おみがき (11月1日)

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実はちょうど一週間ほど前のことなのですが、長久寺でも 「おみがき」 を終えました。

本堂で使われている様々な仏具のうち、金属製のものの汚れを落とすことを、おみがきと言います。浄土真宗の寺院では、ふつう年末に執り行う 「報恩講(ほうおんこう)――親鸞聖人のご法事」 が、もっとも重要な年中行事になります。長久寺では今月の3日・4日に報恩講を予定しており (本当は 1 週間かけるべきなのですが、世情に流される中、もったいないこととは思うものの、現在では2日間のみになってしまいました)、その準備です。

お花(慈悲の象徴)と対になるお灯(あか)り―ろうそく(智慧の象徴)とは別に、照明を意図した「輪灯(天井からぶらさげた、正面から見ると釣手の部分が輪のようになっている釣灯台)」という仏具があり、昔は菜種油などに灯心を立てて燃やしていましたから、当然ススで真っ黒になります。本来はそのスス落しが主目的でした。今では、長久寺を含め大多数の寺院で光源は電球になっていますので、ススはつきませんが、一年間のサビを落します。他にも仏飯器や大小いろいろの鏧(きん、読経のときにカーンないしチーンとたたくあれ)など、真鍮製のものを中心に、一切合財みんなきれいにします。

いつもは仏婦(仏教婦人会)の役員の方にお手伝いいただくのですが、今年はご都合がつかず、家族だけでのおみがきになりました。小4と小6の下の子2人も、名目だけのお手伝いではなく、今年初めて実際に仏具を磨きました。手にゴム手袋をはめ、古くなったお衣を裂いて作った “はぎれ” に金属みがき(ねばっこい液体)をつけて、丁寧に仏具の表面をこすります。浮き彫りになった複雑なところなどでは、歯ブラシも使います。

金属みがきがなかった頃は、“わら” を使って “とのこ” でみがいていたそうです。それと比べれば随分楽なのでしょうが、分解した輪灯の部品一つひとつを、複雑な形の奥まできれいにするのは、かなり根気のいる仕事です。小6のお兄ちゃんはともかく、小4の末の子には少し無理かなと思っていたのですが、2人ともしっかり時間をかけて、きちんとみがいていました。

途中、お兄ちゃんの使っていた歯ブラシが、頭の真ん中のあたりで折れてしまいました。すぐに別のを渡してやったのですが、折れて柄のなくなった歯ブラシの頭を、それはそれで上手に利用しているのに感心しました。おわんのようにくぼんだ底などでは、かえって柄のない方が使いやすいこともあるのです。

おみがきのような人力勝負の作業では、道具はからだの延長です。うまく道具を使いこなしたり、あるいは必要に応じてもっと使いやすい道具をさがしてきたりというのは、からだを上手に使うのと同じことになります。

初めておみがきに挑戦している子供2人に目を配りながら、躾(しつけ)――身+美――とはこういうことなのかもしれないなと思いました。人前でお行儀よくふるまえるように口で教えるのもしつけでしょうが、最終的にはからだの使い方が問題なのではないか。無理のない効果的なからだの使い方を、親が手本を示しつつ、子供が真似る。それが原点なのではないか。

2人とも、なにせ初めてのことですから、どうやってよいか、つまりどうからだを動かしていいのか、わからないことに次々と出会います。そんなときには、周りの大人がどうやっているのかじっと見ていました。しばらくじっと見たあと、ははん、というような顔をして手を動かし始めます。こちらも黙って様子を見ていると、そうそう、そうやればいいの、ということもあれば、ちょっと違うんだけどね、と思う場合もあります。折れた歯ブラシのように、そういう手があったかと、こちらが気がつかされることさえあります。しかし、一々とやかく言う必要もありません。

毎年毎年のおみがきを経て、古い輪灯には、角の丸くなっているところがあります。少々みがきかたがうまかろうがまずかろうが、あるいは今年1回がどうだろうが、それが積み重なって、“わら” で真鍮が削れていく。この輪灯に触れたたくさんの手――からだの、重さ、大きさを思います。

