本書の編者は実悟である。 本書は 「蓮如上人御若年砌事」 「順如上人願成就院殿事並応仁乱「加賀一乱並安芸法眼事」 の三部からなっており、 「蓮如上人御若年砌事」 と 「加賀一乱並安芸法眼事」 にはそれぞれ奥書が記されている。
まず 「御若年砌事」 は、 奥書の 「天正三年八月四日」 との記述から、 その書写年時が知られる。 また、 奥書には 「右此一巻は、 山科殿にて写申たる書にてさふらふ也。 但誰人の書とも覚へ不↠申候。 光応寺蓮淳にてさふらふ歟と存じさふらふ。 慥かなる事は覚へ不↠申候。 努々不↠可↠有↢外見↡者也。  実悟」 とあり、 実悟が 「御若年砌事」 の制作者を正確に知り得ないまま、 山科にて書写したことがわかる。 さらに奥書には、 「此一巻は、 如此調さふらひて、 大坂殿の大蔵御局へ進じたる事也。 龍玄に被↠尋さふらひて、 蓮淳の書と見へ申候」 とあり、 実悟は 「御若年砌事」 を 「大坂殿ノ大蔵御局」 という人物へ進上し、 また、 龍玄からその作者が蓮淳上人の第六男の蓮淳であることを確認したことがわかる。 蓮淳は第九代実如上人及び第十代証如上人を補佐して教団の発展に尽力し、 近松顕証寺や長島願証寺の住持を務めた人物である。 作者を蓮淳とすることについてはさらに、 ¬蓮如上人塵拾鈔¼ にも 「此壹巻計、 蓮淳の尋、 龍玄御かき候書也」 とあり、 「御若年砌事」 は龍玄より尋ね聞いたことをもとに、 蓮淳によって著されたものであるとしている。 また、 先の奥書にみえる 「大坂殿ノ大蔵御局」 という人物については、 ¬日野一流系図¼ において出口光善寺に関係する人物数人に 「大蔵卿」 と記されていることから、 光善寺の関係者であるとする見方が有力である。 さて、 「御若年砌事」 の構成は十箇条からなっているが、 蓮如上人の門弟八人によって記されたとされる ¬山科連署記¼ には、 六箇条として収録されている。 これについては、 はじめに蓮淳が六箇条からなる 「御若年砌事」 を完成させ、 後に実悟が増補して十箇条としたとする指摘がなされている。 「御若年砌事」 の内容は、 蓮如上人の若年時代を忠臣に記述されており、 幼少より非常に質素な生活であったことや、 ¬教行信証¼ ¬六要鈔¼ ¬安心決定鈔¼ 等を破れるほど拝読して修学に励んだことなどが記されている。 また、 若年の頃のことだけではなく、 隠居後の晩年の話なども収録されている。
次に、 「順如上人願成就院並応仁乱」 及び 「加賀一乱並安芸法眼事」 は、 もとは実悟の自筆本があったとされるが、 現在は伝わっていない。 「順如上人願成就院並応仁乱」 の内容は、 蓮如上人の長男である順如について示され、 とりわけ応仁の乱における動向が記されている。 順如は教団内において渉外役を担っており、 応仁の乱の際には東西両軍にも出入りしていたようである。 また、 両軍どちらに対しても気配りのある対応をとっており、 その様子が詳細に述べられている。
最後に 「加賀一乱並安芸法眼事」 は、 その奥書に 「天正三 称蒙人定 金商梢初秋十日/苾蒭 兼俊 順毛有余 在判/佐栄大僧都御房」 とあることから、 天正三 (1575) 年に実悟によって著されたことが知られる。 また、 「佐栄大僧都御房には 「教行寺三代目法名証誓」 との中期が付されており、 実悟は 「加賀一乱並安芸法眼事」 を証誓のために著したことがわかる。 「加賀一乱並安芸法眼事」 の内容は、 蓮如上人の門弟であった下間蓮崇について記されている。 蓮崇は蓮如上人の有力な門弟であったが、 一揆を煽動したとして蓮如上人から勘気を蒙り、 最晩年に至ってようやく赦免されている。 「加賀一乱並安芸法眼事」 には、 このような蓮崇の動向とともに、 加賀の守護を攻め滅ぼした長享の一揆などについても述べられているが、 全体としては蓮崇の身勝手なふるまいを示す記述が多くを占めている。