自然科学 (7月1日)

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「宗教」の側から見る自然科学(ないし科学技術)は、少し独特です。

全般に、自然科学を「仮想敵国」のように語られる方が多い。昔はお寺のご住職だけかと思っていたのですが、以前ちょっとしたご縁でキリスト教の教会にお寄りしたとき、牧師様(お若い方でしたが)が同じような語り口でお説教なさっていたのに出会って、どこもあまり違わないのだなと納得しました。

「理系」「文系」という分け方があります。以前は、日本の大学の入試制度、およびそれに連動した高校のカリキュラムに独自のもので、実体はないと考えていました。実際、一般論として、同じ文系といっても、文学部の人間と法学部の人間はそりが合わず、文学部の哲学科にいた者としては、むしろ理学部の学生との方がよほど波長は合いました。

最近、少し考えが変ってきています。理系・文系という分け方は離れるとしても、「自分」の位置づけ方に、やはり大きな個人差があるようです。

あるタイプの人は、何かを考えるとき、対象を突き放して非常に「くっきり」ととらえます。場合によっては「論理的に」と言えますし、もっと理系的になれば、「定量的」にとなります。いずれにせよ、そのように対象を見ることに慣れていない者からすれば、ドライな見方になります。

一方、あるタイプの人は、何を考えるにしても感覚的です。自分にどのように関わってくるかということが常に中心にあり、話が一般化されません。共感できる人にとってはリアリティーが持ちやすいのですが、外部の者は疎外されたまま置き去りにされてしまいます。

宗教を考えるとき、「自分」を抜きにしては問そのものがほとんど無意味になってしまうのは事実です。その限りにおいて、宗教を問う(宗教に自分を問う)者は、第一義的には後者である必要があります。

しかし、そこにとどまっていていいのだろうか。

自然科学の個々の内容については、何より知識・技術が伴いませんから、それぞれの専門家に任せるしかない。しかし自然科学そのものが、仏教の言葉で言えば、人間の業(ごう)から一種必然的に生じてきたものです。その吟味は、むしろ専門の自然科学者「外」の者がするべきことでしょう。

自然科学が明らかにしてきた多くの「事実」の説得力と、それに伴う科学技術の「強力さ」は、ある意味、素直に受け入れる以外にありません。まさに、知は力です。

現在、私の個人的な思いを込めて言うならば、「分不相応な」力を手にしてしまった人間のあり方を、「私」は引き受け問わなくてはならない。自戒を込めて、そう考えます。自然科学を「人事(ひとごと)のように」批判的に語ることは、現実としてある「人間」の知の、すなわち苦悩の、拡がりを無視した怠惰さに他ならない。

経典をひもとき教義を洗練するのは、「専門家」としての各宗教者の仕事です。しかし、現実に日々を「生きる」ことは、すべての方々に直接関わる問題です。いっしょに、考えてまいりましょう。

合掌。

続信 文頭


 (7月7日)

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雲の様子が変りました。案外、梅雨明けが近いのかもしれません。

今日は七夕、乙姫様・彦星様には残念なことに(もっとも、雨が降るのも雲がかかるのも下界のみの話、雲の上は関係ないのかしら?)、山口県東部では朝夜明け前から雷を伴う大雨で、日中は降りはしなかったもののとにかく蒸し暑く明るい曇り、夜にはまた土砂降りという一日でした。

そんな中、夕方の一刻、たまたま私がその時間帯に気がついただけなのかも知れませんが、蒸し暑さは変らないものの空が晴れ渡ったときがあり、浮かんでいる雲がもう夏の雲でした。

あんな雲ができるということは、地表の温度はかなり高くなっているはずです。海の上のことまではわかりませんから、北太平洋高気圧が今どんな状況なのかは知りません。でも、雲の様子だけからすると、空の上はもう夏になっているように思えました。

