本書の著者である聖覚法印は、 天台唱導 (説教) の祖として名声を博した藤原澄憲を父にもち、 比叡山に上り修学をなして澄憲の安居院を継いだことから安居院聖覚法印と呼ばれた。 澄憲と同様に唱導にすぐれ安居院流の唱導師として名高い。 法印と源空 (法然) 聖人との関係については、 ¬明義進行集¼ に 「聖人つねにのたまひけるは吾が後に念仏往生の義すぐにいはむずる人は聖覚と隆寛となりと云々」 とあるように、 念仏往生の法義を正しく受け継いだ者として、 隆寛律師とともにその名が挙げられている。 このように、 法印は源空聖人から絶大なる信頼を得ていたことが窺え、 本鈔を著して念仏往生の正義を明らかにされ、 専修念仏の思想の弘通に努められている。 ただし、 ¬金剛集¼ によると、 法印は源空聖人が示寂されて十五年後に起きた嘉禄の法難 (1227) に際して、 専修念仏の弾圧要請をした一人として名を連ねており、 この背景には、 念仏教団内部の対立抗争があったことが原因ではないかという指摘もある。
 しかしながら宗祖は、 源空聖人の念仏往生の正統なる伝承者として、 法印と隆寛律師を法兄として敬慕されている。 その様子は、 宗祖が関東在住の頃から本鈔を敬重され幾度となく書写されたことや、 それを門弟に与えて熟読するよう勧められたことが御消息などから知られる。 宗祖は後に本鈔の題号や引証された経釈の要文を註釈した ¬唯信鈔文意¼ を著し、 本鈔の意義を更に展開されている。
 本鈔は、 源空聖人より相承した念仏往生の要義を述べてただ信心を肝要とすることを明らかにされたものである。 すなわち、 前半では仏道に聖道門と浄土門の二門がある中、 末世の衆生にかなうものは浄土門であるとし、 その浄土門には、 諸行によって往生を願う諸行往生と称名念仏によって往生を願う念仏往生とがあると説く。 その中、 他力の念仏往生こそが仏の本願にかなうものであり、 自力の諸行では往生をとげがたい旨を述べる。 更に念仏往生の中に専修と雑修とを示して、 阿弥陀仏の本願を信じ、 ただ念仏一行をつとめる三心具足の専修がすぐれることを明確にし、 念仏には信心を要とすることが述べられる。
 また後半には(1)臨終念仏と尋常念仏、 (2)弥陀願力と先世の罪業、 (3)五逆と宿善、 (4)一念と多念についての不審をあげてこれを決択される。 なお 「乃至十念と一念随喜」 を加えて五種とする説もある。
 本鈔の法印自筆本は現存しないが、 承久三 (1221) 年八月に法印が本鈔を著されたことが宗祖の書者奥書よりわかっている。 高田派専修寺蔵親鸞聖人真筆本 (信証本) の奥書には 「草本云/承久三歳中秋中旬第/四日安居院法印聖覚作/寛喜二歳仲夏下旬第/五日以彼草本真筆/愚禿釈親鸞書者之」 とあるように、 宗祖が本鈔を最初に書写されたのは、 本鈔が述作された九年後の寛喜二 (1230) 年五月、 宗祖五十八歳であり、 関東在住の時に法印の自筆本から書写されている。 宗祖は、 以来本鈔を生涯に少なくとも八回書写されている。