本書には、 諸処に散佚した宗祖真筆の願文、 経文、 和讃のうち、 現在発見されているものをまとめて翻刻した。
 これらの断簡を、 散佚する阿恵の原本から類推して大別すると、 願文・経文・二首の和讃 (「大日本国粟散王…」 「五十六億七千万…」) のグループと、 前記の二首以外の十三首の和讃 (皇太子聖徳奉讃) のグループとの二つに分けて考えることができる。
 前者について述べると、 これらは本来、 一部の聖教をなしていたものの断片であり、 その聖教は一般に 「浄土和讃」 という名で呼ばれている。 ただし、 この 「浄土和讃」 とよばれる聖教は、 「三帖和讃」 の一としての ¬浄土和讃¼ とは同名異本のものであり、 内容は全く異なる。 またこの聖教一部を 「宗祖御筆跡集」 と呼称する場合もあるが、 その呼称は、 後述の大谷大学蔵本の外題によっている。
 さて、 この 「浄土和讃」 については、 その原型を伝える写本が、 愛知県上宮寺と大谷大学図書館とに伝わっている。 構成について見ると、 上宮寺蔵本では、 「浄土和讃」 とあり、 和讃が十三首引かれ、 「大无量寿経言」 「无量寿如来会言」 「業報差別経言」 「涅槃経言」 と経文の抜粋が続き、 最後に 「往相廻向還相回向文類」 が置かれ、 奥書に 「康元元丙辰十一月廿九日/愚禿親鸞 八十四歳 書之」 とある。 一方、 大谷大学蔵本は構成をやや異にしており、 はじめに 「宗祖御筆跡集」 との題が置かれ、 「大无量寿経言」 に示された願文は、 上宮寺蔵本より一つ減って九願となっている他、 「无量寿如来会言」 「業報差別経言」 を欠き、 「往相廻向還相回向文類」 には一部脱葉がみられる。 のこの十三首の和讃は、 両本ともに 「浄土和讃」 と記されているが、 国宝本では ¬正像末和讃¼ に記されており、 「三帖和讃」 の成立過程を知る上において注目される。
 ところで大谷大学蔵本の奥書には写伝の由来が示されており、 現在のように、 宗祖真筆の原本が散佚してしまった経緯について知ることができる。 すなわち江戸時代の初期に、 本願寺の坊官下間刑部頼廉が退任に際して、 宗祖真筆の原本を所持したのであり、 後に頼廉がそれを解綴したのだという。 しかし解綴するに当たっては、 それを取り持った人物が、 原本をうつぼ字にて書写しており、 それが後に恵空によって書写され、 更にそれを影写したのが、 この大谷大学蔵本なのである。 近年、 この散佚した紙枚が漸次発見されつつあり、 本書には、 大谷大学蔵本と照らしてみれば、 本来 「大无量寿経言」 に九つの願文がある内の七つ (第二十二願は一部) と、 「大集経言」 と 「涅槃経言」 と、 和讃十三首のうち二首とを収録した。  次に後者の 「皇太子聖徳奉讃」 について述べると、 「皇太子聖徳奉讃」 は、 高田派専修寺像真仏上人書写本の奥書には 「建長七歳乙卯十一月晦日書之/愚禿親鸞 八十三歳」 とあり、 真宗大谷大学蔵覚如上人書写本にも同様の奥書がある。 本書のものは、 これらの原本となった宗祖真筆本が散佚したものとされる。 但しこの 「皇太子聖徳奉讃」 は、 前者の 「浄土和讃」 とは異なり、 諸処に散佚した経緯については不明である。