今年の梅雨は、本当によく雨が降ります。近くの、「水没したはず」の橋の橋脚が例年見えている小さなダムが今年は梅雨に入る前から満水で、こんなに長くあのダムが満水状態であるのを見た覚えがありません。今日の夜明け前の豪雨の濁り水は満水の水に押し返されて、ダムのかなり上流で止ったままになっていました。

雲というと、うちの二番目の子(現在小6)の名前は「遊雲(ゆううん)」といいます。孫悟空や、ビッグコミック・オリジナルという隔週のマンガ雑誌に連載されている「はぐれ雲」を連想される方が多いのですが、名づけた方は雲に煩悩のイメージを重ねていました。

親鸞聖人の主著『教行信証』(正式には『顕浄土真実教行証文類』)の行巻末にあるのが、浄土真宗での勤行によく用いられる「お正信偈(正信念仏偈)」です。その一節に、

摂取心光常照護   (摂取の心光、つねに照護したまふ。)

已能雖破無明闇   (すでによく無明の闇を破すといへども、)

貪愛瞋憎之雲霧   (貪愛・瞋憎の雲霧、)

常覆真実信心天   (つねに真実信心の天に覆へり。)

譬如日光覆雲霧   (たとへば日光の雲霧に覆はるれども、)

雲霧之下明無闇   (雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。)

とあります。私は、特にこの末尾二行が好きです。私の心から煩悩の雲が晴れることはないけれども、空に如来真実のお天道様がある今、雲の下は闇ではなくて明るいではないか。

今、実はもう数分で日が変ろうとしており、この内容を七月七日付けにするのは多少まずいかな、というところなのですが、外はまだ雨です。

私の煩悩の雲は、梅雨には梅雨のように、夏になれば夏のように、私の心に覆いかぶさっていることです。

合掌。

文頭


臨終 (7月11日)

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ご門徒の方が亡くなられたという報せを受けると、住職はすぐに「臨終勤行」に駆けつけます。

俗に、「枕経(まくらぎょう)」とも言います。しかし枕経という呼称では、「早うお経を読んでもらわんと、成仏ようせん」といった類の俗信を助長しかねず、できるだけ正式な名前で言うように心がけています。(後日補足:浄土真宗以外の宗派では、「枕経」も正式な呼称であるようです。)

浄土真宗の立場では、「臨終勤行」は、いまや死にゆかんとなさっている方と「ごいっしょに」お勤めする最後の仏事ということになります。言い換えると、「まだ亡くなっていらっしゃらない」とお扱いさせていただいているわけです。

一見、無理なこじつけのように思えます。しかし「臨終」という言葉の意味をていねいに考えてみるならば、あながちそうでもないことに気付かされます。

そもそも、臨終=死でしょうか。もう少し論点をしぼって言うならば、「死」とは時刻の確定できるような出来事なのでしょうか。

確かに、法律上「死亡時刻」は必要です。現在の日本では、少なくとも一般の感覚として、心臓が止ったときを「死亡時刻」と受け止めていると思いますが、医者をしている友人の話に、心電図が平坦になって、「ご臨終です」と告げたあと、思い出したように心臓がぴくっと動くことはよくあるそうです。心電計の電源が入っているとご家族の方はうろたえますから、看護婦が宣告と同時にスイッチを切るのだとのことでした。

医学の話を離れても、死は、けっして当人だけのものではありません。死を看取り受け入れていかなくてはならない残された家族も共に、大切な人の死を死んでいくのです。

臨終は「終りに臨む」と書きます。生と死を隔てる峠道のようなものがあるとして、もはや後戻りのできないところがどこかにあり、そこを過ぎると生物学的な個体としては「死」の側へとただ下っていくことになるのでしょう。そうだとしても、「終り」はいきなり完了するわけではありません。その持続している「終り」という出来事に臨んで、ご当人の死を共に死ぬ。それが、「ごいっしょに」お勤めするという意味です。

