家族 (1月4日)
今年の正月は、家族が別々の場所で迎えました。
例年ならば、大晦日には寺に母と私の家族の計六人がそろいます。除夜の鐘を突いてから一旦息(やす)み、元旦は朝早くに起きて全員で新年のお勤め(読経)をするのが年中行事です。
今年は、中の子が東京で入院中で、バトンタッチした母親が付き添っています。(実際には、暮に一旦仮退院ができました。しかし年末・年始の混雑の中を山口まで往復するのも大変なので、そのまま二人で東京に留まっていました。)
ことあるごとに、お兄ちゃんたちは今どうしているかねえ、と話に出ます。こっちは何やかや言って自宅にいるのですからまだいいですが、遊雲(ゆううん、中の子の名)と母親とはまた違った思いだったことでしょう。
浄土真宗では、得度(とくど、正式に僧侶の資格を得ること)をするか帰敬式(ききょうしき、在俗のままで浄土真宗に帰依すること)を受けると、「法名」をいただきます。私は生れたとき、得度を前提に名前をつけてもらっているので、俗名の智光(ともみつ)を音読みした「ちこう」をそのまま法名にしています。俗名ではなくて法名だ、ということを明示するときには、前に「釈(しゃく)」の字をそえて、釈智光(しゃく・ちこう)と書きます。
この釈は、釈尊(お釈迦様の尊称)の一字を戴いたもので、仏弟子であること、もっと簡単に言うならば、「釈尊の『家族』の一員であること」を表しています。ですから、釈○○と名のるときには(俗名における)姓はつけません。
知識としては知っていたのですが、もったいないことに、これまで釈の字を戴いていることを「特別に」嬉しいことと味わってはいませんでした。それがこの度、家族の味を痛感させられるご縁にめぐまれて、やっと釈の一字の重さを知ることができました。
この春には、(たぶん)長女が大学生になり、親元を離れます。正月には帰ってくるだろうと思うものの、わかりません。(私自身も数回、正月に帰省しなかった覚えがあります。)
家族は、一緒にいてこそ家族であると同時に、離れ離れでいてもやはり家族です。そして、世俗の意味での家族を離れたとき、世界人類、いえ、生きとし生けるもの皆、家族なのでしょう。
遠く離れた息子が、それを教えてくれています。今年が、一切衆生に、平和な年でありますように。
合掌。
親 (1月8日)
今、自分のことを一言で紹介するとしたら、「遊雲の父親です」と言うのではないかしら。そんな気がします。
アイデンティティの話です。これまでは、永く「長久寺の住職」であることを自己規定のベースにしていました。「長久寺の」は私にとっての具体性の表明に過ぎず、そちらに重きを置いていたわけではありません。実際、長久寺は私が「選んだ」ものではなく、気がついてみたら「与えられていた」ものです。(その意味では、どこか自分の身体に似ています。)
同様に、「遊雲の」は枕詞です。「めぐみ(長女:高三)の」でも「想(そう、末子:小四)の」でも、私にとっての意味は同じことです。ただ、そのように考え直すきっかけを与えてくれたのが遊雲の病気だったことは事実ですが。
単に、一父親であること。たったそれだけのことに、一個人としてあることを大きく超える契機がある。
親という言葉の語源は「老ゆ」だそうです。産卵のために川を遡ってくる鮭は、途中で怪我をしても、もう自分のからだは治りません。自分自身の明日を放棄して、次の代へつないでいます。老いるとは、結局そういうことではないか。つまり、自分自身の可能性を実現することよりも、「つなぎ」に回ることが日常的に優先され始めたとき、私たちは現実に親になるのではないのでしょうか。
私たちは必ずしも、自らの自由意志にもとづき合理的に判断して、「親」として振舞っている訳ではありません。むしろ、(止むを得ずとは言わないまでも)そうせざるを得ない状況の中で、気がついてみたらそのように振舞っていたという風に、親に「させられて」いる。しかしかえってそこに、個人の意思や合理性を離れた大きな「流れ」が、姿を見せているように思うのです。
私自身、頭で考えてどうのこうのというよりも、自分自身が「してもらっていた」ことは、無条件に子供に対して「しよう」としています。(正確には逆で、子供に対して何かをしている自分の振る舞いにふと私自身の父親の姿が重なることがあり、それで「ああ、私もこのように育ててもらってきたんだ」と気がつかされるのです。)おそらく、私の子供たちもまた、自分が親になったとき、同じように振る舞うことがあるのでしょう。私が私の父親の何を引き継いでいるのか、自覚している訳ではありませんし、また私の何を子供たちが引き継いでいくのかは、なおわかりませんが、それはどうでもよい。ただ、何かがゆったりと流れ続いていることは、確かに感じられるのです。
