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▼一 当流のこゝろは一念発起平生業成とたてゝ、 もろもろの雑行をすてゝ一心に弥陀如来後生たすけたまへとふかくたのまんひとは、 かならず報土に往生すべきこと決定なり。 これすなはち当流の平生業成の義なり。 このうへに念仏まふすは、 弥陀如来のやすく御たすけにあづかりたる御恩の念仏なりとこゝろうべきものなり。 これすなはち当流の真実の義なり。 または正覚の一念といふもこのこゝろなりとしるべし。
一 鎮西には当得往生とたてゝ、 来迎をたのむ家なり。 これ ¬観経¼ のこゝろなり。
一0452 西山には即便往生とたてゝ、 三心だにも決定すれば、 自余の雑行をゆるし、 来迎を本とするなり。 これも ¬観経¼ のこゝろなり。
一 長楽寺には報土・辺地をたてゝ、 報土を本とするなり。 こればかりは当流とおなじきなり。 これも雑行をゆるすなり。
一 法性法身・方便法身の事、 法身といふは体相なきなり。
一 方便法身といふは応身如来のことなり。 浄土の弥陀はみな方便法身なりとしるべし。
一 補処といふは弥勒のことをまふすなり。 釈尊のあとをつぎて出世あるべき菩薩なれば、 補処の菩薩といふなり。 総じて仏のあとをつぐによりて補処といふなり。 いまの念仏の行者も、 弥勒の三会のあかつきさとりをひらくべきやうに、 念仏者も一期のいのちつきて極楽に往生すべきこと、 弥勒におなじきがゆへに、 弥勒にひとしとはいふなり。
明応六年