そして「臨終」を拡大解釈するならば、臨終でない生の一刻などあり得ません。生きることは、そのまま死につつあることです。ただ、私たちは自分のこととなると、わかっているつもりでろくに見てすらいない。本当に臨終を身に知るには、悲しいことですが、近しい人の死に直面する以外にないのでしょう。

合掌。

文頭


平常心 (7月16日)

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「平常心」という言葉があります。

『広辞苑』(第五版)には、「普段どおりに平静である心」 とあります。一般的な意味としてはその通りでしょうが、自分の問題として考えたならば、上の意味では大きな間違いがあります。

要は、「自分の『平常』は『平静』か」 ということです。

高校生の頃、何事につけ動揺する自分がイヤで、平常心を養おうと努力したことがあります。今になって思えば、たとえば禅などで言う平常心(禅では「びょうじょうしん」と読むこともあります)ともまったく異なる、向きの狂った努力だったのですが、半年ばかり経って、「これは自分の心を石にしようとしているだけだ」と気がつき、何も得られないまま挫折した覚えがあります。

それ以来、久しく忘れていました。ところが最近になって、ちょっとしたパニックの最中に、そうか、これが平常心だったのかと突然思い至りました。

動揺しているとき、それを隠して平静であろうと努める。苦しいとき、それから目をそらせて苦にしていない風を装おうとする。何のことはない、それこそがより大きな動揺ではありませんか。

パニックの最中、やれやれ、いつまで経っても凡夫は結局凡夫よのう、と自分のことを味わえている自分――私にはそれは、自分のというよりも、如来様の眼差しに感じられましたが――に、ふと気付かされた。

うろたえたときはうろたえればよい。苦しいときには苦しめばよい。悩むときには安心して悩むがよい。それが「私の」平常心であった。

結局、自分で自分がどうにかできると思っているからうろたえる。無始以来の凡夫根性が変えられるはずもない。そのままに抱きしめ、そのままに任せるしか術(すべ)がない。

やっかいなことに、そのままに任せたら少しはましな人間になれるかな、などとスケベ心が残っている間は要するに任せきっていないわけですから、ましな人間にならないのはもちろん、楽にもなりません。だらしないだけです。

任せられるから、任せる。それでよい。その微妙で揺るがないバランスが、お念仏です。称名の「称」の字は、「(てんびんや棒の)はかり」の意味なのでした。

合掌。

文頭


仕切り直し (7月19日)

前信  HOME 一覧 前へ 次へ

「浄土真宗聖典」のコーナーを新装公開し、弊寺 HP も新局面を迎えました。 (後日補足:'04年夏以降、上記コーナーはそれまでのテキストファイルでの提供から WEB 対応にさらに改装しています。)

実は、私は本来 HP 開設にあまり積極的な方ではなく、相談を受けたりアンケート調査があったりするような場面では、むしろ否定的な意見を述べてきていたのです。

それが、聖典の脚註入力作業を分担して進める上で、進行状況を(準)リアルタイムに共有する必要から、急作りで立ち上げ、最初は「おまけ」のつもりで多少他にも手を広げて動き出した、というのがこの HP の出発点でした。

今、当初の必要業務は完了して次の段階に進んでおり、結果的に「おまけ」の部分のみが残っているという状況です。同時に、私の生活の中で HP の存在が重要なウェイトを占めるようになってきています。

『宗報(浄土真宗本願寺派の全国規模の機関冊子)』の最新号によれば、東京に住んでいる人の4割がひとり暮らしなのだそうです。それを所与の現実として受け止めたとき、インターネットを通じた「宗教」活動の可能性はもっと認めてもよいのでしょう。

私が HP の開設に積極的でなかった理由は、開設するのは簡単だけれども、維持していく労力は大変ですよ、という点に尽きます。私自身、そこに自信が持てなかったために、HP の立ち上げはずっと考えずにいました。

