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▼そもそも去年冬のころ、 あるひとのいはく、 路次にて興ある坊主にゆきあひぬ。 さるほどにこの坊主をみるに、 件の門徒のかたより物とり信心ばかりを存知せられたるひとなり。 それがしおもふやう、 よきついでにて0253さふらふあひだ、 一句たづねまふすやう、 いかやうに御流の安心をば御こゝろえさふらふや、 これにてまひりあひさふらふことも不思議の宿縁とこそ存じさふらふあひだ、 おそれながら信心のやうまふしいれべくさふらふ、 又領解さふらふ分、 委細うけたまはりさふらへとまふすところに、 おほせられさふらふやうは、 もろもろの雑行をすてゝ一向一心に弥陀に帰するが、 すなはち信心とこそ存じおきさふらへとまふされけり。 この分ならば子細なく存じさふらひつれども、 この坊主はまさにさやうのこゝろえまでもあるまじく心中に存じさふらふあひだ、 かさねてまふすやうは、 さいはひにまひりあひさふらふうへは、 なにごとも心底をのこさずまふしうけたまはるべくさふらふ。 所詮已前おほせさふらふ御ことばに、 もろもろの雑行をすてゝ一心一向に弥陀に帰するとうけたまはりさふらふは、 雑行をすてゝさふらふやうをも、 また一心一向に弥陀に帰するやうなんどをもよく御存知さふらふて、 かくのごとくうけたまはりさふらふやらん。 こたへていはく、 いまの時分みな人々のおなじくちにまふされさふらふほどに、 さてまふしてさふらふ。 そのいはれをば存知せずさふらふ。 われらがことはなまじゐに坊主にてさふらふあひだ、 あまりに貴方にむかひまふしてその御返事まふさではいかゞと存さふらひてまふしてさふらふなり。 さらに信心の次第をばかつて存知せずさふらふあひだ、 あさましくさふらふ。 さいはひにまひりあひさふらふあひだ、 ねんごろに信心のやううけたまはるべくさふらふ。 かやうにうちくつろぎおほせさふらふあひだ、 まふしいれべくさふらふ。 よくよくき0254こしめさるべくさふらふ。 そもそももろもろの雑行をすてゝ一心一向に弥陀に帰すとまふすはことばにてこしさふらへ。 もろもろの雑行をすてゝとまふすは、 弥陀如来一仏をたのみ、 余仏・余菩薩にこゝろをかけず、 また余の功徳善根にもこゝろをいれず、 一向に弥陀に帰し一心に本願をたのめば、 不思議の願力をもてのゆへに弥陀にたすけられぬる身とこゝろえて、 この仏恩のかたじけなさに行住座臥に念仏まふすばかりなり。 これを信心決定の人とまふすなりとかたりしかば、 歓喜のいろふかくして、 感涙をもよほしけり。 また坊主まふされけるは、 先度身が同朋を教化つかまつりさふらふことのさふらふつる、 これもいまはあやまりにてさふらふ。 懺悔のためにかたりまふすべくさふらふ、 御きゝさふらへ。 所詮身が門下に有徳なる俗人のさふらふなるを随分勧化つかまつりさふらふこゝちにてまふすやうは、 貴方はさらに信心がなきよしまふしさふらふところに、 かの俗人おほきなるまなこにかどをたてまふすやうは、 すでにわれらが親にてさふらふものは、 坊主において忠節のものにてさふらふ。 そのいはれは、 少寄進なんどもまふしさふらふ、 また家なんどつくられさふらふときも、 助成をもまふしさふらふ。 またわれらにおきても自然のときは合力もまふしさふらふ。 そのほかときおりふしの礼儀なんども今日にいたるまでそのこゝろざしをはこび、 物を坊主にまひらする信心をいたしまふしさふらふ。 そのうへには後生のためとては念仏をよくとなへさふらふ。 なにごとによりてわれらが信心がなきなんどうけたまはりさふらふやらん。 さやうになにともなきことをおほせさふらはゞ、 門徒をはなれまふすべくさふらふよしまふしさふらふあひだ、 かの仁はわれらがためには一のちから同朋にてさふらふあひだ、 万一他門徒へゆきさふらはゞちからをうしなふべくさふらふあひだ0255、 さては貴方の道理にてさふらふひとが、 さやうにまふすよしきゝさふらふあひだ、 さてこそまふしつれ、 向後におきてさやうにまふすべからず。 あひかまへてあひかまへて他門下へゆくべからざるよしまふしさふらひき。 これもいまはわれらがあやまりにてさふらふあひだ、 おなじく懺悔まふすなり。
文明五年二月一日書之