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さんぬる文明ぶんめいだい初夏そかじゆんころことなりしに、 ある俗人ぞくじんほふなんどあまた同道どうだうしてこの山中さむちう為体ていたらく一見ゐちけんまふしけるは、 そもそもやまうちぬしはいかなるひとぞ、 ぞくしやうはなにとまふすぞや、 またこの多屋たやばうたちをばなにとまふすぞ。 このやまとまふすは、 もとはまことにらうかんのふしどにていへひとつもなかりつるよしをひとかたりしを、 まのあたりきゝつるなり。 あら思議しぎや、 ひとみやこにいまはなりにけり。 そもこれは人間にんげんのわざともおぼへざりけり。 さてもこれはしよりやう所帯しよたいにてもかくのごとくはならざりけり。 そのいはれはひたすら仏法ぶちぽふ思議しぎりきなりしゆへなり。 それについてまづじやうゐちしゆは、 むかしよりいまにいたるまで退転たいてんなくこれありといへども、 たういまの諸宗しよしゆともに八宗はちしゆしゆことごとくすたれり。 しかりといへどもこの当山たうざむにをひては、 いよいよ念仏ねむぶち信仰しんかうさかりにして、 一切ゐちさい万民ばんみんとうかや申すわれにいたるまでも、 このしゆこゝろをかけざるはあるべからず。 末代まちだいどくともいひつべし。 いかさまにもこのしゆにかぎりてしゆしようなるしやうのたすかるゐちこれありとしられたり。 あやまりてもこのしゆをそしることあらば、 たゞちにばちをかうぶるべしとにもおぼゑたり。 是非ぜひともにしかるべきえんをとりて、 かのやまおん弟子でしになるべし。 この宗体しゆていにならずしては、 またのたすかるといへるみち、 ふつといまにはあるべからず。 あらたふとのこの御山おんやまや、 あらうれしやとまふして、 をあはせてこの御山おんやまをおがみ、 いづくへともしらずかへりけりとみゆ。 これらのさいをあるみちのほとりにてねんごろにきゝしほどに、 あまりに思議しぎにおもひはんべ0290るまゝかたりまふすなりといへり。 あなかしこ、 あなかしこ。

[文明五年十二月中旬]