瓢箪から駒を地で行く HP の管理を 3ヶ月続けてきて、案外、何とかできるかなと思い始めています。また、個人的にご法義の味わいについての新しい体験があり、それを吟味・洗練していく上で、私自身がこのような場を必要とし始めてもいます。

そのような事情がからむ中、当 HP の位置づけに対する気持ちを改めて、あらたに再出発しようと思います。もっとも、表向き、そんなに大きな違いにはならないだろうという気はしますが。

カウンターもつけておらず、どのくらいの方にご訪問いただいているのか住職はまったく知りません。ある意味、それは知りたくない(そういった側面に振り回されたくない)という思いがあるのは事実です。しかし、自分に対する問いかけがそのままなにがしかの社会的な表現になり得るというのは、正直に言ってありがたいことです。袋小路に頭を突っ込んで、身動きできなくなってしまうことが最初から回避できているのですから!

ここに仕切り直しの宣言をし、これからはもう少しだけ大胆に、様々なことにぶつかり、いろいろなことを考えてみようと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

合掌。

文頭


抽象 (7月23日)

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ある全体的なことがらに接したとき、その一部分に焦点を当て、それでもって当初の全体を代表させる営みを、広義に抽象と呼ぶことにします。

狭義には、概念的な思索においての出来事です。その場合、抽象は必ず捨象と裏表になり、具体と対になります。

言葉、ないしなにがしかの記号(シンボル)を出発点に据える論理学(あるいは形式的な思考)が、抽象の一形態であることは間違いありません。ギリシャ以来の伝統をもつ〈西洋〉がそこに軸足の少なくとも片方を置いており、現在の自然科学がその延長に位置づけられることも、細かい吟味を省略して認めることにします。

今考えようとしているのは、〈西洋〉で言う抽象とはまた別の、抽象のあり方があるのではないかということです。

仏教では、その出発点から「言葉」に重きを置いていません。〈西洋〉的な発想を基準にすると、その時点で仏教は原始的であり、十分に洗練されていない(普遍的たり得ていない)ことになります。本当にそうか。

仏教にも、専門的には因明(いんみょう)と呼ばれる「論理学」があります。しかし端的に言って、〈西洋〉におけるように因明が表に立ち、それ以後の人々の生き方を牽引するといったはたらきはしていません。むしろ、インドにおいてはヨーガの伝統に引き戻されてヒンズー教の中に吸収され拡散し、中国においては仏教自体が一方で禅、他方で浄土教という形で展開していったという「事実」に注目してみたいと思います。

(なお、念のために断っておくならば、私は〈西洋〉における「形式的な思考」を批判・否定するつもりはまったくありません。そこに大きな問題があるのは事実としても、それは人事(ひとごと)ではなくそのまま私の抱えている問題です。むしろ、それに対して少なくとも思考実験の場を提供できるくらいまでに、仏教における思考方法を表現/体現/具現してこなかったこれまでの「仏教者」の怠慢の方を強く意識しています。

さらにもう一点補足しておくと、仏教「内部」においては、今後、場合により意図しない他宗批判が入り込むであろうとは覚悟しています。私は浄土真宗を仏教のもっとも「純化」された姿と受け止めており、浄土真宗以外の仏教をすべて、浄土真宗に至る「過程」として捉えています。不毛な喧嘩を売ることはないと信じますが、ここに私のスタンスを明言し、万一の場合の問題の焦点をはっきりさせておきます。)

言葉が全面的に信頼されていない文化背景において、論理が最終的な説得力を持つはずがない。私個人の、素朴な思いです。では、仏教は言語化以前の段階に留まる、洗練されていない土着の思想でしかないのか。

