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夫当流親鸞聖人勧化之一義に於ては、 なにのわづらひもなく、 在家・出家もきらはず男女老少をいはず、 一すぢにねがふべき趣は、 あさましき我等ごときの愚痴闇鈍の身なれども、 弥陀如来の他力本願をたのみて、 偏に阿弥陀仏に帰命すれば、 即の時に必定に入しむるなり。 爰以不思議之願力とは申しはんべれ。 このゆへに弥陀に帰入するをこそ、 他力の一心を決定せしめたる真実信心の行者とはいへるなり。 これすなはち南無阿弥陀仏の意也。 されば南無阿弥陀仏の体をよくこゝろえわけたるを、 信心決定の念仏行者とは名けたり。 此上には弥陀如来の摂取不捨之益にあづかりたる御恩のうれしさを、 御恩を報ぜんが為に行住座臥に称名念仏すべきばかりなり。 然則此上には知識帰命なんど云事も更以あるべからず。 ちかごろ参河国より手作云出したる事なり。 相構相構これらの儀を信用すべからざるものなり。

文明十一年十一月 日書之