如来様を親と仰ぐ私たちの中には、何がしか親の思いが流れているのでしょうか。いえ、確かにそれが途切れずに届いているからこそ、私たち凡夫もいずれ、親に、仏に、なっていくことができるのでしょう。
合掌。
苦 (1月12日)
子供の病気のことで、現在、「気の抜けない」毎日を過ごしています。
まだやっと二回目の化学療法が終ったところで、手術の日程も含め、今後のことについては予定自体がはっきりとは立たない段階です。薬(抗がん剤)が効くならば、その分手術までの期間は延びます。
そのような、一般的な言い方をするならばストレスの高い日暮(ひぐらし)の中で、「苦」の味わいが変ってきました。
何より、仏教において、苦は否定されていません。たとえば、いわゆる「四苦八苦」の八苦の中に怨憎会苦(おんぞうえく)というものがあります。怨み憎み合っている者が顔をつき合わさなければならない苦、という意味なのですが、この言葉に、意見の合わないものと会わずに済ませよう、ましてや敵対者を排除しようといった響きはありません。むしろ「いっしょにいる」ことの方が前提です。
そこから推し進めるならば、苦が実は、迷いの衆生にとっての表向きの表れであって、その実体は根本的に性質の異なるものだと味わうことができるのです。
あえて誤解を恐れぬ言い方をするならば、苦は悪ではない。
この度の遊雲の病気にしても、愚かな親として治ってほしいと願っていますし、本人も「治る」つもりで治療に取り組んでいます。しかし、けっして投げやりになったり現実から目をそらしたりというのでなく、もし遊雲の病気が、その素性として「治しようのない」類のものであったとしても、それはそれで構わないと思っています。「治る」ということにこだわらずに受け止めているとまで言うと言葉が勝ってしまいますが、無理に言葉にするとすれば、そう言ってもうそではありません。
苦を悪ととらえるならば、それを乗り越えることが課題になります。しかし、苦は現実であって、避ける必要のないものです。そのままに受け入れていくならば、そのまま、私たちが現に生きていることの証明に他なりません。
合掌。
ご縁 (1月16日)
入院中の子供の付き添いで上京していたのですが、帰りのバスに乗り遅れてしまいました。
今月の6日から、第二回目の化学療法(抗がん剤の投与)が始まりました。病気が病気(小児がん、実体は右足首にできたこぶし大の腫瘍、正式な病名はユーイング肉腫)なので、優しい心配りだけでなく、現状を直視する「精神的」な支えが重要になります。また、状況に応じてきめ細かに治療方針を変えていく病院に入院しているため、とっさの判断が必要になることもあります。そんな事情から、加療中は母親ではなく父親が付き添う方針にしています。
24 時間通して点滴の続く 7~8日(今回は8日間)の化学療法が 13 日に終わり、 副作用の吐き気からも点滴の管からも解放されて、昨日は元の元気な男の子に戻りました。そうは言っても、しばらく―― 一週間くらい――は料理、特に煮た野菜のにおいが鼻につくようで、好き嫌いは言わない子なのですが、食事は半分くらいしか食べられません。
加療中は、上には吐き気、下には下痢で、病院食はまったく受け付けません。ベッドのそばに持ってくるだけでもダメなので、食事の時間ごとに対応に追われます。そのときそのときの様子を見ながら、食べられそうなものを買ってきてやります。しかし、全部はまだ食べられないにしても病院食で過ごせるようになると、ずっとついてもいられないので付き添いは一旦引き上げます。今回は二回目で大体様子がわかっていたため、日にちを計算して 15 日の夜行バスの切符を買っていました。
もともと私はおっちょこちょいで、しっかりしているようで大きなところが抜けている質なのですが、発車時刻の 18:50 を8時50 分と勘違いしてしまっていました。気がついたときにはバスが出た後でした。
メチャクチャ、落ち込みました。
無駄な一泊をカプセルホテルで過ごしながら、愚痴がらみ、言い訳探しで、どうしてこんなポカをしてしまったのだろうと、グジグジと考えてしまいました。
15 日は一日、お客さん(?)の多い日でした。
院内学級(入院しているベッドまで先生が出張してくださり、週3回、各2時間、授業が受けられる)の制度が利用できることを知り、その手続きをしたのですが、午前中、国語を担当してくださる先生が様子を見に寄ってくださいました。遊雲(入院している次子の名)はしっかり2時間、次から次へと、先生といろんな話をしていました。午後にも、いっしょに入院していて、同じ院内学級で勉強している同級の捷人(はやと)君の授業の後、理・社の担当の先生がのぞいてくださいました。これまたかなり話がはずんでいましした。
