風 (10月1日)
朝夕は、風が肌寒くなってきました。そう言えば、今日から衣更(ころもがえ)です。
そよ、とでも動かなかったら、風はわかりません。いえ、動かない風は、風ではありません。
如来の願いも、私の心を動かしてこその願いです。いえ、私の心に響かぬ願いは、まだ願いではないのです。
秋の風に、あなたの心はどんな音色ですか。
味 (10月5日)
何かが真底味わわれたとき、その味わいは私を変えます。
人に本当に伝わるのも、私の味わった味わいだけです。
触 (10月9日)
ものを「見る」とき、私の我が大手を振るいます。何かに耳を傾けて「聞く」とき、我は静まります。何かが私に「触れる」とき、我はほぐれ、拡がります。
如来の光は、目に見る光ではなく、衆生に触れてくださる光です。
力 (10月13日)
釣り合わない力は死へ至り、釣り合った力は支える働きとなります。
仏 (10月18日)
仏とはいのちです。
ただ私が生きているだけのことであるならば、それは煩悩が燃え盛っている姿にすぎません。「いのちを大切に」などという標語は、一見まともに見えるけれども、ろくなことを言っていないので無視する方がよい。
反対です。いのちに大切にされているのが、この私の煩悩なのです。
霧 (10月22日)
鹿野(かの)は高原の盆地で、この時期は霧がよくかかります。
今朝も濃い霧、町中がミルクの中に沈んだような静けさです。車はヘッドライトを灯(つ)けて走りますが、霧の朝は決して暗くありません。霧の一粒ひとつぶが鈍い光を出しているような、底明るさがあります。
子供が、「霧の日は晴れちょるんよねー」 と言いながら学校へと出て行きました。
言われるまで気がつかなかったのですが、確かにその通りです。
乾き (10月26日)
昨夜、ちょっと考えたいことがあり、手慰みに手酌で飲んでいたお酒が過ぎて、明け方のどが乾いて目が覚めました。
まだ暗い中、コップ一杯の水を飲んで(鹿野の水は、そのままミネラルウォーターとして売れるくらいのいい水です)、からだが安心していくのを内側から感じました。
のどの渇き、情の乾き、いのちの乾き……。
ここのところ雨が降らず、地面がバリバリに乾いて、草引きに難儀しています。雨が降らないのは、地上だけではありません。いのちの水やりもお忘れなく。
無事 (10月30日)
波風立たず、平穏であるのが私にとっての無事。