私が仏教者を公言している以上、公平な説得力は持ち得ませんが、私は自分自身を、少なくとも一般的な日本人よりは「形式的な思考」を内面化している者と自認しています。(簡単に言えば、日本人離れして理屈屋だということです。)また、詳細は省略させていただくにしても、私は仏教に帰依するよりも先に、真剣にキリスト教における洗礼を受けることを考えたことがあります。(キリスト教神学における「無からの創造」についても、最低限の追体験をしていると考えています。なお、これを言ってしまうと、今度はキリスト教徒の方に失礼にならないよう十分な配慮ができるかどうか心許ないのですが、私は「無からの創造」を論理・言語的な出来事と解釈しています。)

あちこちへの「言い訳」ばかりに気が向いてしまって話が進みません。言い足りない点には目をつむって、今日の論点を言い切りましょう。

私は、厳しく形式的な論理をつきつけられてなお、逃げとしてではなく真っ向から受け止めることのできるだけの、ある「抽象」的な支え――枠組み――が自分の内にあることを実感しています。それを、「身体的な抽象」として提示したいと思います。

今後、一方で武道などにおける「型」の話、あるいは「躾(身が美しいと書きます)」の話、他方で端的に只管打座(しかんたざ)をうたった曹洞禅に照らしての浄土教の「称名」の位置づけなどを考えてみようと思います。今日は話の概略の紹介に留めさせていただきましょう。

合掌。

宗教体験 行為・業   文頭


宗教体験 (7月27日)

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私はこれまで、宗教を語るとき、宗教体験に触れることを一種タブーにしていました。

この HP だけの話ではありません。思えばここ 20 年ばかり、そうしていたように思います。

なぜ、と問い詰められるとかえって言葉に詰まってしまうのですが、一つには宗教「体験」の個別性が、能(あた)う限り一般的に議論したいという思いとぶつかるからであり、もう一つは「宗教」体験の持ちえる有無を言わせぬ説得力が、他の議論に蓋をしてしまうのではないかと警戒していたためだろうと思います。

この歳(住職は満 46 歳です)になって、やっと考えが和らいできました。何もかもを宗教的な体験の上に載せてしまうのは行き過ぎにしても、宗教体験に触れることを避けていたのでは、宗教の全体像は語れない。

たとえば、一般向けの物理学や数学の啓蒙書があるとします。少し前までは、「数式を使わずに」書くというのが一種の流行というか、そうでなければ暗黙の前提になっていたような印象がありました。ところが最近、数式を使うことを恐れずに、しかし読んでみればとてもわかりやすいものが出始めています。

注:講談社ブルーバックス『熱とはなんだろう――温度・エントロピー・ブラックホール……』、講談社現代新書『文系にもわかる量子論』、など。

数式は、門外漢にとって、確かに最低限の素養というか、「新しいものを受け入れる」だけの気持ちの柔らかさを要求します。しかし、本来素人を遠ざけるためのものなどではなく、ある特定のリアリティを表し支えるために、代替の利かない必然性をもって使われているのです。

簡単に言うならば、数式を全く使わずに物理学や数学を伝えるのは、水に入らずに水泳の気分を味わってもらうことに劣らず、できないことなのです。水に入るのが怖い人は、水泳の気分を味わおうなどとは、ましてや自分にも水泳の気分を味わう「権利」があるなどとは、思わないことです。

これまで勝手に自分にたがを締め、必要以上に窮屈に考えていたことが今になってわかるのですが、宗教体験は必ずしも神秘体験ではありません。そもそも、「体験」でしか支えられないものとは、詰まるところリアリティのみといってよいのではないかと思います。

机の上での勉強がそのまま「体験」につながりえるような世界もあります。人間の脳自体が、触れ続けていることに対してリアリティを持つようにできているのです。何かを考え続けていれば、それは実体感を持ちます。リアリティは、感じられたところに、ある。それだけです。そして、当人にとってリアリティの伴う出来事は、すべて体験と呼びうる。

私は、仏教を生きています。日々刻々、仏教を体験しています。

思い切って言葉にしてみてやっと楽になったというのが実情なのですが、そんなに大それたことではありません。たとえば一家の主婦が、日々刻々家事に追われ、家事の中にリアリティを感じつつ生きていらっしゃるとすれば、それと同等な出来事です。

