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[大津へつかはす]

さんぬる文明第三初夏仲旬のころより、 にはかにこの方をしのびいでゝ北国にをもむきし由来は、 またく名聞利養のためにあらず、 また栄華栄耀をもことゝせず。 そのゆへは大津にひさしく居住せしむるときは、 ひとの出入につけても万事迷惑の次第これおほきあひだ、 所詮北国に漸次も下向せしめば、 この方出入の義退転すべきあひだ、 不図下向するところなり。 つぎには北国方のひとの安心のとをりも四度計なきやうにおぼゆるまゝ、 覚悟にをよばず一年も半年も逗留すべきやうに心中におもふところに、 この四、 五年の堪忍は存のほかの次第なり。 さらにもて心中にかねてよりたくむところにあらず。 しかるあひだ豫大津辺へ経廻を停止するによりて、 ひとのこゝろ正体なく上なき風情、 なかなか言語のをよぶところにあらず。 あさましあさまし。 たれのともがらも、 われはわろきとおもふものはひとりとしてもあるべからず。 これしかしながら聖人の御罰をかうぶりたるすがたなり。 これによりて一人づゝも心中をひるがへさずは、 ながき世泥梨にふかくしづむべきものなり。 これといふもなにごとぞなれば、 真実に仏法のそこをしらざるゆへなり。 所詮自今已後にをひては、 当流真実の安心のみなもとをたづねて、 弥陀如来の他力真実の一途を決定して、 ふかく仏法にそのこゝろざしをはげますべきものなり。

そもそも当流安心といふは、 なにのわづらひもなく南无阿弥陀仏の六字をくはしくこゝろえわけたるをもて、 信心決定のすがたとす。 されば善導釈していはく、 「南无といふはすなはちこれ帰命、 またこれ発願廻向の0336義なり」 (玄義分) といへり。 しかれば南无と一念帰命するこゝろは、 すなはち行者を摂取してすてたまはざるいはれなるがゆへに、 南无阿弥陀仏とはいへるこゝろなり。 されば阿弥陀仏の因中にをひて菩薩の行をなしたまひしとき、 凡夫のうへにをひてなすところの行も願も自力にして成就しがたきによりて、 凡夫のためにかねてより弥陀如来この廻向を本とおぼしめして、 かの廻向を成就して衆生にあたへたまふなり。 されば弥陀如来の他力の廻向をば、 行者のかたよりこれをいふときは、 不廻向とまうすなり。 かるがゆへに一念南无と帰命するとき、 如来のかたよりこの廻向をあたへたまふゆへに、 すなはち南无阿弥陀仏とはまうすなり。 これすなはち一念発起平生業成と当流にたつるところの一義のこゝろこれなり。 このゆへに安心を決定すといふも、 凡夫のわろきこゝろにては決定せざるなり。 いくたびも他力の信をば如来のかたよりさづけたまふ真実信心なりとこゝろうべし。 たやすく行者の心としては発起せしめざる信心なりとこゝろうべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

于時文明第七初夏上旬のころ、 幸子房大津のていたらくまことにもて正体なきあひだ、 くはしくあひたづぬるところに、 この文を所望のあひだ、 これをかきをはりぬ。 みなみなこの文をみるべし。 それ当流といふは仏法領なり。 仏法力をもてほしゐまゝに世間を本として仏法のかたはきはめて粗略なること、 もてのほかあさましき次第なり。 よくよくこれを思案すべき事どもなり。

文明七年四月廿八日

在御判