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抑此去九月昼之比より豫が申せし事は、 春夏之間は人之心も万づにまぎれてせいもおさまらざる程に、 秋冬は夜もながく時分もよければ、 仏法之物語不審なんどもあらん人々に於ては法義をも讃嘆し、 一端いひきかせ、 又たづねん事をもこたへんと思ふ志のあるによりて、 此座敷に当年は一縁に居住すといへども、 更に老若ともに無言のみにて、 さてはつる体なれば、 堪忍せしめたる其所詮一もなし。 さるほどに九月比より極月のすえつかたらになりゆく間、 すでにはや年も暮なんとす。 仍0417愚老は年齢つもりて六十九歳ぞかし。 今四、 五日きたらば、 すでに七旬にきはまりぬべし。 又来年之此比までも存命せん事不定なるべし。 返々口惜き次第どもなり。 誰ありてさしたる法義を不審せしめたる人つゐに一度もこれなき間、 本意の外に思へども、 於于今後悔さきにたゝざる次第也。 面々各々にせめて其心中一もあるべからず、 たゞ天楽ばかりあれば、 其を食せんとおもふ心中ばかりの人也。 所詮天楽を興行する事も、 あながちに食せんための其志ばかりにてはなき也。 就之人々の仏法心もつきやせんと思ふばかりの事にこそ帳行はする也。 さればたまたまも一帖之聖教をもこれをよみぬれば、 人々みな目をふさぎてきく由之体たらくは、 さながら座頭房にことならず。 あさましあさまし。 又千に一も物をきける輩は仏法之底をばしらず、 一端之義をきゝてこれをもて人にかたりて我名望と思へる事、 近代以外之繁昌也。 さるほどに今日此比は年も暮なんとすれば、 正月にもなりなば、 げにも祝言已下人々の出入につけ隙もいり、 又人間すまゐなれば意はとけねども、 世間につけ王法につけ遊げなんどもありぬべし。 このゆへに愚老が兼より申す事これぞかし、 秋冬ならでは仏法之物語は心のとまらぬ由、 人々にも申しつる也。 相構相構、 又くる年々も其覚悟をなすべき事也。 すでにはや今四、 五日もすぎなば人々の心もいそがはしく、 遊覧之体になりぬべきものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

文明十五年十二月廿五日
文明十五年十二月廿五日申剋俄書之