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一 当流たうりうのこゝろは一念ゐちねむぽち平生へいぜいごふじやうとたてゝ、 もろもろのざふぎやうをすてゝ一心ゐちしむ弥陀みだ如来によらいしやうたすけたまへとふかくたのまんひとは、 かならずほうわうじやうすべきこと決定くゑちぢやうなり。 これすなはち当流たうりう平生へいぜいごふじやうなり。 このうへに念仏ねむぶちまふすは、 弥陀みだ如来によらいのやすくおんたすけにあづかりたるをん念仏ねむぶちなりとこゝろうべきものなり。 これすなはち当流たうりう真実しんじちなり。 またはしやうがく一念ゐちねむといふもこのこゝろなりとしるべし。

ひとつ 鎮西ちんぜいには当得たうとくわうじやうとたてゝ、 来迎らいかうをたのむいへなり。 これ ¬観経くわんぎやう¼ のこゝろなり。

ひとつ0452 西山せいざむには即便そくべんわうじやうとたてゝ、 三心さむしむだにも決定くゑちぢやうすれば、 自余じよざふぎやうをゆるし、 来迎らいかうほんとするなり。 これも ¬観経くわんぎやう¼ のこゝろなり。

ひとつ ちやうらくにはほうへんをたてゝ、 ほうほんとするなり。 こればかりは当流たうりうとおなじきなり。 これもざふぎやうをゆるすなり。

ひとつ ほふしやう法身ほふしん方便はふべん法身ほふしんこと法身ほふしんといふは体相たいさふなきなり。

ひとつ 方便はうべん法身ほふしんといふは応身おうじん如来によらいのことなり。 じやう弥陀みだはみな方便はうべん法身ほふしんなりとしるべし。

ひとつ しよといふはろくのことをまふすなり。 しやくそんのあとをつぎてしゆちあるべきさちなれば、 しよさちといふなり。 そうじてぶちのあとをつぐによりてしよといふなり。 いまの念仏ねむぶちぎやうじやも、 ろくさむのあかつきさとりをひらくべきやうに、 念仏ねむぶちしやゐちのいのちつきて極楽ごくらくわうじやうすべきこと、 ろくにおなじきがゆへに、 ろくにひとしとはいふなり。

明応六年