落ち葉 (11月29日)

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毎日、庭の落ち葉拾いに追われています。

本堂の右手、庭の西の端に紅葉、中央やや東寄りに大きなモクレンの木があって、どちらも毎日、庭の玉砂利の上にたくさんの落ち葉を落とします。紅葉はともかくモクレンは、例年ならばこの時期はもうすっかり葉を落として丸裸になっているのですが、今年は比較的暖かかったせいか、まだ半分見当の葉が残ったままです。

雨や雪でない限り、少なくとも毎日一回、多い日は三度くらい落ち葉を拾います。盛りの時期には一回で一輪車に一杯くらいになります。風のないときはよいものの、拾っている最中に風でも吹こうものなら、あっという間に「最初からやり直し」です。落ち葉用の掃除機もあるのはあるのですが、結局手で拾うのが一番速くてきれいになるので、最近ではもっぱら手作業です。

ここのところ、朝の霜はひどいのですが日中は暖かい日が続き、風が少なくて落ち葉も少なめでした。しかし昨夜はかなりの風で、今日は久しぶりに落ち葉拾いらしい落ち葉拾いになりました。朝一番の庭の様子で、夜の間の風の具合――強さと風向き――がわかります。今朝は、一目見て「秋が深まったなぁ」と感じられるような散り具合でした。落ちている落ち葉そのものも、毎日の霜に焼けて、優しくつままないとパリパリと粉々になってしまいそうなかじかんだようなものが増えてきました。

小まめに拾っているので、取り掛かればそんなに時間もかからず一通りは拾えます。しかしいつもはどうしても目につくところが中心になるので、時に思い立って植木のつつじの下などにたまった落ち葉まで丁寧に拾うことがあります。そんなに長く放っておいたはずはないのに、いつも思いがけずたくさんの落ち葉が吹きだまっているのに驚かされます。

掃除をする上ではやっかいながら、その度、「ふきだまり」の暖かさを思います。私の今の姿も、きっと、大きないのちが小さな隅っこに吹きだまった様なのでしょう。風通しのよすぎるところ、ごみのたまらないところには、おそらく新しい芽生えもない。

「いのち」とは、秩序とは別物です。まばゆい輝きの裏に、覗き尽せない陰影もある。いのちの初源は、濃く豊かな闇であったに違いありません。

合掌。

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