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それ人間を観ずるに、 有為无常はたれの人かのがるべき、 たゞ一生は夢幻のごとし。 まことに人間は寿命は、 老はまづ死しわかきはのちに死せば、 順次の道理にあひかなふべきに、 老少不定のさかひなれば、 たゞあだなるは人間の生なり。 依之爰に八月十七日物のあはれなる事ありけり。 生年一歳なりし人の産生の期すぎていくほどなくして死す。 総じてこの人は多年病者の身たりしかば、 その期にのぞみては、 腹中にありしをそろしきをい物むねへせきあげて、 身心苦痛せしことかぎりなし。 いろいろの良薬をあたふといへども、 まことに先業の所感にてもありけるか、 また定業ののがれがたくして、 つゐに八月十七日申剋のをはりにむなしくなりぬ。 中々ことの為体をみるに、 あまりににはかに今日このごろかやうに一大事の出来すべきとは誰人もおもひよらざれば、 たゞ亡然としたるありさまのあへなさあはれさ、 たとへをとるに物なり。 さればそばにつきそふ人々も、 天にあふぎ地にふしてなげきかなしめども、 その甲斐ぞなき。 まことにこゝろもことばもをよばざる風情なり。 しかるに彼如勝禅尼の由来をたづぬるに、 天下一乱について牢人の身なりけるが、 辞の縁にひかれて不思議に先世の約束もありけるか、 かりそめながらこの五、 六年の間、 京・田舎随逐せしめ、 なにとなくなじみしたしみてまた年月のつもりにや、 仏法の聴聞耳にふれしいはれによりて、 朝夕のひまには和讃・聖教をこゝろにかけ、 そのいはれを人にもくはしくあひたづね、 つゐに信心決定の身となりて、 あまさへ人の不信なるをなげき、 ことには老母のあ0376りけるを、 なにとしてもわが信心のごとくなさばやなんど、 をりをり物語しけり。 かへすがへす不思議なりしことなり。 このゆへにかの如勝禅尼つねに人にかたりしは、 わが身ほど世に果報の物はよもあらじとおもふなり。 そのいはれはかゝる宿縁にあひて、 あまさへ今生も活計は身にあまり、 後生はもとより申にをよばず。 されども人間は老少不定のならひなれば、 千に一もわがをくれて、 もしひとりこの世にのこりてあらば、 かゝるたふとき法もやわすれなん、 その時後悔すともかなふまじ。 たゞねがはくはとても仏の御たすけならば、 あはれわれさきにたゝばやと、 知音なりし人にはつねにこの事をのみかたりはんべしり。 まことに仏の御はからひか、 また定業のかぎりか、 ねがひをきしことばのごとくなりし事不思議なり。 また今度は一定死すべきと覚悟ありけるか、 そのゆへは老母のかたへ遺物どもをかねて人にあづけをき、 そのほか少々の物どもを人のかたへゆづりつかはしけり。 かゝるときは死期をよく覚悟ありけるともおもひしられたり。 されば最後臨終の時には他事をまじへず、 後生の一大事を申し出しけり。 また光闡坊をよびよせ善知識とおもひなし、 苦痛のありし中にもこゝろのそこに念仏をまふすけしきみえて、 すなはち小声にも大声にも念仏を申すこと、 たゞごとにあらずとみをよべり。 これをおもひかれをおもふにつけても、 あはれさの中にも今度往生極楽は一定かともおもへば、 またよろこびともいひつべきか。 しかればかの禅尼の平生の時の身のふるまひを見をよぶにも、 たゞ柔和忍辱の風情ありて、 誰人にむかひてもたゞおなじすがたなりし人なり。 今これをつくづくとおもひつゞくれば、 かやうに早世すべきいはれにてありけりとおもひあはせられて、 一しほあはれにもいとたふとくもおもひはんべり。 さればこれにつけても女0377人の身は、 いまこのあへなさあはれさをまことに善知識とおもひなして、 不信心の人々はすみやかに无上菩提の信心をとりて、 一仏浄土の来縁をむすばんとおもはん人々は、 今世・後世の往生極楽の得分ともなりはんべるべきものなり。 穴賢、 穴賢。 南无阿弥陀仏、 南无阿弥陀仏。

于時文明十年九月十七日