本抄の著者については、 如信上人説、 覚如上人説などが見られたが、 現在は河内の唯円とすることが定説となっている。
すなわち、 序の 「故親鸞聖人御物語之趣、 所↠留↢耳底↡、 聊注↠之」 からは、 直接宗祖の教えを聞いた人物であること、 また第二条の 「おのおの十余ヶ国のさかひをこえて」 からは関東より上洛した人物であることが分かり、 宗祖示寂の九年後に生れられた第三代覚如上人でも、 宗祖の膝下で育たれた第二代如信上人でもないことが知られる。 また、 第九条・第十三条の宗祖と唯円との対話は、 当事者によって書き留められたものと考えられることから、 本抄の著者は唯円とされている。 唯円については、 宗祖の門弟内に河和田の唯円や鳥喰の唯円などが見られるが、 ¬慕帰絵詞¼ に 「正応元年冬のころ、 常陸国河和田唯円房と号せし法侶上洛しけるとき、 対面して日来不審の法文にをいて善悪二業を決し…唯円大徳は鸞聖人の面授なり、 鴻才弁説の名誉あり」 とあることから、 河和田の唯円とされる。 なお、 唯円の示寂の年については、 ¬諸寺異説弾妄¼ に 「正応元年上都して覚如上人に謁し奉り、 翌年二月六日六十八歳下市にて往生せり」 とあるが、 唯円の旧跡である水戸市河和田町の報仏寺の本尊台座に 「正応元年八月八日」 とその示寂の年が記されており、 確定されていない。
著述年代は、 唯円が正応元 (1288) 年ごろに示寂したと見られることと、 後序に 「露命わづかに枯草の身にかゝりてさふらう」 とあること、 覚如上人が既に本書を熟読していると考えられることなどから、 唯円の晩年ごろ、 宗祖示寂の後、 二十年を経た頃と推定される。
本抄は宗祖示寂の後、 宗祖の真信に異なる考えが生じたことを嘆き、 同心行者の不審を除くために著されたものである。 また、 後序に 「信心ことなることなからんために、 なくなくふでをそめてこれをしるす。 なづけて ª歎異抄º といふべし」 とあることから、 題号が著者によって名づけられたことが知られる。
本抄は、 巻頭に撰述の意図を示した漢文の序があり、 続く本文は十八条からなっている。 前半の十条には著者が直接宗祖から聞いて耳の底に留めた法語を記し (師訓篇)、 第一条の 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて…」 や、 第三条の 「善人なをもて往生をとぐ。 いはんや悪人をや」 などはよく知られている。 第十条の後半には、 第十一条以下の序文と見られる 「そもそも、 かの御在住のむかし……いはれなき条々の子細のこと」 と、 異義の生じたことを嘆く文があり、 後半の八条には宗祖示寂の後に生じた誤った考えを嘆いている (歎異篇)。 歎異篇については、 誓名別信の計と専修賢善の計とに大別できるとされている。 なお、 第一条と第十一条、 第二条と第十二条、 第三条と第十三条は対応関係にある。 これに続く後序の文では、 宗祖の吉水時代にも他力回向の信心を誤解する人がいたことを信心一異の諍論としてあげ、 後の者も宗祖の教えを誤解してはならないとして 「聖人のつねのおほせ」 が記されている。 また、 後序に見られる 「大切の証文」 が何を指すのかについては、 流罪記録等とする説や、 本抄前半の師訓篇とする説、 「大切の証文」 の直後に記される 「弥陀の五劫思惟の願を……」 と 「善悪のふたつ……」 との 「聖人のつねのおほせ」 である法語とする説などの諸説が見られる。