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それ人間にんげんはゆめまぼろしのあひだのすみかなれば、 このかいにてはいかなるすまゐをし、 いかなるすがたなりとも、 しやうをこゝろにかけて極楽ごくらくわうじやうすべきとなりなば、 これまことにだい果報くわほうのひとなり。 それについては、 この在所ざいしよ番衆ばんしゆにさだまること、 あながちに0432けんじやう奉公ほうこうなんどのやうにおもひては、 あさましきことなり。 そのゆへはすでに番衆ばんしゆにくわわるによりて、 仏法ぶちぽふだいちやうもんするはありがたき宿縁しふゑんなり、 または弥陀みだ如来によらい方便はうべんかともおもはゞ、 まことにこむ後世ごせしようとくなるべし。 ことに人間にんげん老少らうせうぢやうのさかひなれば、 ひさしくたもつべきいのちにもあらず。 またさかんなるものもかならずおとろうるならひなれば、 たゞいそぎしやうのための信心しんじむををこして、 わあ弥陀みだぶち一心ゐちしむにたのみたてまつらんにすぎたることはあるべからず。 されば弥陀みだほんぐわんくゐするについて、 さらにそのわづらはしきことなし。 あるひはまたびんなるひとをもえらばず、 くゐなるをもえらばず、 つみのふかきひとをもきらはざるほんぐわんなればなり。 これによりて法性ほふせうぜんしやくにも、 「けんびんしやうくゐ (五会法事讃巻本) ともいひ、 また 「けんかい罪根ざいごんじん」 ともしやくせり。 このしやくもんのこゝろは、 ひとのびんくゐとをもえらばず、 かいとつみのふかきをもえらばぬ弥陀みだほんぐわんなれば、 わがにとりてなにのわづらひひとつもなし。 たゞ一心ゐちしむにもろもろのざふぎやうのこゝろをなげすてゝ、 一向ゐちかう弥陀みだ如来によらいしんじまいらするこゝろの一念ゐちねむをこるところにて、 わがわうじやう極楽ごくらくゐちぢやうなり。 このこゝろをもて当宗たうしゆには一念ゐちねむぽちぢゆ正定しやうぢやうじゆともいひ、 また平生へいぜいごふじやうともたつるなり。 これすなはちりきぎやうじや信心しんじむのさだまるひとなり。 この信心しんじむ決定くゑちぢやうののちの念仏ねむぶちをば仏恩ぶちをん報謝ほうしや称名しやうみやうとならふところなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

*延徳二年九月廿五日