外 (1月11日)
ここ最近、かなり意識的に、少し関心を尖らせています。
遊雲のことが事実上全国的に新聞で取り上げられ、それこそ日本中のいろんな方から、手紙やメールをいただいています。広島市内の中学校では、この記事を題材に授業がされたとも聞きました。昨日は、はるばる京都から、どうしても話が聞きたいとまったくの初対面の方が訪ねて見えました。
そんな中、今の自分の気持ちを見失わず、ほんとうの意味で遊雲が残してくれた問いを引き受けていくにはどうしたらよいかを、自分に対してはっきりとさせておきたいのです。
発病の時点で、もしものときには人を頼まず自分自身で葬儀の導師(中心となる僧侶)を勤めることは決めていました。いよいよその時が差し迫ってくると、葬儀がどういう出来事であり、どのように気持ちを運んで導師を勤めるべきか、親しいご住職方のお考えも聞かせていただいて気持ちを固めていました。
(ちなみに、息子の葬儀だからといって特別なことをしたわけではありません。むしろ逆で、不要なことは一切せず、しかしどこまでも正式にというだけです。ただ、私にとって葬儀が「死者をとむらう」儀式ではなく、また単に「別れを告げる」ためのイベントなどでもなくて、たまたま今回は遊雲がそこへと抱きとられていった「おおきないのち」と、「残された私たち」が出会いなおす場であるということだけはアピールしたいという強い気持ちがあり、そのためにほんの少しだけつたない演出をしました。)
そして葬儀が終ると、私にとっては自然なこととして、気持ちは(これまでの)遊雲を離れ始めていたのです。
ここから補足が必要でしょうか。言わずもがなのことながら、さっさと遊雲のことなど忘れて、などというのではありません。もっとはるかに積極的な思いで、「死」において遊雲を小さな「思い出」の中に閉じ込めてしまってはつまらない、常にその時そのときの自分において遊雲と出会いなおしていこう、私自身において遊雲を育て、その遊雲と語っていなくてはもったいない、とでもいった欲張りな気持ちです。
あるいは比喩的に形容するならば、たかが息子が死んだくらいで、後ろを振り返り振り返りしながらでなくては歩けなくなったのでは面白くないし遊雲も嬉しくはなかろう、背中にしょって
繰り返しておくと、私にとってはそれは至って自然なことで、要するに遊雲とはそういう子であり、私たちはそうやって出会ってきたし、これからもそうし続けるというだけのことなのですが。
(これは文字通りの蛇足ながら、遊雲一人がそうなのではなくて、姉のめぐみも弟の想も、今スポットライトを浴びそこねているだけで私にとっては同じです。というか――本当のほんとうを言えば、15歳で死んでしまったからといって本来何もスポットライトが当たる必要などなく、また親の目からすれば何があろうとなかろうとみんないつもスポットライトの真ん中なのですけれど。)
で、最初の問題意識です。
やはりというか当然と言うべきか、私の感覚はふつうの方とはずれているようです。いただくお手紙・お葉書などの多くが、私たち家族が悲嘆の底に沈んでいるかのような前提なのです。
実際、そうであった方がわかりやすいだろうなとは――他人事みたいですが――思います。
(なお、けっして少なくはない数、「ありがとう」「よかったね」といったトーンのものがあることは言い添えておきます。これはひとえに遊雲当人の生きてきた姿のなせることなのでしょう。ただ、直接遊雲や私たち家族をご存知ない方からもこのような響きのものをいただいていることから考えると、新聞に出た記事が単に事実以上のことを伝えていたのだろうと理解するしかありません。社名も個人名もここでは控えますが、取材いただいた記者様――並大抵の取材ではなかった――には深く感謝しています。)
ところが、私たち家族の直面している現実は違います。何より、そんなに悲しくありません。むしろ、ゆったりと満たされた豊かさのような感覚を味わっています。
さらに私にいたっては、どこかわくわくしさえしている。
私(と遊雲?)の実際として、このズレは見失いたくありません。しかし一方、もし私たちの生身の姿がどなたであるにせよ救いにつながるのであれば、そのような機会として生かしていただきたいとも切に願います。
ということで、やっと導入の終わりです。私(と遊雲)が、どう、ふつうの方と違うのか。どんな理由があって、私たちはふつうならば嘆き悲しむしかない出来事を「楽しんで」いられるのか。そこに、関心を集中しようとしているのです。