今年はそれに、私の子供たちの手も、加わりました。

合掌。

文頭


虚身体 (11月5日)

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今、「身体」というテーマについてかなり真剣に考えています。

一番大きな背景は、言語-論理的な抽象に対して、「身体的な抽象」ないし「身体という抽象」のようなものが提示できないだろうかという問題意識を持っており、それへの準備という位置づけです。なお、私の内においては、「身体的な抽象」がきちんと定位できたならば、その上に「称名――なもあみだぶつと称えるお念仏」が据えられるのではなかろうかというつながりになっています。

「身体」をとらえるにあたって、よく用いられるのは身-心という対比です。

私はそれに逆らっているわけではないのですが、「心」がきちんと定位されない限り、問題はただ先送りされているだけに過ぎないでしょう。私は「心」について、

身体というある総合的な出来事が、ある統一感を伴って持続しているとき、その統一感に着目したときの、身体の経験され方の一つ

とでもまとめられる理解をしています。つまり、身-心を、「身体という一つの出来事の二側面」ととらえていますので、ここでの問題意識には役立ちません。

養老孟司は、身体-脳という対比を持ち込んでいます。手垢がつきすぎてどこに問題があるのかが見えにくくなっている身-心と比べれば、一歩先まで進めるのですが、今の私の問題意識にとっての道具としては、やはりそこで止ってしまいます。ただ、養老孟司を通じて「身体(あるいは脳)の外に立つことはできない」ことがはっきりするのは、利用させてもらうことにします。

ところが、養老孟司にも関わらず、私は「私の身体を眺めている」かのような視点をも持ちえる。それはなぜか。ここで私は、身体-言語(論理)という対比を考えます。言語(論理)的な地平は、身体(身-心としての心も含みます)とは原理的に独立して、新たに拓かれるという理解です。

注:詳細は『いのちの位相』の、主に第三章を語参照ください。

身体の一部でもある脳は「言語器官」であり(言うまでもなく、決して言語器官「だけ」ではありません)、身体と同じレベルに位置づけられるのですが、その機能である言語活動は、身体(ないし物理的現実世界)とは異なる世界の出来事である。私はそのように考えているのです。だからこそ、「思考」は身体を「外」から眺めることができる。

最近、ちょっとしたことから「(情報にさらされつつ)世界に立ちつくす身体」という身体観に出会いました。

少なくとも表現として新鮮で、ハッとさせられる何かがあるのは事実です。情報に対する身体? 私のこれまでの考え方に、情報-身体という枠組みはありませんでした。

情報とは何だろう。「知っているつもり」だった「情報」を、しばらくその方向で考え直してみたのですが、情報-身体という新しい問いかけにとって示唆を与えてくれるものは見出せませんでした。(「情報」そのものは、別に整理しておこうと思っています。)

語感から推して、「情報化」ととらえ直した方が問題には近づけそうだと気がついたのですが、しかしそうしてみてみたところで、あまり状況は変りません。

大胆な「意訳」が必要だなという気がし始め、思い切って「言語化」と言い直してみました。すると、私の出会った新しい身体観は、「(体験を常に言語化し、その言語化によって安逸な居場所を限りなく削り取られていく中)自らの言語活動に反照されて立ち顕れる身体」とパラフレーズされます。

この〈身体〉に、主体性はありません。原理的に言語化が先行し、その極限において、言語化と「共に」顕れる身体です。

これは……そもそも身体と呼び得るものなのだろうか。田舎で生活し、子育てにおろおろし、素朴なご門徒の方々の生涯を見届ける「住職」でありたいと願い、しかしそのような中、特に言葉にする必要も感じない様々な手ごたえの中で生きている私は、ここでためらいます。

が、この「私にとっては」限りなく不可解に近い身体(観)に、無視しがたい数の方々が何がしかの共感を覚えているように見受けられるという事実、そしてもう少し正直に言えば、他ならぬ私自身も「どこかで」共感しているという事実から目をそむけるわけにはいきません。

