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夫人間の体をつくづく案ずるに、 老少不定のさかひなり。 もしいまのときにをいて、 後生をかなしみ極楽をねがはずはいたづらごとなり。 それについて衣食支身命とて、 くうことゝきることゝのふたつかけぬれば、 身命やすからずしてかなしきことかぎりなし。 まづきることよりもくうこと一日片時もかけぬれば、 はやすでにいのちつきなんずるやうにおもへり。 これは人間にをいて一大事なり、 よくよくはかりおもふべきことなり。 さりながら今生は御主をひとりたのみまひらすれば、 さむくもひだるくもなし。 それも御主にこそよるべけれ。 ことにいまの世にはくうこともきることもなき御主はいくらもこれおほし。 されどもよき御主にとりあひまひらする、 その御恩あさからぬことなれば、 いかにもよくみやづかひにこゝろをいれずんば、 その冥加あるべからず。 さて一期のあひだは、 御主の御恩にて今日までそのわづらひなし。 またこれよりのちのことも、 不思議の縁によりて、 この山内にこの二、 三ヶ年のほどありしによりて、 仏法信心の次第きくに耳もつれなからで、 まことにうたがひもなく極楽に往生すべし。 これすなはち今生・後生ともにもてこの山にありてたすかりなんずること、 まめやかに二世の恩あさからずおもふべきものなり。 ことに女人の身はおとこにつみはまさりて、 五障・三従とてふかき身なれば、 後生にはむなしく无間地獄におちん身なれども、 かたじけなくも阿弥陀如来ひとり、 十方三世の諸仏の悲願にもれたるわれら女人をたすけたまふ御うれしさありがたさよとふかくおもひとりて、 阿弥陀如来をたのみたてまつるべきなり。 それ信心をとるといふは、 なにの0291わづらひもなく弥陀如来を一向一心にふたごゝろなく後生たすけたまへとおもひつめて、 そのほかのことをばなにもうちすつべし。 さて難行といふはなにごとぞなれば、 弥陀よりほかのほとけも、 またその余の功徳善根をも、 また一切の諸神なんどに今生にをいて用にもたゝぬせゝりごとをいのる体なることを、 みなみな雑行ときらふなり。 かやうに世間せばく阿弥陀一仏をばかりたのみて、 一切の功徳善根、 一切の神ほとけをもならべて、 ちからをあはせてたのみたらんは、 なをなを鬼にかなさいばうにて、 いよいよよかるべきかとおもへば、 これがかへりてわろきことなり。 されば外典のことばにいはく、 「忠臣は二君につかへざれ、 貞女は二夫にまみえず」 (史記意) といへり。 仏法にあらざる世間よりも、 一心一向にたのまではかなふべからずときこへたり。 また一切の月のかげはもとひとつ月のかげなり、 ひとつ月のかげが一切のところにはかげをうつすなり。 このこゝろをもてこゝろうべし。 されば阿弥陀一仏をたのめば、 一切のもろもろのほとけ、 一切のもろもろのかみを一度にたのむにあたるなり。 これによりて阿弥陀一仏をたのめば、 一切のかみもほとけもよろこびまもりたまへり。 かるがゆへに阿弥陀如来ばかりをたのみて、 信心決定してかならず西方極楽世界の阿弥陀の浄土へ往生すべきものなり。 このゆへにかゝる不思議の願力によりて往生すべきことのありがたさたふとさの弥陀の御恩報ぜんがために、 行住座臥に称名念仏をばまふすなりとこゝろうべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

文明第五 十二月十三日書之
0292れの内人の事なり