は、「
本来、名詞で使うか動詞となるかの差で、ことば(あるいは出来事)そのものに根本的な違いはないはずです。なのに、ある程度は私個人の語感のせいもあると思うものの、それだけでは片付けられない大きなズレがどこかで生れているように感じられる。
「楽に流れる」といったあまり肯定したくない表現に頼って、「楽」の方をひとまず意図的に悪くとらえます。
楽とは、もともと、心身ともに負担がなくて、思いも簡単に実現でき、安らかである、といったのびやかさを表す語だと思うのですが、それがいつの間にか「自分の気に入るものだけがまわりを埋めて、嫌なものと出会わずにすむ」とでも形容するしかないような、せせこましく窮屈なものになってしまっていないか。
片や、「楽しむ」ないし「楽しんでいる」は、その正反対です。周囲は「わけのわからない」ものだらけ、そのただ中で次にどんな出会いがあるのだろうと心ときめかしている。
昔、「一番好きなもの(こと)は」という質問に、「自転車でぶらっと出かけて道に迷い、雨が降り出しそうになってきたとき(記憶にもとづく取意)」と返答した人がいました。(種明かしをしておくと、冒頭で「心とは」と投げかけてきたその人です。) そのときは「この人は何を言っているんだ」とひたすらとまどったのですが、今では大好きな表現の一つです。
話がすごく飛んでいると思いますので、強引な整理をしましょう。「楽」は不可解なものと出会わずにすむところにわだかまり、「楽しむ」はまさに未知なる何かとの出会いにさらされている。
そして、決定的なことは、「楽」と「楽しむ」が、ズレているようでありながら実は「同じ」出来事だということです。無理すれば「裏表」とは言えそうに思うものの、おそらく、そのように片付けてしまわない方がよいというか、面白い、あるいは、真実であるように思います。
ここまで、話がどちらに向かって流れようとしているのかもつかめず、手探りでたどってきたのですが、やっと見通しがついてきました。言いたいことは、次の通りです。
心とは穴である――
仏教である限り、「心」を実体視することはありません。何らかのはたらき、ある(見かけ上・心理上の)結果を生んでいる作用、あるいは、自分という現実を所与のものとして振り返ったとき、その原因として反照・仮設される動力源のような位置づけです。我執の「執」に重心を置いて受け止めた印象、あるいは逆に拡大してしまうならば「業」といった響きに重なります。
違う切り口から眺めるならば、古くは「衆生」と訳されていたサンスクリット語 sattva は、玄奘以降「有情」と訳されます。「こころあるもの」の意で、イコール「生きとし生けるもの」であるわけですから、そこから推せば、「心が実際にはたらいている」ことは「生きている」と同義であることになります。
冒頭の問い――心とは何か――を投げかけられたとき、真っ先に考えたのは 心≒業 ととらえて吟味することでした。事実、それでもそれなりのものは受け止めることができ、二流の心理学よりは豊かな内容が引き出せると思います。しかしそれでは決定的なところで何かが足りない。(いろんなことの「説明」はできるのだけれど、切実な「自分」の問題にまで響き徹してこない。) そんなところでぐずぐずしていたときにふと「出会えた」のが、遊雲の目です。
あの子の目は、いつもキラキラしていた。いつも、掛け値なしに、与えられた情況を楽しんでいた。何事をも「当たり前に」楽しんでいたからこそ、(私たち残されたものには)最後の言葉となった「ありがとう」が、そのまま全宇宙に響きわたった。
そしてそれを教えてくれたのが、実は、これから立志式で話をしなくてはならない、まだ会っていない子どもたちの目なのです。
というつながりの中で、それまでこだわっていた(?) 心≒業 がいきなり解消し、もっとあっけらかんとした心(心そのものはあくまで「迷い」の根源なのですが)が浮かび上がってきました。 楽(我執)=楽しむ(無私) の相即としての心です。
まだ、「穴」の方にはまったく触れていません。が、それでもかまわないでしょう。心とは、穴なのでした。
合掌。