「もの言えば 唇寒し 秋の風」――どこで覚えたかいつ覚えたか定かでない句なのですが、私の共感はむしろそちらに強い。それを確認しておくことを最後の保険に、私も、新しい身体を生きてみることにします。

私の語彙において、この身体(観)を、虚身体と呼ぶことにします。ただ、ここでの「虚」は実在に対する類のものではなく(つまり価値判断を含むものではなく)、基礎的な光学における実像・虚像の虚のように、「反照」された何か、のような意味合いです。

そもそも虚身体が「身体」たりえる根拠は何か。「何」が、虚身体を反照し、身体たらしめているのか。

ここで、リアリティーに行き着きます。

不用意に読むと何を言っているのかわからないだろうと思いますが、原理的に、リアリティーとはバーチャルなものです。少なくとも私はそう理解しています。私を離れて、「実在」するリアリティーなどというものはない。くり返し「体験」されたものは、それに応じたリアリティを持つ。そして、「体験」なるもの自体が実在とは無縁で、何がどのように味わわれたかということのみに立脚している。主観、というよりは、養老孟司の「脳」に頼る方がいいでしょう。実在などというわけのわからないものとは独立に成り立っている事実として、これをバーチャルと認めるならば、すべての体験はバーチャルであり、したがってリアリティもバーチャルなものだということです。

今回のテーマをまとめると、こういうことになります。

当人にリアリティが感じられるところには、「身体」がある。それが物質的な「生物体」と重なる度合いが大きければただ「身体」と定位して問題ないが、生物体とのズレが無視しがたい場合、必要に応じてそれを虚身体と呼ぶ。

「身体」の出自は、生物学ではなかった。得られた結論は(私には)かなりショッキングなのですが、幸いなことに、これまで私が住み慣れていた世界と、齟齬をきたすものではありませんでした。

今日は、合法は見送ります。(心の中だけで、合掌)

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枯葉ふぶき (11月9日)

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今年の草引きは完了ということにして、報恩講が終って後、いよいよ山の手入れに取りかかりました。

私が子供の頃、家族総がかりで雑木林を切り拓き、植えていった杉や桧が、もう随分大きくなっています。父が元気だった頃は、雪で倒れた若木を一本いっぽん起こし、間に茂ってくる潅木を毎年刈り払い、大きくなってくれば間伐をして枝打ちをしと、布教に出る合間は山につき切りで、こまめに手入れをしていました。

しかし晩年病気で弱ってからというもの、手入れに入る者がなくなり、台風で倒れた木はそのままで枯れ、いつも春にはワラビがたくさん採れていたあたりも次第に薮になってワラビも採れなくなりと、いつの間にか少しずつ、よそよそしく荒れた山へと戻りつつあります。

水源の見回りなどで年に数度といったところなのですが、山へ入るたび、荒れていく様子の目に入るのがつらく、何とかしなければと思っていました。山が可哀相だという気持ちに、父に対する申し訳なさが重なります。

予定では、秋になって涼しくなったら山の手入れにかかり、年内には一巡しようというつもりでした。それが思いのほか庭に時間を取られてしまい、この時期までずれ込んでしまったのです。

手に持つ草刈機では足場の悪い斜面での取り扱いに自信が持てず、新しく背中に担ぐタイプの草刈機を買いました。草刈機の歯も、いろいろな人に話を聞いて、とりあえず私に一番合いそうなものを少し奮発して手に入れました。地下足袋も、はき心地のよさそうなのを見つけていました。準備は、かなり前から整っていたのです。

まだ初心者が機械に、そして山に慣れる段階です。燃料タンクを一杯にして、それが続くだけ仕事をし、燃料が切れたら終りにします。一日に一時間強~二時間弱といったところです。

多少は石に当っても大丈夫、木でも竹でも切れるという、ダイヤを埋め込んだチップソーをエンジンで回すのですから、切れるかというものではありません。手首くらいの太さになっている潅木でも、要領がわかってしまうと、「チャン」という間に切り倒せます。足元も地下足袋のおかげで心配していたほど滑らず、こんなに楽でいいのかしらとかえって不安になるくらい軽快に、薮を払っていきます。

