他力の信 (11月3日)
この者は間違いなく仏になる、私が必ず仏とすると、如来に信じられているのが、他力の信なのでした。
罪業 (11月7日)
如来の大悲に抱かれてみると、私の抱える罪業こそが、よろこびの種でありました。
むだ (11月11日)
むだと無は、違います。
無からは何も生れてきませんが、むだはすべての営みの陰であり、それを裏で支えているものです。
熟柿 (11月15日)
葉の落ちた枝の先に、熟柿が残っています。
カラスにつつかれて身は裂け、よく見れば中は空洞で、ほとんど皮だけがぶら下がっています。種はカラスが運んでいってくれたのでしょう。
ふと、親の姿を見たような気がしました。
夢 (11月19日)
「夢」という言葉が、ほとんど無条件によいもののように語られだしたのはいつからなのでしょうか。
人に夢で、儚(はかない)と読みます。実際の生活が有無を言わせぬ重さを伴っているときには、それに素朴にうなづけます。
如来は、夢を見させてくださる方ではありません。夢に頼らなくても、泥臭い日常をそのままに、喜べるようにして下さるお方なのです。
御恩 (11月23日)
御恩とは、「私のために為されたことを知る」 という意味です。
この私を凡夫のままに仏にせんという御苦労が胸にこたえたとき、報恩のお念仏がこぼれるのです。
衆生 (11月27日)
久しぶりに、「人ごみ」に遭遇しました。
衆生という言葉を連想して――人ごみという表現の底の浅さに気付かされました。
阿弥陀如来のお慈悲の前に、人ごみなどありません。衆生なのです。そして衆生の「代表」が、この私だったのです。