そして夕方、遊雲が入院したとき隣のベッドで、年末に退院していった大学生の「吉川のお兄ちゃん」が、外来での診察の後、病室に顔を出してくれたのです。
吉川のお兄ちゃんには、本当にお世話になりました。遊雲もしっかりなついて、お互い特殊な状況の下、ある意味実の兄弟「以上」と言ってもよいくらいの密な時間を過ごさせてもらったのです。状況は捷人君も一緒で、二人(実は私も含めて三人)、今日の来院を知っていたので、文字通り首を長くして待っていました。
いっしょにさんざん遊ばせてもらった「マリオカート(カートという原始的なレーシングカーで競争するゲームソフト)」を持って来てくれました。長期の入院に備えて遊雲にはノートパソコンを買ってやっており(過保護な親です!)、さっそく遊べるようにしてやったところ、吉川のお兄ちゃんが帰った後、遊雲と捷人君と二人で、楽しそうに遊んでいました。
二人にとって、「マリオカート」はただのコンピュータゲームではありません。吉川君が乗っていた「ヨッシー」号は「神聖」なカートで、不用意に汚してはならないのです。つまり、二人はただゲームをして暇つぶしをしているのではなく、吉川のお兄ちゃんと「いっしょに」、素敵な時間を過ごしているのです。
今日、バスに間に合う「正しい」時間に腰を上げていたら、吉川のお兄ちゃんにも会えず、マリオカートで遊ぶ遊雲と捷人君の様子も見ることができませんでした。
今日の大ポカは、そういうことだったのだろう。苦しい言い訳が勝っているのは誤魔化せませんし、「ご縁」という言葉を都合のよい方にのみ解釈しているのもなお事実なのですが、これがご縁というものなのだろうと喜んでいます。
合掌。
イラロジ (1月20日)
東京から帰ってきてさっそく、正月の続きでイラロジにはまっています。
イラロジとはイラストロジックの略で、ほかにもお絵かきロジックやののぐらむなどとも呼ばれます。白地の方眼の上と左の各行に「1 5 6 4 3 4 9」のような数字が書いてあり、この数字が「連続して塗りつぶされるマス目の数」を表します。縦横のつじつまを合わせてマス目を塗っていくと、いろんな絵が出てくるという論理パズルです。
ファンは多いらしく、いろんな種類の月刊誌や単行本が出ています。私は本来パズルは好きな方で、ひまつぶしにときどきやっていました。それが、正月に、お兄ちゃんの入院とお姉ちゃんの受験とでほったらかしになっていた末っ子の想(そう、小4)の相手をしてやろうと二人で始めたところ、想がはまって、本格的になってきました。
娘に言わせると「想がお父さんの面倒をみているのよ」とのことなのですが、お兄ちゃんに想がイラロジの腕を上げた話をしたところ、「想君の仕上げたイラロジが見たい」と言ったこともあり、この次付き添いに行くときに持っていってやろうと、わざわざ月刊誌を買ってきて、やや大きめのものに取り組んでいます。
大きなものは、新聞紙大で、縦横百マスを超えるものがあります。私としてはそのくらいのものをやってみたかったのですが、さすがに小学生の想は尻込みしてしまい、結局 60マス×70マスのものを想と私と別々に(つまり、想は完全に独力で)仕上げようということになりました。
簡単なものならば、ほとんど機械的に完成できます。しかし絵が大きくなってくると、確実に塗りつぶせるマス目を埋めるだけでは最後まで行き着けなくて、途中で「止って」しまうのです。そうなると、浮かび上がってきはじめた線から続きの動きを予測したり、試しに埋めてみて矛盾するようならばやり直すといった試行錯誤をしなければなりません。その際、「確定」しているところと「仮定」しているところがきちんと区別できていないと、どこまで遡ってやり直せばよいのかがわからなくなり、結局仕上げられなくて途中で投げ出してしまうことになります。
イラスト「ロジック」を解くのは、根本においてその名の通りいたって「論理的」な作業なのですが、上のような試行錯誤の段階では、とたんに人間味の濃いものになります。「確実」なものがどこにもないところで「仮に」踏み出す心細さは独特ですし、それだけにあっちとこっちのつじつまが合って、うん、間違いないと確認できたときの安心感も大きい。そして、一番厄介なのが、食い違いが起るはずがないのに矛盾してしまったときです。
