(96)

抑このごろ摂州・河内・大和・和泉四ヶ国のあひだにをいて当流門徒中に、 あるひは聖道禅僧のはてなんどいふ仁体とも当流に帰するよしにて、 をのをの本宗の字ぢから才学をもて当流の聖教を自見して、 相伝なき法義を讃嘆し、 あまさへ虚言をかまへ、 当家の実義をくはしく存知したるよしをまふして、 人をへつらひたらせるによりてなり、 これ言語道断の次第なり。

-こゝろあらん人はこれをもて信用すべからず。 又俗人あるひは入道等も、 当流聖教自見の分をもては、 せめてはわがかたの一門徒中ばかりをこそ勧化すべきに、 結句仏光寺門徒中にかゝり、 あまさへ ¬改邪鈔¼ を袖にいれて、 まさに当流になき不思議の名言をつかひて、 かの方を勧化せしむる条、 不可説の次第なり。

-所詮向後にをいて、 かくのごときの相伝なき不思議の勧化をいたさ0351んともがらにをいては、 当流門葉の一列たるべからざるものなり。

夫当宗勧化のおもむきは、 あながちに他宗を謗ぜず、 諸神・諸菩薩等をかろしむべきにあらず、 たゞわが信ぜずたのまざるばかりなり。 ことごとく弥陀一仏の功徳のうちにこもれるがゆへに、 弥陀如来の本願に帰し、 他力超世の悲願をたのまん機をば、 かへりて神明はよろこびまもりたまふべし。

-されば ¬経¼ (晋訳華厳経巻五八 入法界品意) にも 「一仏一切仏一切仏一仏」 ととけり。 これは弥陀一仏に帰すれば、 一切の仏・菩薩を一度にたのみ念ずることはりなりとしるべし。

-これによりて当流の他力安心の一途といふは、 わが身はつみふかき罪業煩悩を具足せるいたづらものとおもひて、 そのうへにこゝろうべきやうは、 かかる機を弥陀如来はすくひたまふ不可思議の悲願なりとふかく信じて、 弥陀如来を一心一向にたのみたてまつれば、 すなはちこのこゝろ決定の信心となりぬ。

-このゆへに 「正信偈」 にいはく、 「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」 (行巻) といへり。 この文のこゝろは、 宿福深厚の機は生得として弥陀如来の他力本願を信ずるに、 さらにそのうたがふこゝろのなきがゆへに、 善知識にあひて本願のことはりをきくよりして、 なにの造作もなく決定の信心を自然としてうるがゆへに、 正覚のくらゐに住し、 かならず滅度にもいたるなり。

-これさらに行者のかしこくしておこすところの信にあらず、 宿縁のもよほさるゝがゆへに、 如来清浄本願の智心なりとしるべし。 しかればいま他力の大信心を獲得するも、 宿善開発の機によりてなり。 さらにわれらがかしこくし0352ておこすところの信心にあらず、 仏智他力のかたよりあたへたまふ信なりと、 いよいよしられたり。

-このゆへにもし宿善もなく、 また聖人の勧化にもあひたてまつらずは、 この法をきくこともかたかるべし。 さればいまこの至心・信楽・欲生の三信をゑてのうへには、 つねに仏恩報尽のためには生養称名念仏すべきものなり。

-かるがゆへに ¬和讃¼ (正像末和讃) にいはく、 「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南无阿弥陀仏をとなふべし」 といへるはこのこゝろなりとしるべし。

-あなかしこ、 あなかしこ。

文明八 七月廿七日