父は腰に鋸と手斧を下げ、柄の長い刈り払い鎌で、この山を手入れしました。一日の仕事が終ったらさらに、長い時間をかけて鎌を研いでいました。父がこの機械を使えていたらなあ……と、どこか胸が詰まります。

基本的には、植林された杉の下の薮を刈り払っているのですから、頭上は杉の木立、薮といっても笹やまばらな低木が中心で、足元には黒い土の見えているところもかなりあり、山と呼ぶには少しためらわれるような「無機質」な表情をしています。その意味では、私はきれいに植林された山は、どうも好きになれません。

しかし山の一角に雑木林のまま残っているところがあり、そことの際(きわ)は、風景が違います。ちょうどそのあたりを刈っていたときに、燃料が切れました。エンジンの音が止(や)み、とたんに静かになって、さぁて今日は終りにするかと上を見上げたところに――サァーッと風が吹いてきて――枯葉ふぶきです。視界が黄色くなるくらいたくさんの落ち葉が、バラバラバラバラ……と音をたてて、あたり一面に降り注ぎました。

再び静けさが戻ってきたとき、得体の知れないおののきに包まれて、立っていました。枯葉が――生きていた。春先の早苗や若葉に感じられる純粋無垢ないのちの発露とはまったく違う、重厚ないのちが、舞っていた。

あの枯葉たちの中には、確かに父がいました。そして、今は子の親である私も。

こういう形で、いのちは続いていくのか。死は生の裏側なのではなくて、死も生もいのちのほんの一部でしかなかったのか。これまで自分の「若さ」を通じて触れていた、輝ける如来のいのちが掻き消えて、おどろおどろしくも限りなく深く漠(ひろ)い、如去のいのちの姿を垣間見たような気がします。

(あの落ち葉は、来春の新芽の証だ。)

一つ、歳をとることができました。

合掌。

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無住処涅槃 (11月13日)

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「身体」に関する一連の考察の一貫として、「涅槃」について考えてみておく必要がありそうです。

単なる涅槃概念の整理ではなく、「身体」を中心に据えて涅槃を味わったとき、何かが浮かび上がってこないだろうか。直接吟味してみたいのは、有余涅槃-無余涅槃という対と、その次に来る無住所涅槃です。ただ、それらを配置していっただけではすき間が残る。

涅槃(ねはん)はサンスクリット語 nirvāa (ニルヴァーナ) あるいは俗語の nibbān (ニッバーン) の音写で、「煩悩の火が吹き消された状態」の意味です。いわゆる「さとりの境地」を指すわけですが、今注意したいのは、これは思想上の概念などではなく、本来、修行を通じて身に付けられた、ある「身心の状態」を表していたはずだ、ということです。

(私自身がそのような「行」を実践してはおらず、ましてや上の意味での「涅槃」を体験しているわけではさらにありませんので、このような話に踏み込むのは後ろめたさがつきまといます。が、それにはあえて目をつむることにします。)

このように涅槃を「身体的」にとらえてみると、涅槃が、すべての欲を、ただばっさりと断ち切ったというのとは決定的に違うことがわかります。人間は生きていかねばなりませんが、食欲を全否定すると、生命が維持できない。適度な精神的・身体的緊張とともに、休息も必要です。ここに、単なる苦行とは質的に異なる、中道が開けます。理屈の独走ではなく、現に生き、老い、ゆっくり死へと向っている自らの身体に、静かに耳を傾けて精神を共鳴させたとき、他の生けるもの・生きてきたものへの共感も拡がる。そのような境地であるに違いありません。

このように、体験され実践される涅槃を、有余涅槃(うよ~)と呼びます。このときの「余」は、もはや迷いを転生することはないけれども、最後の煩悩の拠り所、とでもいった響きで、つまりは具体的な生物体であるところの、私の身体を指します。

いよいよ私が私の生命の「分」を終え、死に帰していったとき、最終的な涅槃――寂滅が完成されます。この「身体を残さぬ」涅槃を、無余涅槃(むよ~)と言います。

有余 対 無余、話の筋は通っているのですが、何か変です。そもそも、涅槃は具体的な「実践」、すなわち身体に即してこそ意味があるのではないか? 身体を残さぬ涅槃? 確かに、概念上の「完成した涅槃」を投影するには適切であるとしても、どのように無余涅槃を実践すればよいのだ?

