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そもそも毎朝まいてうこのだうぢやう来集らいじう人数にんじゆにをいては、 あひかまへてこゝろにしかとおもひたもつべきやうはいかんといふに、 すでに弥陀みだ如来によらいほんぐわんとまふすことは、 われら一切ゐちさいしゆじやうびやうどう極楽ごくらくわうじやうせしめんがためにをこしたまへるせいぐわんなりとしんじて、 さて一念ゐちねん弥陀みだをふかくたのみ、 このたびのしやうあやまたずたすけたまへとしんじたてまつるほかには、 さらにべちのことあるべからずとしんずるべきものなり。 これすなはち真実しんじち信心しんじむをえたるひとぞとおもひさだめてよりのちは、 たとひいかなるひとのまふしさまたぐることありといふとも、 これを信用しんえうすべからず。 このうへにはぎやうぢゆぐわしよ諸縁しよえんをきらはず、 ありがたくたふとくおもふこゝろあらんときは、 称名しようみやう念仏ねむぶちまふすべきばかりなり。 このほかには少々のことをばあながちにみゝにきゝいるべからず。 これすなはち当流たうりう信心しんじむぎやくとくしたる念仏ねむぶちぎやうじやとなづくべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

0467明応七年九月 日