本書は、 存覚上人の撰述である。 存覚上人については ¬存覚一期記¼ を参照されたい。 本書は、 ¬報恩講嘆徳文¼ とも称されるように、 古来より報恩講の際に、 ¬報恩講私記¼ とともに諷誦されてきたものである。 文体はきわめて華麗であり、 語調は整えられている。
その内容は、 宗祖の事蹟を略述して遺徳を讃嘆し、 教義の概要を顕したものである。
まず、 聖人の博覧は仏典に限らずその他の典籍にも広くわたっており、 ひたすら勉学修行に励まれたことを讃えている。 幼少の頃より伯父である日野宗業のもとで学び、 比叡山に登られてからは、 天台の教理について研鑽を積まれるが、 出離の要道を求め苦悩する宗祖の心情を克明に表している。 また、 六角堂における観音菩薩の夢告により源空 (法然) 聖人に値遇し、 浄土門に帰入され、 「浄土三部経」 をはじめとした法義の要を宗祖が相伝されたことを明かしている。 次に、 ¬教行信証¼ の撰述および宗祖が顕された二双四重の教判を讃えている。 二双四重の教判は、 横・竪、 超・出を組み合わせて、 釈尊一代の仏教を横超・横出・竪超・竪出の四種に分類し、 仏教全体における浄土真宗の位置づけを明らかにしたもので、 北宋の択瑛法師の 「弁横竪二出」 を参考にしたものとされる。 さらに ¬愚禿鈔¼ の撰述の意趣と愚禿の名のりについて記し、 次いで宗祖が明かされた二教二義対を讃じている。 続いて、 宗祖は承元の法難により越後の地へと赴かれたが、 さらに関東、 京都と居所を移しても、 たゆむことなく多くの人々を教化されたことを讃えている。 また、 宗祖の示寂から歳月を経ても、 大谷廟堂には全国各地の教えを受けた人々が報恩の思いから集まり続けていることを、 宗祖滅後の徳と讃嘆している。
そして、 末尾には、 「凡三段之 ¬式文¼、 称揚雖↠足、 二世之益物讃嘆未 ズ ↠倦。 是故加↢一千言之褒誉↡、 重擬↢百万端之報謝↡」 と記している。 すなわち、 宗祖の広大なる恩徳は、 すでに ¬報恩講私記¼ の表白文に讃嘆し尽くされているが、 その在世滅後にわたる利益は讃嘆してもし尽くすことはない、 よって一千におよぶ讃嘆の語を加え、 重ねて数限りない報謝をささげようとするのである、 と本書制作の意趣を述べている。 最後に、 あらためて教化衆生の願いを示して本書を結んでいる。
なお、 本書には、 ¬報恩講私記¼ に示されない内容もみられる。 たとえば、 その二、 三を挙げると、 ¬恵信尼消息¼ 第一通と同じく宗祖が六角堂の参篭から源空聖人の許に通われたことが明記されている点、 ¬教行信証¼ の内容を示して二双四重の教判を明かし、 ¬愚禿鈔¼ を並べ挙げる点や承元の法難による越後流罪などである。
本書の撰述年時は、 文明七 (1787) 年に刊行された ¬真宗法要¼ 所収本の奥書に、 「延文四己亥年十一月十六日草之訖蓋是/始自二十八日当月之御忌可有尽未来際/毎度闡揚由依為本所願望愁記短才卑言/且専感興隆発意大志且兼擬至愚報恩一/端者也/存覚万七十/俊玄律師自去此雖誂之持念懈怠処御忌/近近間期日以前為可致清書此両三日忘/他事草之今日十六日加中書畢/近年依俊玄僧都 于時律師 発起草送已来当台/講演次同用而件本全分草案頗以左道/問今所染老筆也/貞治五丙午歳五月十三日/常楽台主釈存覚 七十七」 とあることから知られる。 これによれば、 延文四 (1359) 年、 存覚上人が七十歳の時に宗祖の報恩講に用いるため、 存覚上人の甥にあたる本願寺第四代宗主善如上人 (俊玄) の求めに応じて本書を制作し、 貞治五 (1366) 年に再治清書したことになる。
本書には存覚上人の自筆本は現存しない。 なお、 報恩講の際に諷誦されてきたためか、 蓮如上人以降には、 本願寺の歴代宗主による書写本が多数みられ、 蓮如上人書写本の延書本にみられるような ¬報恩講私記¼ との合冊本も少なくない。