ひっくり返して言えば、仏教も、家事と同じくらい簡単に(?)、生きられるものであり、生きなければ無意味なものなのです。

上の「無意味」は、「無価値」の意味ではありません。最初から読み直していただければ当たり前のことを繰り返しているに過ぎませんが、ここでの「無」意味は、実感が伴いませんよ、というだけのことです。

主婦に主婦の「生活」があり、物理学者に物理学者としての物理学生活があるように、宗教に問うている者には宗教生活があります。

なければならない、という条件ではなく、事実として、あります。

世界的な数学者であろうと、地方の中学校の数学教師であろうと、数学体験は、ある意味同等に、あると思います。というより、数学体験とは本来そのようなものなのではないのか。

宗教体験も、同様です。

合掌。

文頭


行為・業 (7月31日)

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前々回の「抽象」、前回の「宗教体験」に続く第一次の総括として、「行為」を取り上げます。

身体的な抽象とは、たとえば「考えなくてもよくなった」行為のことです。

自転車に乗れるようになったとき、「乗れた!」という浮揚感の中に、それまで未知であった新しい身体的な世界が拓けます。「新しい世界」が現成している限りにおいて、これを抽象ととらえることができるのではないか。

逆に言うと、新しい世界が拓かれていない行為、考えつつその時そのとき選択して行動しているような行為や、反対に単に日常の中に埋没しているだけの行為は、抽象には触れていないことになります。

論理-言語的な抽象の核心を、私は、何かをこうだと言い切るときのような「同定」判断にあるとみています。それを身体的な抽象へも推し拡げるならば、抽象とは詰まるところ「(自己)同一性のシフト」と捉えられるでしょう。

抽象を考えるときの問題点の1つは、どこでストップをかけるかということです。「一番大きな自然数」が確定できないように、次、また次……と抽象していく過程には、原理的に終りがありません。

論理-言語的な抽象であるならば、どこかで再帰的な、つまり自分を規定するのに自分自身を参照する、同定判断が下されます。A is B、B is C、…… という系列の中に X is X が組み込まれたとき、存在 (being) が浮かび上がります。X is. 「Xは存在する」。デカルトの I think, therefore I am. 「我思う、故に我在り」 もその具体例です。

身体的な抽象では、同一性のシフトは、イメージ的な自己の拡大という姿をとります。途中経過をはしょってしまうならば、最終的には私(の身体)が宇宙全体に拡がったとき、より正確には宇宙が「全体」として実感されたとき、系列が完結します。梵我一如。いわゆる神秘体験です。

あらためて眺め返してみたとき、仏教は常に身体を要(かなめ)にしていることに気がつかされます。ただし、身体-行為は「業」として抽象されており、さらに、業を考えるときの重心は意業(心に思う業)に置かれますが、私はこれを「(脱身体とは逆向きの)意識の身体化」といった方向の抽象と味わいます。

浄土真宗では、表向き、直接身体に関わる「行(ぎょう)」を説きません。信心正因、ご信心ひとつで救われる、でおしまいです。では、身体は捨象されてしまっているのか。そんなことはありません。業として抽象された身体-行為が、一方で阿弥陀如来の「大願業力(だいがんごうりき)――救済のはたらき」として成就して、「平生業成(へいぜいごうじょう)――私の毎日の生活に現れた救済の保証」と私を支えてくださってあり、他方でいただかれたご信心は具体的なお念仏、「称名」に具現しないことには無意味(実感を伴って味わえない)ではないか。

称名は浄土真宗における宗教体験です。「なもあみだぶつ」と口にするという行為に行としての価値があるという意味ではなく、称名において、私の業と阿弥陀如来の業とが結ばれ、「身体的な抽象」が実現するのです。

合掌。

文頭