思わず 「え?」 と声に出て、凍ってしまいます。たいていはただマス目を数え間違えていたり、数字を一つずらして読んでいたりといった単純ミスなのですが、あると決めてかかったところが間違っていた可能性がある以上、考え直そうという気になるだけでも 「よっこいしょ」 です。(私は、こういうときにはさっさと一旦止めてしまって、翌日やり直すことに決めています。) 面白いもので、人の間違いをチェックするのは苦になりません。(ですから、二人で別のものを並行してやると、かなり効率(?)はよくなります。) しかし、「自分のやったこと」を疑いなおすというのは本当に馬力がいる。
というより、イラストロジックは、人間には論理「だけ」では解けないと言い切ってもよいのではないかと思っています。作業を続けていて食い違いに出くわし、思わず 「え?」 と口に出たとき、とたんにそれまでの確固たる世界が砂の城のようにボロボロと崩れ始めます。論理や合理性の限界、あるいはもろさを、実によく味わうことができる。そんな場面で、白紙に戻して考え直そうという気になれるかどうかは、背景の全体に対する信頼です。極端な話、誤植があって数字が間違っているのかもしれないと疑ってしまったならば、もう一歩も進めません。実際には、数字の一つ一つの正確さや、推論の正しさという以上に、取り組んでいる問題が全体として「実」のあるものであり、完成した絵にはちゃんと意味があるという思いこそが、イラロジとその多くのファンを支えているのです。私が一番好きなのは人物の肖像画のイラロジで、その次が絵画を題材にしたものです。
(たまに、論理的には解けない――解が複数ある――問題があります。それでも、人間には解ける。というより、私たちは自分が意味を見出せるものだけを、根拠なく「正解」として受け入れることで生きているのでしょう。)
この現実世界における生活を、合理性だけで受け止めていては、いざというときに踏みとどまれません。食い違いに直面してなお、わが人生と受け入れることができるかどうか。最終的には、合理的なつじつま合わせを離れて、まさに生きてあるということの「実」をどこまで味わっているかにかかるのでしょう。
合掌。
情報 (1月26日)
ここのところいろんなこと(といってもこれは「決まり文句」で、整理してみると高々二つ三つなのですが)があり、集中して考えてみようとしかけていたことで、尻切れトンボになっているものがたくさんあります。できるところからレジューム(旧状復帰)しようと思っているのですが、自分の内で思いがけず変ってしまっていることがあり、何をどう考えようとしていたのか再構成できないものが少なくありません。
「情報」というテーマも、その一つです。
元々は、「情報」と「身体」とが組になった表現に出会って、虚を衝かれたのが出発点です。身体に重心を置いた形では一度考えをまとめたのですが(虚身体)、情報の方はまだで、気になっていました。
ところが、いざ思い立って考え直そうとしてみると、(身体とセットにされていることで)かつて感じた違和感が戻ってきません。最初は、メモを残すなどの作業をしていなかったので忘れてしまったのかとちょっとがっかりしたのですが、どうもそうでもない。あえて言うならば、気付かない間に最初のひっかかりを消化してしまっていて、その「次」に関心が移っているとでもとらえた方がよさそうなのです。
情報は、私の語彙においては縁起に近いのではないか。
最初のひっかかりが気にならなくなった「次」を言葉にすれば、上のようになります。もちろん、いきなりそこへ飛んだ訳ではなく、途中の段階があります。必要以上に大袈裟に響くのを覚悟で経緯だけ紹介しておくならば、分子生物学と量子論(どちらも『ブルーバックス』レベルで)をかじったことです。
(なお、当初とっかかりにしようと思っていた「言語」とのからみは陰に隠れてしまいました。蒸し返さないことにします。)
分子生物学と言っても、要は DNA の話です(『がんと DNA』 ブルーバックス B1154)。たとえば、鶏をがん化させるウィルスに RSV(Rous sarcoma virus ラウス肉腫ウィルス、ラウスは研究者の名)というものがあるのですが、何と、このウィルスには遺伝子が4つしかありません。(「遺伝子」はある一つの形質を発現させる――具体的には、特定のタンパク質を合成する――単位ですから、遺伝子上の「文字」単位で言えば合わせて約1万になります。)しかも、その4つのうちの1つが「発がん遺伝子」で RSV 自身の増殖には関係がないので、RSV はたった3つの遺伝子だけで「生きて」いることになります。遺伝子が3つですから、(寄生した先の細胞で)合成されるタンパク質も3種類です。そのたった3種類のタンパク質が、さらに細かく分かれたりくっついたりして必要な部品ができて、最後はこれらの部品が「おもちゃのブロックのように組み合わさり」、元と同じ RSV になって散っていく。
