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▼それ人間はゆめまぼろしのあひだのすみかなれば、 この世界にてはいかなるすまゐをし、 いかなるすがたなりとも、 後生をこゝろにかけて極楽に往生すべき身となりなば、 これまことに大果報のひとなり。 それについては、 この在所に番衆にさだまること、 あながちに0432世間世上の奉公なんどのやうにおもひては、 あさましきことなり。 そのゆへはすでに番衆にくわわるによりて、 仏法の次第を聴聞するはありがたき宿縁なり、 または弥陀如来の御方便かともおもはゞ、 まことに今世・後世の勝徳なるべし。 ことに人間は老少不定のさかひなれば、 ひさしくたもつべきいのちにもあらず。 またさかんなるものもかならずおとろうるならひなれば、 たゞいそぎ後生のための信心ををこして、 阿弥陀仏を一心にたのみたてまつらんにすぎたることはあるべからず。 されば弥陀の本願に帰するについて、 さらにそのわづらはしきことなし。 あるひはまた貧窮なるひとをもえらばず、 富貴なるをもえらばず、 つみのふかきひとをもきらはざる本願なればなり。 これによりて法性禅師の釈にも、 「不簡貧窮将富貴」 (五会法事讃巻本) ともいひ、 また 「不簡破戒罪根深」 とも釈せり。 この釈文のこゝろは、 ひとの貧窮と富貴とをもえらばず、 破戒とつみのふかきをもえらばぬ弥陀の本願なれば、 わが身にとりてなにのわづらひひとつもなし。 たゞ一心にもろもろの雑行のこゝろをなげすてゝ、 一向に弥陀如来を信じまいらするこゝろの一念をこるところにて、 わが往生極楽は一定なり。 このこゝろをもて当宗には一念発起住正定聚ともいひ、 また平生業成ともたつるなり。 これすなはち他力行者の信心のさだまるひとなり。 この信心決定ののちの念仏をば仏恩報謝の称名とならふところなり。 あなかしこ、 あなかしこ。
*延徳二年九月廿五日