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▼一 ある人いはく、 昨日ははや一日の雨中なれば、 さみだれにもやなるかとおもひ、 また海上のなみのおとまでも、 たかくものさびしくおとづれければ、 もとよりいとゞこゝろのなぐさむこともなきまゝに、 いよいよ睡眠はふかくなりぬれば、 生死海にうかみいでたる0258その甲斐もなく、 あさましくこそはおもひはんべれとまふしたりしかば、 こゝに若衆のわたりさふらひけるがまふされけるは、 われらはあながちに睡眠のをこりさふらへばとて、 いたくかなしくもおもはずさふらふ。 そのゆへは安心のことはこゝろゑさふらふつ、 また念仏はよくまふしさふらひぬ、 また雑行とてはさしてもちゐなくさふらふあひだ、 つかふまつらずさふらふ。 ことにわれらは京都の御一族分にてさふらふあひだ、 たゞいつもものうちよくくひさふらひて、 そのゝちはねたくさふらへば、 いくたびもなんどきもふみぞりふせりさふらふ。 また仏法のかたはさのみこゝろにもかゝらずさふらふ。 そのほかなにごとにつけても、 人のまふすことばをきゝならひてさふらふあひだ、 聖人の御恩にてもあるかなんど、 ときどきはおおふこゝろもさふらふばかりにてさふらふ。 こゝにまたある人のまふしけるは、 さてはあれらさまは京都の御一族にて御座さふらふあひだ、 さだめてなにごとも御存知あるべくさふらふほどに、 われらがまふすことはをよばぬ御ことにてこそさふらへ。 ある人また問ていはく、 われらがやうなる身にてかやうのまふしごと、 如法如法そのおそれすくなからぬことにてさふらへども、 仏法のかたなればまふすにてさふらふ。 あまりに御こゝろゑのとゞきさふらはぬをもむきをひとはしまふしたくさふらふ。 その謂は、 当流の次第は信心をもて先とせられさふらふあひだ、 信心のことなんどはそのさたにをよばずさふらふて、 京都御一族を笠にめされさふらふこと、 これひとつおほきなる御あやまりにてさふらふ。 ことにめぶりなんどもいたくかなしくおもはぬなんどおほせさふらふこと、 これひとつ勿体なくさふらふ。 貴方は随分の仏法者にて御いりさふらへども、 いまの子細を御一族におそれまふされさふらひて、 一はし御まふしさふらはぬこと、 くれぐれ0259御あやまりとこそ存じさふらへ。
答ていはく、 われらももともその心中にてはさふらひつれども、 御存知のごとく不弁短才の身にてさふらへば、 ふかく斟酌をなしてまふさず、 貴方にゆづりまふしさふらふなり。 一はしこの子細をまふしさふらはゞ興隆にてあるべくさふらふ。
問ていはく、 われらも斟酌にさふらへども、 御所望さふらふうへは、 これ聴聞つかふまつりさふらふをおもむき、 ひとはしまふすべくさふらふ。 そのゆへはわれらもすでに无明のやみにねぶり、 しづみゐたる身にてさふらふが、 たまたま五戒の功力によりて、 いま南浮の生をうけて、 あひがたき仏法にあへり。 さればこのたび信心決定するむねなくば、 三途の旧里にかへらんことをかなしみおもはゞ、 などかねぶりをこのみさふらふべきや。 されば ¬観経¼ には 「唯除睡時恒憶此事」 ととき、 善導は 「煩悩深无底 生死海无辺」 (礼讃) とも、 「云何楽睡眠」 (礼讃) とも判ぜり。 この文のこゝろは、 煩悩はふかくしてそこなし、 生死の海はほとりなき身の、 いかんが睡眠をこのまんやといへり。 また ¬観経¼ にも、 「たゞねぶりをのぞきてこのことををもへ」 ととかれたり。 経釈ともにねぶりをこのむべからずときこへたり。 このときは御一族にて御座さふらふとも、 仏法の御こゝろあしくさふらはゞ、 報土往生いかゞとこそ存じさふらへ。 ふかく御思案さふらふて、 仏法の法を御たしなみさふらはゞ、 まことにもて千秋万歳めでたく存ずべくさふらふ。 かへすがへす御所望によりてかくのごとくの次第まふしいれさふらふ条、 千万をそれいりさふらふ。 あら勿体なや。 南无阿弥0260陀仏、 南无阿弥陀仏。
[文明五年九月 日]