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▼文明第三初
俗人いはく、 当流の大坊主達はいかやうに心ねを御もちありて、 その門徒中の面々をば御勧化候哉覧、 無御心元候。 委細蒙仰度存候。
坊主答云、 当流上人の御勧化の次第は、 我等も大坊主一0239分にては候へども、 巨細はよくも存知せず候。 乍去、 凡先師などの申おき候趣は、 たゞ念仏だに申せ、 たすかり候とばかり承り置候が、 近比はやうがましく信心とやらんを見せずは往生は不可と若輩の申され候が、 不
俗問いはく、 その信心といかやうなる事を申候哉。
答いはく、 先我等が心得置候分は、 弥陀如来に帰したてまつりて朝夕念仏を仏御たすけ候へとだにも申候へば、 往生は一定と心得てこそ候へ。 其外は大坊主分をばもちて我等も候へども、 委細は存知せず候。
俗問ていはく、 さては以前蒙仰候分は、 以外此間我等聴聞仕候には大に相違して候。 先大坊主分にて御渡り候へ共、 更に上人一流の安心の次第は御存知なく候。 我等事は誠に俗体の身にて候へども、 申候詞をも、 げにもと思食しより候はゞ、 聴聞仕候分は可申入候にて候。
坊主答云く、 誠以貴方は俗体の身ながら、 かゝる殊勝の事を申され候者哉。 委細御かたり候へ、 可聴聞候。
俗答いはく、 如法出物なる様に存候へ共、 如此蒙仰候之間、 聴聞仕候趣大概可申入候。 我等事は奉公の身にて候之間、 常在京なども仕候間、 東山殿へも細々参候て聴聞仕分をば、 心底をのこさずかたり可申候。 御心にしづめられ可被聞召候。 先御流御勧化の趣は、 信心をもて本とせられ候。 そのゆへはもろもろの雑行をすてゝ、 一心に弥陀如来の本願はかゝるあさましき我等をたすけまします不思議の願力也と、 一向にふたごゝろなきかたを、 信心の決定の行者とは申候也。 さ候時は、 行住座臥の称名も自身の往生の業とはおもふまじき事にて候。 弥陀他力の御恩を報じ申す念仏なりと心得0240うべきにて候。
次に、 坊主様の蒙仰候信心の人と御沙汰候は、 たゞ弟子の方より坊主へ細々に音信を申し、 又物をまひらせ候を信心の人と仰られ候。 大なる相違にて候。 能々此次第を御心得あるべく候。 されば当世はみなみなかやうの事を信心の人と御沙汰候。 以外あやまりにて候。 此子細を御分別候て、 御門徒の面々をも御勧化候はゞ、 御身も往生は一定にて候、 又御門徒中もみな往生せられ候べき事うたがひもなく候。 是則誠に 「自信教人信 乃至 大悲伝普化」 (礼讃) の釈文にも符合せりと申侍べりしほどに、 大坊主も殊勝のおもひをなし、 解脱の衣をしぼり、 歓喜のなみだをながし、 改悔のいろふかくして申様、 向後は我等が散在の小門徒の候をも、 貴方へ進じおくべき由申侍べりけり。 又なにとおもひいでられけるやらん、 申さるゝ様は、 あらありがたや、 弥陀の大悲はあまねけれども、 信ずる機を摂取しましますものなりとおもひいでゝ、 かくこそ一首は申されけり。
▼月かげの いたらぬところは なけれども
ながむる人の こゝろにぞすむ
といへる心も、 いまこそおもひあはせられてありがたくおぼへはんべれとて、 此山中をかへらんとせしが、 おりふし日くれければ、 またかやうにこそくちずさみけり。
▼つくづく おもひくらして 入あひの
かねのひゞきに 弥陀ぞこひしき
とうちながめ日くれぬれば、 足ばやにこそかへりにき。
釈蓮如(花押)
[文明三年七月十六日]