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そもそも先年せんねん前住ぜんぢゆ在国ざいこくのときの教化けうくゑによりて、 まづおぎふく面々めんめん秘事ひじをもてほんとせるこゝろはうせたりといへども、 いまだ当流たうりう真実しんぢちの法義にはもとづかざるやうにみゑたり。 しかれどもろうこのりやうさむねんのあひだ、 吉崎よしざきさむじやうにおいてゐちをむすびて居住きよぢゆせしむるいはれによりけるか、 いまははや、 おほよそ仏法のおもむきはひろまれるやうにきこゑたり。 さりながら当流たうりう親鸞しんらんしやうにん一流ゐちりうには真実信心といふことをさきとされれて、 すでに末代まちだいわれらごときの罪悪ざいあくしやうぼむしやうさむしよう女人によにんまでも、 みなたすけましますといふことを、 あまねくしらざるがゆへなり。 されば浄土に往生するといふも、 たゞ一念の信心の決定くゑちぢやうするをもて、 すみやかに弥陀のほうへはむまるゝものなり。 これによりて信心といふことをよく決定くゑちぢやうすべきなり。 この信心をとるといふは、 いかやうにこゝろをももちて、 いかやうに阿弥陀をもしんじたてまつるべきぞといへば、 なにのやうもなく、 もろもろのざふぎやうしむなんどいふこゝろをすてゝ、 またもろもろの仏・菩薩・諸神しよじんとうをもたのまずして、 もろもろのわろきりきのひがおもひなんどをもふりすてゝ、 一心一向に弥陀如来をふかくたのみたてまつりて、 このたびのしやうをたすけたまへと、 ひとすぢに弥陀にくゐみやうするこゝろをもちて、 うたがひのこゝろはつゆちりほどもなくは、 かならず阿弥陀如来は八万四千の大光明をはなちて、 そのを光明のなかにおさめとりて、 わがしやにあらんかぎりはすてたまはずして、 すでにいのちおはりなば弥陀みだほうへかならずむかへたまふべし。 これを弥陀みだ如来によらいの念仏行者を摂取せふしゆしたまふといふは、 このこゝろなり。 これをすなはち当流たうりう信心しんじむ決定くゑちぢやうしたるひととはなづくべし。 かくこゝろうるうへには、 たとひ念仏ま0293ふすとも、 かの弥陀如来のわれらが往生をたやすくさだめましますところのおんほうじたてまつる念仏なりとおもふべきものなり。 やうにこゝろゑたるひとをば、 あるひは一念ゐちねむぽちの行者とも、 正定しやうじやうじゆぢゆすとも、 じやう涅槃ねちはんしやうすとも、 ろくにひとしともまふすなり。 これをもて信心をよくとりたる行者とはいふべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

これについてなをなをこゝろうべきむねあり。 そのゆへはしゆもんはうすることあるべからず、 また諸神しよじん諸仏しよぶちをもわがしんぜぬばかりなり、 あながちにおろかにすべからず、 いづれも弥陀一仏の功徳のうちにこもれりとしるべし。 いかに当流の安心あんじむを決定したる人なりといふとも、 このむねをまもらずはいたづらごとなり、 当流たうりう念仏ねむぶちしやにてはあるべからず。 よくよくこのおもむきをこゝろうべきものなり。

文明第五 十二月廿二日書之

荻生・福田同行中へ(花押)