私は、実は死そのものはまったく怖くありません。もの心ついた頃からそうであったような気がします。そして、基本的なところでは、遊雲も同じであったはずです。
もっとも、これはある意味「抽象的」なレベルでの話です。具体的に死が差し迫ってきた局面での思いはまた別でした。が、今になって振り返ってみれば、それは死そのものに対するおびえというよりも、実際には「痛くないだろうか」「苦しくないだろうか」といった感覚により近い、つまり「生」の内での心細さ――文字通り、気持ちが「やせ細っていくような」感じ――だったように思われます。
一歩、話を進めると、こうなります。私は、出発点から、死を恐れてはいなかった。振り回されていたのは、実は生にだった。
これで、私としてはようやくいろんなことが見渡せるようになりました。私と世間一般の方の基本的な考え方に違いがあるとすれば、それは死を「どこへ」定位しているかです。もっと引きつけてベタな言い方をすれば、死という言葉でどんなものをイメージしているかが、決定的に違うのです。
ここで重要なことを確認しておくと、私たちは死そのものを理解することはできません。(→参考:「信頼」末尾) そのため、死という言葉を使うに当たって、私たちは二通りの態度のいずれかを選んでいることになります。
一つは、そうと意識せず死を生の内に投影して、それと折り合いをつけていこうとする姿勢です。素朴な宗教観を含め、「世間一般」では死はこのように生の陰部として語られます。
あるいは、死を「私とは縁のないもの(近づいて欲しくないもの)」のように遠ざけてしまう向きもあると思います。これについては踏み込みませんが、私には上と根っこの発想としては同列のものと感じられます。
もう一つは、死を端的に生の「外」ととらえる態度です。これに徹したとき、実は死そのものについては何も語る必要がありません。逆に常にこの生の全体が、「今」として浮かび上がることになります。
この「外」は、外(わからない世界)のどこかにある何か、ではなくて、外そのもの、外の全体、です。私が抱えているもやもやとした「生」を、くっきりと輪郭づけてくれるものです。
上の二段落はあまりにも言葉足らずだとは思いつつも、今の私の力ではこれ以上記述したところでかえってわかりにくくなるだけでしょう。せめてつたない譬喩に借りて多少の情感を補っておくと、前者は窓のない部屋にいるようなものであり、後者は窓から明るい光が(時に冷たい風が)入ってくるのを楽しんでいるといった違いです。窓のない方が、少なくとも気分的に、安全です。また、残念ながら私たちは窓から自由に外の世界と往来することはできません。
これでやっと、私は「世間様の手前」息子の死を嘆き悲泣している父親、を演じる必要がなくなりました。
これまでは言わば知的あるいは宗教的に集中した上でないと触れることのできなかった「外」に、遊雲の死を通じて、私は情的日常的に触れることができるようになった。このこと自体は、端的に、悦びです。そこに独特な寂しさが伴うのは当然としても。
息子の死を経験しその葬儀を自分自身で執り行った住職でもある親として、私に発言できることがあるとすれば、死はすばらしいご縁ですよ、ごまかして内に抱え込んでしまうのではなく、かけがえのない「今」を照らし出してくれる外として、顔を上げて出会っていきましょう、というのに尽きます。
私は、このように、「今」遊雲と出会っています。遊雲はとうの昔から如来のまなざしですが。
合掌。
わかる (1月31日)
「わかる」ということがどんな出来事なのか、わからなくなっています。
ここで「わかる」というとき、理解することではなくて、理解「しようとする」ことを意識しています。その意味では「わからないことへの出会い方」とでも言った方が少しは正確かもしれません。
私が今直面しようとしていること(=出会おうとしている「わからない」こと)は、端的に、「死」です。実際には「いのち」ないし「今」、ひょっとしたら「私(=自己)」なのかもしれないという気はしていますが。
ただ、私ひとりで自分のために考えるのであるならば、長年慣れていることでもあり、今さらひっかかって再吟味する必要もありません。何かを表現しようとしたときが問題なのです。ここのところどうも言葉がうまく響かない。それで自分自身の考えも滞ってしまって、かなり苦労しているのです。
