(8月2日)

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草引きをしている間に、何かが真後ろに落ちました。ポタッという感じだったので、木の枝か何かだろうと思い、気に留めずにいました。

忘れたころになって、突然お尻の下から カナカナカナカナ……。 飛び上るほど驚きました。

蜩(ひぐらし)だったのです。あぶらぜみなどと比べるとか弱い声で鳴いているように思っていましたが、とんでもない、とてもあの小さい体から出るとは思えない音量です。

見れば、弱って、もう飛べなくなったひぐらしが、仰向けにこちらを向いて鳴いています。それでもこの声。

「オレは精一杯生きて、もうじき死んでいくが、お前はちゃんと生きているか?」

そう怒鳴りつけられたような気がして、思わず「はい」と返事をしてしまいました。はい、と口に出たことが何だか嬉しく、突っ立って地面のひぐらしを見つめたまま、しばらく山中(やまじゅう)の蝉に聞き入っていました。


夏草 (8月6日)

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夏の間は、うさぎのえさに道端のシロウをむしってきます。

「シロウ」で調べてみても見つかりませんでしたから、正式な名前ではないのでしょう。葉っぱが 10 cm 程度の先のとがった団扇形で、子供の頃、ろ紙を折るように折って片手をゆるく握ったくぼみに乗せ、もう一方の手を平手にして上から叩き、「ポン」と音をさせて遊んだ、あの草です。

近くの道がみんな道刈りされてしまい、簡単にむしれるところがなくなって、下の子2人を連れて山の方までシロウを採りに行ってきました。1回刈られた後に出た新芽が柔らかくて、採るのもとりやすく、おいしそうなので、それを捜します。3人で持てるだけ、どっさり採って帰りました。国語の教科書で「草いきれ」という言葉を習っていた小6の子が、「これが草いきれなんだね」と言っていました。

夏には、道幅が半分になってしまうくらい、両側から草が茂ります。国道・県道は業者に委託して、町道(今は市道なのでしょうが、市道ではまだピンときません)は自治会で、草を刈ります。今年の道刈りの際、こういう作業に手馴れた近所のおばさんがぽつりと、「冬になればみんなきれいになるんじゃが。」

そうなのでした。草いきれにむんむんする夏草も、秋になり冬が来れば、みんな枯れて、静かに来春を待ちます。

自分は今、草で言えばどの段階になるのかしら。そしてそれ以上に、自分には新しい春に対するこれほどまでの信頼があるだろうか。そんなことを思いました。


冷夏 (8月12日)

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夏が、どうもしゃんとしません。

涼しいせいか、長久寺では盆に入ってもまだうぐいすが鳴いています(例のマキロン君です)。例年、夏休みに入る頃までは声を聞くのですが、盆にうぐいすが鳴いていた覚えはありません。

一方、もう萩の花が咲き始めています。完全に春と秋が重なっています。梅雨が長引いていたとき、冗談で子供に、「この調子なら夏が来るのは秋になった頃じゃないか」と言っていたのですが、本当になってしまいました。

秋の稔(みのり)が心配です。時代が時代ならば、冷害で飢饉という状況でしょう。

ふつうの言葉で言えば、異常気象です。地球温暖化の影響だと主張する人があるかもしれません。

しかしあらためて考えてみれば、そもそも「当たり前」とはどういうことなのでしょうか。私たちは単に、自分に都合のよいものを「当たり前」と呼んでいるだけなのではないでしょうか。

地球にとっては、この程度の気候の変動は「当たり前」の枠内のことのはずです。生れてきた私たちが、どういう形でかは別にして、死んでいくのが「当たり前」であるように。


自然(じねん) (8月17日)

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筋は、通そうとすると通らなくなります。

というよりも、筋を通すの通さないのという話は要するに人間社会での出来事であって、言ってしまえば政治であり倫理です。通そうという意志がいくら強くとも、末(すえ)通らない――完結することのない――筋にすぎません。

筋は、通すものではなくて、通っているものです。そう受け止め直して眺め返すならば、私が作り出すのではない、おのずからしからしむ大きな意味が、聞えるようになってきます。

それを自然(じねん)と呼びます。


 (8月21日)

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阿弥陀様は、無限の光の仏様です。

しかし、ご自身が輝いていらっしゃる訳ではありません。輝いて、照らす光であるならば、陰を生みます。光が強ければ強いほど、陰も濃くなります。

阿弥陀様の光は、自ら輝く光ではなく、他を、私を、輝かせる光です。むしろ、もっとも深い闇です。自ら光ることを息(や)めた光に照らされて、私の無明が、無明のままに輝きだし、明へと転ぜられるのです。


退屈 (8月27日)

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仏教語としては、仏道修行の困難さに屈し、退転することを退屈といいます。

「修行」を拡大解釈すれば、平凡な日々の生活をそのままに受け入れ、そこに自ら預かった〈いのち〉を輝かせることと言えるでしょう。

とすれば、退屈とは 〈いのち〉 のしぼんだ、いえ、〈いのち〉 をしぼませた、姿です。

阿弥陀様の大きな 〈いのち〉 に包まれたとき、退屈している暇はありません。


熊と人 (8月31日)

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長久寺のあたりにも、泥棒が出ました。

実際には空き巣で、数ヶ月前のことです。地域の空き家を、一通りさらっていきました。お米、農機具、柱時計、……と、ちょっと 「?」 なものばかりが被害に遭ったようです。お盆にお参りになった方が、一通り話題にしていかれました。

このあたりではタヌキやイノシシの被害は日常、熊も珍しくはなく、泥棒の方がはるかにニュースになります。

一人暮らしのおばあちゃんと熊の話になっていて、「(熊が出るかもしれないと思うと)恐ろしいでしょう」 ときいたところ、おばあちゃん曰く、「熊ぁ、向こうからは何もせんけぇ、恐ろしいこたぁない、人の方がよっぽど怖い」。

おっしゃる通りです。