実は、おそらくすでにおわかりであろうように、有余涅槃・無余涅槃という捉え方は、大乗仏教が出現して後、大乗仏教の側からそれまでの仏教を(批判的に)眺めたときに生れたものです。

目の前の大きな課題に対して問題の所在が突き止められ、具体的な実践方法も確立されたとき、当初はいわば無限遠点に置かれ、到達されることの全く考慮されていない「目標(ほとんど、理想と同義語)」であったものが、通過点に変ってしまうことはよくあります。たいていの場合、このとき、何らかの矛盾が抱え込まれます。

ある者は、実際には通過点になってしまっている目標を、もう一度遠くに突き放して矛盾を避けるとでもいう対応を選びました。そのような、無余涅槃を理想として掲げ拘泥する姿を「灰身滅智(けしんめっち 身を灰にし、(こころ)を滅す)」と断罪し、それは利己的な虚無主義ではないかと批判したのが大乗仏教だったのです。

大乗仏教は、有余・無余涅槃の抱える矛盾に対抗するものとして、無住処涅槃(むじゅうしょ~)を提示しました。無住処とは、有余涅槃(ただし、実際には迷いの生死界の意に転ぜられている)にも無余涅槃(同じく、利己的な自分ひとりのさとりの意に押し込められている)にも(とど)まらない、という意味で、現実の娑婆世界にあっての利他的な拡がりをもつ実践を強調した語です。

確かに、標語としてはよくできている。ただ、今の関心は「身体」にあります。無住処涅槃を実践する身体とは何なのか。

無住処涅槃は、実は階層構造を持っています。現に「矛盾」を内に抱え込んでいるのですから、論理的にも、一層で整合性を保つことはできません。

無住処涅槃そのものの「身体」は、最終的に全宇宙です。無住処涅槃そのものの「身体的な」実践活動として、(私たちにとっての)現実世界の一切が定位されます。このような解釈に大きく重心をかけ、理の色合いを強く前面に出したものが華厳(けごん)思想であり、実践的な宇宙への帰一を前面に出すと真言などの密教につながります。

しかし無住処涅槃には階層を異とする「内部構造」がある。それを見失ってしまうと、「内」なる矛盾はうやむやのままほったらかしにされているだけになる。

無住処涅槃の「内部構造」における実践が、他ならぬこの私の上での、無住処涅槃の実践です。その「身体」は何か。

当然、その一面は、一切の精神的な活動も含めた上での、生物個体たる〈私〉です。しかし、無住処涅槃の内部構造における実践当体である限り、この「身体」には外面がある。この「身体」は、内において〈私〉と現われているだけでなく、外から言わば照らされ導かれて、〈私〉にはわからぬ何かを、〈私〉には見えぬ全宇宙に対して、語り出だしている。そこに、〈私〉には手の届かぬ「利他」行が実現されているはずです。

無住処涅槃の内部構造における実践当体としての「身体」が、実は(他力の)信なのではなかろうか。間違っているかもしれないのですが、「身体」をめぐる考察の現時点ではそのような気がしています。

後日加筆:上の、他力の信=無住所涅槃の(内部構造における)実践当体たる身体、では、間違いとは言い切れないものの、やはり多少無理があります。しかし、「名号(南無阿弥陀仏、という名のり)ないし称名(なまんだぶつのお念仏)」を「身体」ととらえて、少なくとも真宗教学的に問題はないということは確認できました。

合掌。

文頭


歴史 (11月17日)

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昨日が小学校の日曜参観日(私は法務があって参加できませんでした)で、今日は下の子2人の振り替え休日でした。何となくひょんないきさつから、2人を連れて、山に登ってきました。