遊雲が死んでから(←あえて、ぶっきらぼうな表現をしています)四十九日も過ぎ、私はさっさと日常に戻っているのに(私の日常には「死」は折りこみ済みです)、周囲が着いて来ない。私に「世間様一般」が期待なさるような語彙もなく、あいさつ一つがかみ合いません。
え? どうしてみんな、ぼくをそんなに悲しがらせたいの? ぼくはこんなに楽しいのに。
遊雲に借りると、そんな感じでしょうか。
しかし、私も世の中で生きている以上、このギャップは埋めておかないといろいろ差支えがありますし、そしてそれに増して、この思いは表現しなくてはならないといった、ある種義務感のような衝動に駆られてもいます。
とりあえず、「わかる(わかろうとする)」という出来事のいくつかのパターンを絵にしてみましょう。
① ジャーナリスト型
② 評論家型
③ 詩人型
それぞれ、背景は直面している「わからないこと」を指しています。①では、わからない背景を、いろいろな「事実(気持ちの届く個々の出来事)」で埋めていきます。その重なり具合・散らばり具合の中、重心のような形で、あるリアリティが立ち上がる。そのリアリティに語らせる「わかり方」です。仮に「ジャーナリスト型」と呼んでおきます。
②では、先に、世間一般での「理解のされ方」のようなものを想定してしまい(灰色の長方形)、そして、そこに漠然と感じ取られる方向性とは少し角度を変えて、違った観点から光を当てます(斜めの線)。それらが重なるところに対象をとらえ、いわば論理的にくっきり定位させることを目指します。同じく「評論家型」のわかり方としておきましょう。
しかしジャーナリスト型も評論家型も、背景(わからないこと)の全体には触れておらず、せいぜいよくてその一部分に届いているにすぎません。これらとは逆に、わからないことをそのままに見つめ続ける「わかり方」もあるのです。あえて絵にすれば③のようになるでしょうか。(背景の上にぽっかりと浮かんでいるようにイメージしてもらえると近いのですが。) これを「詩人型」と命名します。
言うまでもないことながら、どれが良くて(正しくて)どれが悪い、という話ではありません。さらに、もっと細かく探すならば「政治家型」とか「武道家型」とか「おたく型」とかいくらでも見つけられそうな気もしますが、今はあっさり無視します。また、私個人の性癖はおそらく上の三つの内では評論家型に近いだろうと思っています。
言いたいことを一旦整理すると、次のようになるでしょうか。死は(少なくともその全体としては)「詩人型」のわかり方しか受けつけない。しかし、現実には「ジャーナリスト型」のわかり方が横行しており、根が「評論家型」である私は二重にとまどっている。
いや、この整理も少し逃げ腰です。私は詩は書きませんが、宗教という課題を日常において担っている者として、詩人型のわかり方にも親しんでいます。ぎりぎりまで突きつけるならば、私自身の内における、ジャーナリスト型と詩人型とのせめぎ合いが問題なのです。
遊雲が「現実として」死んでしまったことで、詩人型のわかり方はこれまで以上に当たり前で親しみあるものになりました。(そこを通じてしか私が求める意味においては遊雲と会えないのですから。) これは、実は予期していたことでもあり、驚くほどのことではありません。意外だったのは、遊雲の死が「現実」であるというまさにその点において、これまであまり信頼していなかったジャーナリスト型のわかり方も私にとって生々しいものになったということです。
結果的に、おそらくこれまで(そうと気づかず)隠れ蓑のように使っていた評論家型のわかり方が、自分自身に対して有効でなくなってしまった。きっと、そういうことだろうと思います。
ここまで考えを進めてきて、ふーん、そうだったのかぁと納得している自分がいる半面で、で、何を言いたいの? ときょとんとしている自分もいます。要するに、話は振り出しに戻ります。
が、これでいいのでしょう。私はこれからしばらく、うまく響かない(自分自身にもどこかピンとこない)発話を続けなくてはならない。しかしそれは、何かから目をそらしているからではなくて、直面している事態が今現在の私にとってそうなのだから自然の成り行きとしてそうなっているだけなのだ。
「わからない」とまっとうにつき合うこと。なかなかやっかいな主題ではあります。でも、面白いのですけれど。
合掌。