疑・惑 (7月1日)

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決めあぐねて前に進めない様を、疑といいます。

心が狭い枠に閉じ込められている姿を、惑といいます。

大きないのちが私に流れ込んでくださっているのに。


 (7月5日)

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私たちは、欲があるおかげて生きていられます。

ただ、私を飲み込んだ欲は、そのままが地獄です。

同じ欲が、ご縁に育てられれば、お浄土を願う菩薩の欲にもなります。

一切衆生を救わんと欲された阿弥陀様は、私たちよりはるかに強欲なのですから。


 (7月9日)

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子供の頃、空ってどこからどこまでだろうとよく考えました。頭の上は、すぐ空? 空気がなくなっても空?

確かなことは、私たちは空を下からしか見ることができないことです。私が空を見上げるとき、空の「向こう側」は如来様です。


 (7月13日)

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浄土真宗で言う信は、「おもいこむ」ではなくて、「まかせる」の意味です。

信じたら救われるのではなく、この私がこのままで救われておったと、気付かされた姿が信と表れるのです。

ですから、他力の信は、実際には歓びであり、感謝なのです。


称名 (7月17日)

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私と、阿弥陀様が、ごいっしょ。

私と、阿弥陀様が、ちょうど釣り合い。

私の悪業全部、そのまま阿弥陀様のご本願で釣り合わせてもろうておる。

我称名は、私が称える念仏でない、称に生れた新しい私であった。


 (7月21日)

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闇があるのではありません。光の届いていないのが闇です。

いえ、光の届いていないところもありません。光に背を向けているのが闇なのです。


 (7月25日)

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悪とはすなわち自力これなり。


 (7月29日)

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土がなつかしいのは、たくさんの生き物の遺骸を含むからです。

親に守られて、多くの生き物が暮らし、新しい生命が芽吹いて、やがてまた、みんな土へと還っていきます。

土を離れた人間は、生き物ではないのかもしれません。