山口県の防府市に、大平山(おおひらやま)という山があります。高さは 631m ですからそんなに高いというほどでもないのですが、海に近く、展望はいい山です。山頂までロープウェイがあり、今日は(ハイキングコースを歩いて、というのではなく)安直にロープウェイで往復しました。オフシーズンのウィークデイ、長野でのロープウェイの事故も関係するのか、ロープウェイはもちろん、山頂も私たち親子3人の貸切でした。(おかげで食事もできず、さっさと下りてこざるを得ないはめになったのですが。)

今日は何とも季節感のはっきりしない日で、日向で動けば汗ばむくらい、かといって当然春の気配はなく、日の光も中途半端、冬とはおろか秋とも言えず、何だか季節から隔絶されたような妙な気分でした。

実は、私もこの山に登るのは初めてです。山頂からは、眼下に山口県ではほとんど唯一の「平野」である防府の市街地が一望できます。徳山市もそして海を隔てた大分県も、思っていた以上に近くて驚きました。

新幹線、山陽自動車道、旧国道2号線、そして山陽本線と、山のふもとから海沿いにかけて、離れて並行して走っています。防府天満宮があれ、古い市街地があそこと展望しているうち、突然――山が話し出したような錯覚に襲われました。

山の声が聞えたわけではないのです。私がここにいて下界を展望していること、私の子供たちが小さな遊園地で遊んでいること自体が、ふと山の声のように感じられたのです。

とすれば、この山は今しばらく私の身体か。ならばしばし私の目を貸そう。

うちに2ついるうさぎの親の方が、いつの間にか私の歳を追い越しました。ゲージから出してやると喜んで飛び跳ねていた子うさぎ時代はとうに過ぎて、今では前足を折ってうずくまっている姿に貫禄があります。一方この山は、すでに子山ではないものの、どこか私自身よりも若い。

山に代って波のない瀬戸内海を眺め、はっと気になって背後の遠く高い山々を振り返りと、山が山なりにもつ業に私の目を貸していた最中(さなか)、やはり突然、あらためて山は山のまま私の尻の下にあることに思い至りました。何をしているのやら、遊んでいる気配だけが届いてくる子供たちの様子も、もう山の声には聞えません。

この私は、私たち親子は、この山よりも、歴史の長い業を抱えている。山に甘えていたのでは、この業は私のものにならない。

急に風が冷たく感じられ、同時にお腹もすいてきて、帰ろうか(下山してお昼にしようか)ということになりました。

如来の救済の目当ては、山でもうさぎでもなく、この私です。そのための五劫の思惟なのでした。それが、はっきりとわかりました。

合掌。

文頭


同じ土俵 (11月21日)

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少なくとも何かを表現する以上、一人でも多くの人に「同じ土俵」に立って欲しい。というより、一方的にこちらから締め出すことなく、より多くの人が立てる場にこそ自分のスタンスを求めたい。

そう思っています。

これまでは、論理的な客観性が、それを保証してくれると安易に思い込んでいたような気がします。〈宗教体験〉を書いたあたりから、微妙にかつ決定的に、何かが変わってきはじめました。

〈宗教体験〉を書いたこと自体が、ある行き詰まりからでした。

仏教を「表現する」にあたって、雑に整理した場合、二つの切り口があります。誤解の余地が大きいことを承知で一般的な言葉で言えば、「理」と「情」です。普遍性と個別性とでも呼びえる色合いが重なっていることは補足しておく必要があるでしょうか。

私は根が理屈屋で、情にはうといというか、「個別性」を信用し切っていないところがあると自認しています。というよりも、情の射程の狭さに耐えられない。

(そんな関係で、自分はいわゆる「子煩悩」な父親ではないと思っています。でも、列車の中で一度、歯医者の待合室で一度、全く知らないよその子が、私のひざの上に座り込んで「こここそ自分の居場所だ」と言わんばかりに居ついてしまったことがあります。おそらく私自身も含めて、本人も、その子の母親も、しばらく誰も気が付かなかった。私の母は、「あんたは子供好きよ」と言います。私には、私自身が私の父の股座(またぐら)に座り込むのが好きだったことは覚えているのですが、それ以上のことはよくわかりません。)

いろいろなことを「客観的に」勉強してくる中、不遜な思い上がりも込みとして、仏教の「理」の側面については急所はすでに押さえた、まだまだ不勉強な点があるのは当然としても、致命的に間違うことはあるまいと思うようになったのがかれこれ十年くらい前です。

事実それ以後、仏教の「教理」面について、大枠で間違っていた! と思ったことはありません。ただその分、実は何も「この私に届いていない」という思いが、真綿を締めるように、ゆっくりじわじわと、大きくなってきていました。

私は何を見落としているのだろう? どうすれば「情」にも届く理解ができるのだろう?

