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▼そもそも昨日ひとのまふされさふらひしは、 たれびとにてわたりさふらひつるやらん、 かたりまふされけるは、 このごろなにとやらん坊主達の、 まことに仏法にこゝろをいれたまひさふらふか、 また身にとりて仏法のかたにちときずもいたかも御わたりさふらふか、 さらに心中のとほりをもしかしかと懺悔の義もなく、 またとりわけ信心のいろのまさりたるかたをもまふされさふらふ分もみえずさふらふて、 うかうかとせられたるやうにをぼへさふらふは、 いかゞはんべるべくさふらふや。 たゞ他屋役ばかり御なうらひさふらふて、 座敷すぎさふらへば、 やがて他屋他屋えかへらせたまひさふらふは、 よき御ふるまひにてさふらふか、 よくよく御思案あるべくさふらふ。 されば善導の御釈にも 「自信教人信 乃至 真成報仏恩」 (礼讃) と釈せられさふらふときは、 自身もこの法を信じひとをしても信心なきものをすゝめさふらはんこそ、 まことにもて仏恩報尽の道理にてもあるべくおぼへさふらふ。 また 「上尽一形下至一念」 (礼讃意) と判ぜられさふらふときも、 一念の信心発得のすがたもみえず御わたりさふらふ。 また一形憶念の義もさらに成就せられたるともみおよびまふさずさふらふ。 よくよく御校量あるべくさふらふ。 あさましあさまし。 こゝろにうかむとおりまふすなり。 御免御免。 南无阿弥陀仏。
文明五年二月九日