「生命の驚異」と言ったのでは追いつきません。何だか、モノと限りなく近づいた「情報」が、勝手に自己増殖しているようなイメージです。
一方、量子論によれば(『マンガ量子論入門』 ブルーバックス B1295)、情報は原理的にある不確定さを含んでおり、何かを正確に知ることは、裏で何かを犠牲にしていることになります(不確定性原理)。たとえば、光が波でもあり粒子でもあるというふうに形容されるとき、波と見るならば光の粒子性は隠れ、粒子と観測されるときには波の性質は見えなくなるといった按配で、しかし対象の性質を完全に理解しようとするならば、表向き食い違う内容の両方が必要になるのです(相補性)。そこから推し進めるならば、何事も決定論的には説明できないことになり、さらには古典的な局所性の原理すら否定される可能性があります。
(局所性の原理とは、私の理解では「離れたモノとモノの間では光速を超える信号の伝達はできない」という内容です。それが否定されるということは、たとえば瞬間的に宇宙の果てまで移動することが原理的には可能だということにもなり得ます。なお、量子論のこのあたりの「解釈」については、今まさに活発な議論がなされているところで、一般に認められているという段階ではありません。)
科学的な正確さを大胆に犠牲にし、ここでの私の関心に引きつけて言い直せば、情報(ものごとの私に対する現れ)は「私がそう『見た』から」という素性を離れることができず、またものごとの全貌を伝えるものでもないのです。さらに、そのように私に対して何かある情報が現れるとき、そのこと自体が宇宙全体に影響を及ぼしている。
それらをひっくるめて、自分の語彙の中から肌触りの近いものをさがすと、縁起が浮かび上がってくるのです。
まだ話は「やっと始まった」ところですが、半日の思考ではこれが限界です。一旦、ここで置かせていただきましょう。
合掌。
情報(続き) (1月30日)
情報≒縁起とする、前回の続きです。
最初に断っておきますが、「情報」 が 「縁起」 で説明できるというのでも、逆に 「縁起」 が 「情報」 に翻訳できると言おうとしているのでもありません。ただ、(私にとっては)もう一つとらえにくい 「情報」 を、それなりになじみのある 「縁起」 と重ねることで、少しでも考えを進めてみたいと思っているだけです。いわば、縁起と情報を、相互に 「思考実験の場」 としようとしているのです。
本来の関心は、「情報に振り回されている(ように感じられる)」 私ないし現代人の姿にあります。どうして、情報に振り回されるのか。どうしたら、落ち着いた自分に戻れるか。
ベーコン以来、私たちは 「力」 のために知ろうとしているのかもしれません。知ることで、情報を手に入れることで、優位に立つ。あるいは、自然を制御する。私自身、身内のつてで 「癌研病院」 という専門病院を知ることができ、そこに子供を入院させることができたことで、「それを知ることができなかった」 ならばあり得たかもしれない問題の多くに触れずにすんでいます。確かに、「知る」 ことの意義は大きい。
しかし、それで情報のすべてが尽されるのでしょうか。というより、上では情報の含む多くの意味のうち、最初から 「ある特定の目的について、適切な判断を下したり、行動の意志決定をするために役立つ資料や知識(大辞林)」 に限定していることになってしまいます。
情報とは、詰まるところ差異であり、そして差異を見るのは分別です。分別は、本来ないところに区別の線を引きます。何かを見、知ったとき、多くのことが隠されてしまう所以です。隠されてしまう最大のものは、本来あったつながりでしょう。
言い換えると、こうなります。「何かを知れば知るほど、『私』 は疎外される。」
しかも情けないことに、私たちは自分にとって有意義であるという前提で、つまりは 「自分は負け組に入りたくない、入ることはない」 というスケベ心丸出して、情報を求め、接します。これでは端(はな)から負けている。(勝った負けたの話ではないはずなのですが。)
差異の最たるものは、何を隠そう、この私が今ここに、この身体において生きていることです。
情報に不用意に触れると、この私(の全存在)もまた情報のひとかけらであることが見えなくなってしまう。
見る者なきとき、情報は無意味です。否、情報がそもそも情報として現れない。私がここにあるということ自体が、私自身の思いとは別に、確かに見られ抱き取られているということなのでしょう。
合掌。