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▼文明十四年 壬寅 の春くれば正月十五日といふもほどなくうちすぎぬ。 しかるあひだ豫年齢つもりて当年は六十八歳にをよびはんべりぬ。 さるほどに心中におもふやう、 御影堂大門の材木さひはいに用意してこれをうちつみをくあひだ、 *正月十七日より番匠がたのことはじめをさせて作事せしむるあひだ、 *おなじき廿八日にはすでに大門の柱立せり。 それより相続して作事せしむるあひだ、 ほどなく出来せり。 しかうしてのち阿弥陀堂の橋隠も柱を用意してこれををく、 また阿弥陀堂の四方の柱もさひはいにかねてよりつくりをくあひだ、 おなじくこれも立をはりぬ。 かくのごとくうちすぎゆくほどに大門の地形をひきたへらげて、 総じて四壁のうち東西南北の地形も不同なるあひだ、 雨ふるときは水も順流にはながれざるあひだ、 諸方の不浄の悪水どもながれゆくべきかたなきあひだ、 坊のまへにとゞこほるあひだ、 そのしたゝりをとらんがために小堀を南北にほらせて、 不浄の悪水をながしをはりぬ。 その堀のはたに松うへならべ、 すなはち門のまへには橋を両所にかけぬ。 しかうしてのちは愚老が冬のたき火どころとおもひて、 四間の小棟づくりのありけるを、 四月七日のころよりつくりなをしおはりぬ。 そのゝちはつねの屋、 あまりにのきひきくをかしげなるあひだ、 さんぬる冬のころより吉野柱をあつらへをくあひだ、 これの作事をはじむるほどに、 四月廿二日にははや柱立せるあひだ、 ほどなく出来して、 もとの戸障子をそのまゝ立合せけるほどに、 おなじき晦日には大概出来せるあひだ、 そのまゝ作事をば停止せしめをはりぬ。 そのゝち五月六日よりいまだ造作もとゝのほらざるあひだ、 またはじめて作事するほどに、 ことごとく出来せり。 またあまりに寝殿の天井どもいま0409だこれなきあひだ、 おもひたちはらせをはりぬ。
しかうしてのち阿弥陀堂の仏壇いまだこれをつくらざるあひだ、 おなじくこれをくはだてつくりければ、 いくほどなくして出来せり。 すなはちまづ本尊を*六月十五日にはすえたてまつりけり。 かくて月日ををくるところに、 あまりに白造の仏壇なればみぐるしきとまうしけるほどに、 漸々に諸法へ漆をあつらへをき、 すでに閏七月二日より奈良塗師をやとひ、 これをぬらしむるほどに、 九月廿日ごろに出来せり。 そのゝちやがて絵師をよびよせ細色をさせ、 また杉障子に蓮をかゝせ、 おなじく仏壇のうしろ障子にも蓮をかゝせりけり。 つぎにはまた正面の唐戸もをらせてたてをはりぬ。 しかるあひだ大略阿弥陀堂造作の分は出来せり。 これよりのちは上葺のかわらぶきまでなり。 さるほどに文明十四年の冬もいくほどなくうちくれぬれば、 また文明十五年の春三月もたちて五月中旬ごろになりぬるあひだ、 阿弥陀堂の瓦葺いまだ修造なきあひだ、 これをくわだてばやとおもひて、 やがて河内国古市◗郡誉田のうち野中の右馬といふ瓦師をたづねよせて、 おなじき五月十三日よりはじめて瓦の土のありどころをたづぬるに、 西の山といふところにこれあるよしひとかたるあひだ、 人足をあつめこれをはこびとり、 大葺屋をつくりたて五月中旬ごろより瓦をつくるあひだ、 ほどなく出来して、 すでに*八月廿二日にははやふきたてにけり。 しかるあひだ阿弥陀堂の分ははやことごとく修造成就するところなり。
文明十五年八月廿八日