鐘 (9月4日)
気のせいか、雨の日など、湿度の高い日の方が鐘の音がよいようです。
カラリとした過ごしやすい日には、「カァーン」といった感じで甲高く響き、重々しい「ゴォーン」になりません。
寺の鐘は「ご恩、ご恩」と鳴るというのは古くからの説教話ですが、ご恩が響くには毎日の生活での苦労が不可欠なのでしょうか。
秋色 (9月9日)
梅の葉が、もう散り始めています。
今年は夏が涼しく、9月に入ってから(特に西日本では)しばらく暑い日が続きましたが、やはり季節は着実に移り変わっています。めっきり日が短くなってきましたし。
元気な盛りは短い。いずれ老いていく身の上、さらには老少不定の定めあり、です。後生の一大事――秋の準備はいかがですか。
海 (9月14日)
下の子二人を連れ、テントを持って、一泊のキャンプに行ってきました。
当てもなく出かけたのですが、結局周防大島からもう一つ橋を渡って、沖家室島(おきのかむろじま)まで行きました。大島は金魚のような形をしており、その「金魚のふん」と呼ばれている島だそうです。海辺の草むらにテントを張って、暗くなるまで遊び、翌朝には帰ってきました。
天気に恵まれ、静かな海でした。
親鸞聖人は海がお好きです。一味の鹹味(かんみ)であるばかりでなく、海は平らかでした。星明りの下、堤防に親子三人座って静かに拡がる海を眺めながら、本願海の隔てのないお救いを思ったことでした。
彼岸花 (9月19日)
9月になってから暑い日が続いていましたが、さすがに涼しくなってきました。
長久寺は文字通りの山寺、朝方は半袖では寒いくらいです。真昼に外で仕事をしても、かく汗の量が桁違いに少なくなりました。
一週間ばかり前から、ふと気が付いてみると、あちこち彼岸花が咲き始めています。暑ければ暑いように夏草が茂り、涼しくなり始めれば毎年同じ時期に彼岸花が咲く。何も目新しいことはせず、野の草はただ黙々と自らのいのちを輝かせています。
平凡であることのありがたさ。それに気がつけることは、決して平凡なことではありません。
他力 (9月23日)
仏教から徹底的に 「除外できるもの」 を取り除いていったとき、最後に残るのは 「この私が仏に成る」 ということです。
他力、すなわち如来の本願力は、この一点に関わります。
行い (9月27日)
頭で、言葉で理解しているだけものは、豊かな「実際」の影に過ぎません。私の「性根」は、隠しようもなく、私の振る舞いに現れます。
子が、親の背中を見て、つまり「言うこと」ではなくて「やっていること」をこそ真に受けて、育つのは当然です。
阿弥陀如来の、この私に「わかる」振る舞いは、私の口から出てくださるお念仏です。お念仏申すとき、阿弥陀如来の性根が、そのまま私の性根となってくださるのです。