ある意味で、答は最初から知っていました。私は、そもそもの初めから、私自身の情の部分において仏教に触れており、理の方がむしろ後付けなのです。ただ、それを認めてしまうと、それまで組み立ててきたものが砂上の楼閣になってしまうのではないかと恐れていた。

とうとう理で支えきれなくなってしまったとき、ほとんど観念するつもりで、〈宗教体験〉を書きました。そして案の定、それまでの理の世界は、とたんに色あせ、落胆するに十分でした。しかし、おそらく何かが残るであろうことは、疑っていなかったのだと思います。

理の世界が色あせた後、確かに何かが残っていました。ただ、それが何なのかがわからなかった。

今、4ヶ月近くを経て、かついろいろ新たな思いも体験してきた中、それが言葉になりつつあります。理と情が出会うところ、それは「身体」です。

身体は、一方で、徹底的に「個別」です。個性の尊重などと大袈裟に振りかざしてみたところで、身体の持つ「個」性の前には吹き飛んでしまう。私は、そしてすべての衆生も、各自の身体において、生まれ、そして死んでいく。たとえ我が子の死であろうと、代ることはできない。

神による無からの創造を説くキリスト教にしても、まさにキリストにおける「受肉」という契機なくしては足もとをすくわれます。受肉を必要とせず、徹底して唯一神の超越性を掲げるイスラム教においてすら、預言者マホメットの身体なくしては私に届かない。

「身体」がどのように解釈されどのような位置づけを与えられているのかは、一切問わないことにします。その上で、私たちが身体において(肉体という牢獄において…)のみこの生を引き受けていること、その徹底した個別性こそが、実は一番大きな「同じ土俵」なのではないか。

それを受け入れてもらえたとした上での、これは「仏教」しかも阿弥陀教独自の立場でしかないのですが、お名号=南無阿弥陀仏は、如来の救済の身体なのでした。目で見ることも手でつかむこともできませんが、耳に聞える「声」として触れることができる。その一過性。その個別性。しかも、「私」が触れえるお名号という「身体」は、そのまま全宇宙の「私に対する」顕現でもあります。私が私の口で称えるお念仏に、私の父が、私の子供が、要するにすべてのいのちが、「触れえる」姿で現れている。

その有難さに、涙しています。

なもあみだぶつ。

文頭


回り道 (11月25日)

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旧鹿野町の中心部から長久寺を目指すと、平地から谷あいへと分け入る取りつきに、長い坂道があります。500m 近く真っ直ぐ上って、山と山の狭間に吸い込まれていきます。

ここを、鬼ヶ峠(おにがたお)と言います。

私が中学生のときは、舗装もされていない 5km の道のりを、毎日自転車で通いました。中1の最初半月くらいはこの坂を自転車に乗ったままのぼることができず、自転車を降りて押してのぼるとライトが消えてしまい、心細い思いをしました。

(住職である私が言うのも変ですが、坂の天辺から右にそれた奥には火葬場もあるのです。先輩は「キツネに化かされた」話をするし、それが怖くて頑張って、一月も経つ頃には乗ったままでのぼりきることができるようになりました。)

後日、ここが「鬼ヶ峠」と呼ばれる本当の理由を、村のお年寄りに聞きました。

子供が病気になり、おぶって町の医者へ連れて行くとき、もう少しで町の灯も見えるというこのあたりで、背中の子供が冷たくなってしまっていることが多かったのだそうです。

坂をのぼり切ると小さなため池のほとりに出、そのため池の堤にそって急な逆S字に曲がって、かなり切り立ったがけ沿いの道に至ります。10 年近く前にこのがけが崩れ、幸いけが人などはなかったのですが、それ以後ずっと、がけの補修と道の整備の工事が続いています。

最近になってようやく、仕上がった道路がどうなるのか輪郭が浮かんできました。堤の両側を埋め立て、がけを削って、急なS字のカーブがゆるやかな曲線に変ります。ここのS字は飛ばして走るとき切り返しのポイントがつかみにくく、若い頃は何度か冷や汗をかきました。(ここで事故をした地元の人は少なくありません。)道が出来上がったら、これまでとは比べようもなく走りやすくなりそうです。

慣れていたために何とも思わなかったこれまでの曲がり具合の「不自然さ」が意識されるようになると、何と無理な迂回をしていたのかと、しばらく腹を立てました。私だけでなく、車の運転をする地の人はみんな同じことを口にしています。

今日も急ぎの用事があって飛ばしぎみにここを走ることがあり、えいクソ、早く完成せんかい! と心の中で毒づきながら、突然「鬼ヶ峠」の意味を思い出して身震いがしました。

この道を歩いて辿った人たちと比べて、私は何と悲しくも離れてしまったことか。

車で走る上での都合の方を「自然(あるいは、スムーズ、気が利いている……)」と思い、それに逆らう地形を「無理」と感じるようになってしまっている不自然さは、この地を「鬼ヶ峠」と呼んだ、生きることに必死であった人たちの思いを前にすると、何とも情けない限りです。

人生に回り道などない。私たちの心は、自動車のように物理法則に従って動いてはいない。山に拒まれ、がけに遠慮して、迂回して歩き、泣きながら歩き続けてこそ、歩き通したところに、心の動きのついていける道が残る。そういうことではないのか。

私の前には、阿弥陀如来が五劫の時間をかけて開いてくださった、いのちへと通ずる道が開けています。

合掌。

文頭


旅人 (11月29日)

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ちょっと急用ができて、徳山にも止るようになった「のぞみ」を使い、東京まで行きました。乗換えなしで 4 時間 20 分、快適というよりはどこか不気味です。

目的地が定まっていて、そこへ着くことが関心の中心であるとき、それは移動です。移動が前景に出てしまうと、身体は荷物と同じになってしまう。できるだけ効率よく身体を運ぶこと。それが必要であったために「のぞみ」を使ったのですが、まさにそこが違和感を覚えた点でもありました。

旅とは何なのだろう。

自然な連想として、そう考えました。人生は移動なのだろうか旅なのだろうか。

私自身の感覚がどこまで(かつ、どの範囲で)一般的かわかりませんが、自分の人生を移動と片付けたのではさみしいし、かといって旅と呼ぶにはためらわれ、どうもどっちつかずです。

そもそも「人生」そのものを、そのように全体としてイメージする機会自体がほとんどなくなっているように思います。私がまだまだ若造に過ぎないことを別にしても、世が世ならば、もう少し真剣に考えざるを得ない機会が多かったのではなかろうか。

「人生」として全体をくくることを度外視してしまえば、私の生活は思いのほか、単なる「移動」の繰り返しに近づいているような気がします。それが正直な感想です。たとえば「人生設計」などという言葉がありますが、時刻表を調べて乗る列車を決めるのと、大差なくなっているのではなかろうか。本来、人生という言葉と設計という言葉とが、自然に寄り添うものでもないはずです。

私の感覚や実情がどうであれ、やはり、人生は旅になぞらえられるべきものなのだろう。

私は、ときに意気揚々と、ときにとぼとぼと、私自身の人生をたどる旅人にすぎない。何の新鮮味もない言い古された形容ながら、あらためてそのように受け入れてみると、やはりしっくり身に添うところがあります。

と同時に、重さも重くなる。決った通り何もかも快調に進むわけではない。降る日もあれば照る日もある。でも、それではじめてかけがえのない私自身の人生なのでしょう。やはり、その時そのときを引き受け、自分の足で歩んでいくしかない。

それを見越して、寄り添ってくださっているのが如来の慈悲なのでした。

合掌。

文頭